松本直治著『原発死』—原発の「安全管理」業務が招いた31歳での死。
佐平次さんのブログ「梟通信」2012年4月12日の内容
本書は潮出版社から1979年に初版が出され、昨年8月に増補改訂版が発行された。私が入手したのは8月24日付けの改訂二版。もっと重版されることを期待する書である。
松本直治著『原発死 増補改訂版』
まず、著者のプロフィールを同書から引用したい。
松本直治(まつもと・なおじ)
1912年富山県生まれ。東京新聞社、北国新聞社を経て、北日本新聞社の編集局長、論説委員長、取締役を歴任。著書に『新生マレーの表情』『人間山脈』『大本営派遣の記者たち』『火の墓標』などがある。1995年、83歳で死去。
井伏鱒二の序文に次のように書かれているように、著者は太平洋戦争開戦直前から従軍記者として南方に派遣されていた。
今、ふと思い出した。私たちが輸送船のアフリカ丸で南航中、松本君は結婚してまだ間もないから子供がないが、子供をほしいものだと云ってゐた。もし無事日本に帰還したら、女房にどうしても子供を生ませてやる。男の子を持ちたいものだとゐつてゐた。ところが希望通りに男の子供が生れ、その子が働き盛りになりかけて放射能にやられて亡くなったわけである。三十一歳で亡くなったといふから、松本君が徴用解除で日本に帰つて、二、三年ぐらゐに生れた子供だらう。「放射能」と書いて「無常の風」とルビを振りたいものだ。
本書の巻末には、井伏、そして井伏の奥さんの代筆になる封書とハガキ、63通の内容が掲載されている。その内容を読むと、本書の序文を依頼された井伏が、当初は固辞していたことが分かる。
昭和54(1979)年4月5日の手紙を紹介したい。
拝復
貴翰拝見しました。
四月に入って寒い日がつづいてゐましたが、昨晩の嵐を経て急に和やかな日射しになりました。ほつとしました。
「潮」の御作評判がとかつたやうで何いりです。
益々御健筆の趣大慶です。仰せの序文は誰か適当の人をお選びになつては如何でせうか。今、ちやうどアメリカでも問題になつてゐるところでもあるし、序文は専門家に任せた方がいいのではありませんか。
私は原水爆のことは何も知りません。出版社の人と宜しく御相談になつた方が良策かと思ひます。新聞社の人か朝日ジャーナルの人にお頼みになつたらいかがです。
小生、両三日中のうちに東京へ帰ります。
御自愛を祈ります。 早々不一
四月五日 井伏鱒二
この時、井伏は熱海にいた。この後の手紙でも序文を辞退する内容がある。松本は、どうしても井伏に書いてもらいたく、その熱意に井伏が翻意したことが察せられる。“戦友”からのたっての頼みに、最後は断ることができなくなったのだろう。
著者の一人息子である松本勝信さんは、北陸電力に入社し、原子力への夢を抱いて日本原子力発電の東海原発で研修を受け、そのまま東海原発で安全管理の業務に従事したあと、敦賀原発でも安全管理の仕事に就くことになる。しかし、この「安全管理」業務とは、原発現場作業員の安全を管理する仕事で、言葉に反して被曝への「危険」に直面する仕事であった。
発病当初は医者の診断ミスもあり「舌ガン」の発見が遅れたこともあるが、若い時の癌の進行は早く、またたく間に勝信さんの全身を蝕んでいった。
亡くなる昭和49年の春、見舞いに訪れた父と子の会話を引用したい。
何時の見舞いだっただろうか、病院の庭に出て、少し歩いてみた。前にきた時は沈丁花の花が強い香りを放っていたのに、今はもうすでに落ち、見上げる一本の桜の木の蕾が次第にふくらみを見せていた。枝に若干、ひらきかけら花をつけているのもある。
「来年、桜の花を見ることがあるかなあ」
息子と並んで眺めやると、息子の口からふとそんな言葉が出た。静かな広い庭を白衣の看護婦が、通路に通じる道を小走りに去って行くのが見えた。それは病院の一つの点景であることをはっきり意識させた。
この部分を読んでいる時が、ちょうど桜の散る頃であったので、私は通勤電車の中で読みながら目頭が熱くなった。
放射線被曝による癌にコバルトを浴びせるという皮肉な放射線治療は、勝信さんの体力をどんどん奪っていった。
放射線治療はいつまでも続けられるものではなかった。抗ガン剤と栄養剤を飲み、注射を打つしか方法がなかった。時々、激痛が脳を襲った。息子は頭を両手で掻きむしり、ベッドに転がった。主治医は、脳の骨が崩れはじめているためだと言った。
そして、この年の11月14日、31歳の若さで亡くなった時にはガンは全身に転移していた。
彼は、「第3の火」として原子力の未来に期待して希望した仕事そのものが、彼を死に至らしめようとしていることを分かってはいたはずだが、決してそのことを口にしなかった。「癌」という言葉さえ家族の中で口にされることはなかった。
著者は、息子の死の原因は原発での「安全管理」という業務で被曝したことにあると確信し、勝信さんの死後、仕事先であった日本原電や雇用主であった北陸電力の幹部を訪ねるものの、彼らが被曝と癌の因果関係を認めるはずもなかった。
この本のあとがきには、次のようにある。
息子の死因は舌ガンとその後の全身転移である。私たち老夫婦は不運だとあきらめるにはあまりにも深いわだかまりと疑惑が心のキズとなって残った。というのは息子は地元の北陸電力から東海村の日本原子力発電所と敦賀原発に勤務、放射線を浴びた。
今日、放射線被曝と、ガン発生の因果関係の立証は難しい。だが、立証となれば被曝者側ではなく、むしろ企業側にこそ挙証責任がある。
私は丹念に事実を掘り起こすことで、解明のいしずえの一つになろうと心に決めた。私は息子の墓碑に「魂永遠にここに眠る」と刻んだ。息子は魂をここに残して見守っていると信じたい。そのためにも私は、この原発に対して何かの証をせねばならぬと誓った。
私は書いては消し、消しては書き、病める原発への証言を綴り続けた。これは「私の手記」というより息子の「死の記録」といっていい。たとえ親バカと笑われようとも、吹きすさぶ無常の風の下に、私は息子とともに立ち、ひとみをこらしてそのゆくえを見守ろうと思う。
著者の姪御さんである矢来千代子さんが、国学院大学の上田正行教授が金沢大学時代に開いていた日本近代文学の演習を履修した縁から本書に掲載されることになった井伏鱒二の数多くの書簡も貴重な記録だ。
そして何より、原発の将来性を信じて電力会社に入社し、原発の現場作業員の安全管理に従事することで、自らが被曝し若くして亡くなった勝信さんの無念と、その無念さを晴らそうと奮闘するジャーナリストの父親の記録は、未だに無謀にも原発を再開しようとする者たちが新たに数多くの人々の不孝を招こうとしていることを、生きた肉声の感覚で明らかににしてくれる。コラムニストとしても著名な著者の文章は読みやすく、そして味わいがある。
高木仁三郎さんが“市民科学者”として原発の危険性を解き明かした数々の本、堀江邦夫さんが原発の現場作業員として従事した貴重なルポルタージュに加え松本直治さんの本書は、今の日本人の必読書であると思う。永田町や霞ヶ関にいる彼らは読もうとはしないだろうが、すでに「シーベルト星人」に侵入された彼らは、日本人ではないどころか、人間でさえない。しかし、この本を読むことで覚醒することができるかもしれない、というわずかながら残った期待は捨てないでおこうと思う。