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幸兵衛の小言

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“原子力大臣 正力松太郎”の誕生 (『死の灰と闘う科学者』より)

三宅泰雄著『死の灰と闘う科学者』から、昨日長めの引用をしたのだが、補足的に昨日の後のページも紹介しないと“言葉足らず”のように思い、あと少しだけご紹介。
 1954年3月の原子力関連予算の国会通過が、日本の原子力政策を左右する「その時」であったことは、すでに指摘したが、その後にも大きな「その時」、あるいは「その人」の存在があった。今回この本から引用するのは、原子力委員会発足当時の委員長のこと、そして発足時に委員として名のあった人たちのその後などについて書かれた部分である。

原子力大臣の出現 
 このときの内閣総理大臣は鳩山一郎氏(第三次)であった。閣僚の一人に正力松太郎氏がいた。正力氏は入閣をもとめられたさい、防衛大臣のポストをあたえられようとしていた。しかし、彼は「原子力大臣ならやる」と自ら原子力担当大臣を買って出た。
「彼(鳩山総理)はキョトンとした。“原子力って何だね”総理大臣が知らないのも無理はない。この時初めてわが国政府機構の中に原子力を中心とする科学技術全般を専管する大臣のポストが決り、その本格的政治が動き出したのだった」と正力氏はのちに、こう書いている(『原子力開発十年史』)。
 現代国家の総理大臣ともあろう人が「原子力」を知らないとは、おそれいった次第だが、それを「無理もない」とする正力氏にも問題がありそうだ。アイゼンハワー大統領が、「原子力を平和へ」の大演説を国連総会でおこなったのは、すでに二年も前のことであった。また、1954年の国連総会は、最大の政治的課題として、原子力平和利用の決議を採択した。1955年8月には、ジュネーブで国連主催の原子力平和利用会議が開催されたばかりであった。
 正力氏は翌年(1956年)1月1日に発足した原子力委員会の初代委員長になった。ついで、その年の5月19日にスタートした科学技術庁の初代長官のポストにおさまった。原子力委員会の委員の人選のさい、学術会議原子力問題委員会委員長藤岡由夫博士を、委員にすることに、正力氏はきわめて消極的であった。しかし、彼はノーベル賞受賞の湯川秀樹教授(京都大学、物理学)を入れて、委員会を内外ともに権威づけようとした。それとひきかえに、しぶしぶ藤岡氏の委員就任を承諾したのであった。
 藤岡博士の背後にある日本学術会議が、正力氏らが考えているような、原子力政策を、真向から批判することは目に見えていた。それが藤岡博士を忌避した理由である。しかし、懇請のすえ、ようやく入ってもらった湯川教授は、性急に輸入によって原子力発電を実現させようとする正力氏の意見との間に、本質的な相違を感じた。湯川教授は、はやくもその四月には辞表を出し、病気欠席のまま、翌年(1957年)には正式に辞任した。こんなことなら、面倒をかける大学人とは、むしろこちらから縁をきりたいと正力氏が考えたのは、当然のことであろう。
 すでに原子力委員会は、大学とは公式交流はしないことになっていた。委員の中には、社会党からの推せんをうけて、有沢広巳教授(東京大学、経済学)が入っていた。委員就任のさい、矢内原総長から、原子力委員会が大学の自治をおかさぬという約束をかたくなに守るようにいわれていたことは、いうまでもないことであった。
 科学技術庁設置法案を起草するにあたって、大学との絶縁状を法文化し、「こちらから」積極的に大学との縁をきろう、という一石二鳥の妙案が、正力氏はじめ、政府高官の間で練られていたことは、たしかなことである。


 当時の総理大臣鳩山一郎の原子力に対する“感度”の低さには、情けないほど呆れてしまう。

 湯川秀樹教授は、原子力委員会発足の前年、米ソによる水爆実験に反対し、“核廃絶・科学の平和利用”を訴えた「ラッセル・アインシュタイン宣言」に署名した世界の科学者11人の中の一人である。湯川博士が、正力委員長の独断専行でアメリカからの輸入による原子力発電所の早期建設という動きに抵抗して委員を辞任した行動は、よく分かる。しかし、いくらノーベル賞受賞者にしても、あくまで一人の人間にすぎなかったということなのだろうか。残念ながら、正力原子力担当大臣任命後の原子力政策について、この著名な物理学者にしても歯止めをかけることは出来なかった。

 原子力委員会と科学技術庁が発足した昭和31(1956)年当時、鳩山一郎は73歳、正力は二歳年下の71歳と年齢は近い。しかし、政治家としてのキャリアは、正力が前年昭和30年の選挙で富山二区から立候補して初当選したばかり。政治家年齢なら、大人と子供の開きがあったと思うが、昭和28(1953)年に日本テレビ開局によって波に乗る正力と、三年後の昭和34年3月に亡くなった鳩山とでは、心身ともに勢いの違いがあったのかもしれない。

 組織が何か大きな事を成し遂げるには、その活動の“ダイナモ”(発電機)役が必要だ。日本の原子力政策にとって、正力松太郎は、まさにうってつけのダイナモとなった。テレビ局やプロ野球球団を経営することによる功罪のバランスシートは、あながちマイナスではないかもしれない。子供の頃、ジャイアンツを応援し、プロ野球選手になる夢をふくらませた野球少年もいた。しかし、こと原子力政策に関して言えば、彼のようなパワフルなダイナモが日本各地に原子力によるダイナモを建設することに貢献したことのバランスシートをしっかり見直す必要があるように思う。
Commented by 川嶋信雄 at 2011-05-24 15:46 x
私のブログ「ノボ村長の開拓日誌」で、こちらの記事にリンクさせていただきました。勝手で申し訳ありませんがよろしくお願いします。
http://d.hatena.ne.jp/kawasimanobuo/20110524/p1

Commented by 小言幸兵衛 at 2011-05-24 16:01 x
もちろんリンク結構です。
ちなみに、本件の舞台裏は、有馬哲夫著『原発・正力・CIA』(新潮新書)に詳しいので、二度に分けてブログで書きました。未読であればぜひお読みになることをお奨めします。

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by koubeinokogoto | 2011-04-13 20:57 | 原発はいらない | Comments(2)

人間らしく生きることを阻害するものに反対します。


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