「戦後」の機雷掃海で、約80名もの方が亡くなっている。
TBS「報道特集」で、現役自衛官へのインタビューが放送された。
私が、安保法案(戦争法案)騒動の中で、もっとも知りたいことの一つだった。
安倍が「安全」という言葉を振り回すことが、もっとも不安だ、という言葉が彼らの本音だろう。
妻や子供が、「この法案が通ったら、お父さんは死ぬの?」と聞かれる、という彼ら自衛官と、安倍晋三や中谷は、一対一で話し合うだけの覚悟はできているのか・・・・・・。
安倍晋三は、「後方」だとか詭弁を弄しているが、「機雷の掃海」という仕事が、決して生易しいものではないことについて書きたい。
6月17日の「報道ステーション」には、朝鮮戦争においてアメリカの命令によって機雷の掃海にたずさわった「日本特別掃海隊」で、唯一犠牲になった中谷坂太郎さんのお兄さんが登場していた。
太平洋戦争の終結後にも、機雷の掃海で、数多くの犠牲者が出ている。
昭和20年8月15日の後も、日本近海には夥しい数の機雷があり、掃海をする中で、多くの犠牲者が出たことは、意外に知らされていない。
もちろん、この時期、安部政権は、そういった報道に目を光らせているし、メディアは、お得意の‘忖度’をする。
毎年、四国の香川県高松市琴平では、「掃海殉職者追悼式」が行われている。
防衛省のサイトから、二年前第62回の追悼式の資料をダウンロードできる。
第62回掃海殉職者追悼式等(PDF)
資料の冒頭部分を引用。
太平洋戦争中、瀬戸内海及び日本近海には6万7千個に及ぶ各種機雷が敷設されましたが、戦後、掃海部隊はこれらの膨大な機雷の掃海に従事して、総面積3万2千平方キロ、180カ所にのぼる主要な航路、港湾泊地を啓開し、我が国、産業経済の復興に大きく貢献しました。この間、各掃海隊員は風浪と戦い、寒暑を克服して、危険な作業に挺身しましたが、不幸にも79名の方が職に殉ぜられました。これら、掃海殉職隊員の偉業を永久に称えるため、海にゆかりの金刀比羅宮境内の中に「掃海殉職者顕彰碑」が建立され、毎年、その碑の前で追悼式が実施されています。‘戦中’ではなく、‘戦後’に機雷の掃海で八十名近くの方が亡くなっているのだ。
二年前の追悼式で、追悼の辞を述べられた海上自衛隊掃海隊群司令海将補の德丸伸一さんの追悼の辞から、引用したい。
私の父も戦後掃海に参加し、今年で八四歳になります。私は、この追悼式に参加するに当たり、父からこれまで幾度となく聞いてきた同僚が志し半ばで職に殉じられた情景について思いを致しております。
私の父は昭和二十年十二月から昭和二十七年五月の海上警備隊入隊までの間、佐世保掃海部、下関掃海部そして神戸海上保安部航路啓開部においてディーゼル員として勤務しておりました。その間、昭和二十五年十月の韓国元山沖の掃海業務にも従事しております。そして、三度危険と隣り合わせとなり、今考えても生き残れたのが幸運であったと申しております。一度目は玄界灘で掃海作業に従事している時でした。中学を中退し、十五歳で予科練に入り二 ヶ月で終戦を迎えた父は、幼い頃に病で父を亡くし母子家庭であったこともあり、針生にある第二復員省の地方局で職を探しておりました。その時、掃海艇乗組員の募集があったため、父は直ちにこれに応募しました。今回この追悼式に参加しております掃海母艦うらが艦長、触井園二佐の御尊父も予科練を経て戦後掃海の道に入り、定年まで掃海部隊において勤務されています。航路啓開開始当時の掃海艇には元パイロットが養成途上の者も含め多く乗り組んでいたとのことです。第二次大戦後、それまで船乗りであった者は復員船等の比較的安全でかつ待遇の良い業務に従事することが出来ましたが、掃海については、危険でかつ厳しい業務であることから志願者が少なく、乗船経歴が無くとも従事することができる職務であったため、予科練出身者等が多く乗挺していたそうであります。危険に果敢に挑むDNAの萌芽がここにも有るような気がします。さて、最初の危険との遭遇の話に戻りますが、戦後掃海の始まりにおいては、まだ復員省も組織だった業務を実施するには至らなかったようで、父が掃海艇乗組員に志願した際には、志願者は2 列に並ばされ、前列は駆潜特務艇248 号に、後列は250 号に乗り組むように指示されたそうです。一度前列に並んだ父は、友人の顔を後列に認めたため、そこに移動しました。その後、掃海作業中に、前列が乗船した248 号が触雷し、沈むこととなりました。二度目の危険は下関の満珠島付近での磁気掃海作業中の出来事です。父が乗り組んでいた駆潜特務艇は、当日は母船を支援する脇船として掃海作業に従事する予定でしたが、母船が出すべき電らんを作業員が誤って繰り出してしまいました。これを揚収するにはまた手間がかかるため、父の乗る艇は、そのまま母船として電らんを曳航することとなりました。母船になると発電機により電らんに電気を供給しなければならないため、ディーゼル員としての作業はきつくなります。父は、ついていないと思ったそうでありますが、共に作業をしている掃海艇3 隻で回頭している最中に脇船が触雷し沈みました。三度目は韓国の元山においてであります。まず、掃海開始前に陸から射撃を受けたそうです。
それに対し、米国は駆逐艦による艦砲射撃を行い、この攻撃を阻止しました。その後、4 隻で掃海作業を開始しました。父の乗艇する掃海艇には機雷敷設に詳しい者がおりまして、その者が、元山にある大きな木とそこから離れた岩を見て、これを結ぶラインは危険だから避けた方が良いと艇長にリコメンドし、そのとおりにしたそうです。後続してくる掃海艇はそのラインの方向に向かい、その後、触雷しました。皆様ご存知のとおり、この時、作業のため艇内に入った1 名の方が殉職いたしております。もし、父がこのいずれかの機会で殉職していたならば、私はここで追悼の言葉を述べることはできておりません。ここで眠られている79 柱のご英霊も、本来であるならばご家族と、そして新しく引き継ぐ命と共に幸せな家庭を築けたところ、その職に殉ぜられましたことは、痛恨の極みでありましょう。輝かしい航路啓開の偉業と共に、途半ばにして壮烈な殉職を遂げられた皆様のあったことは、我々掃海部隊の末裔のみならず、すべての日本国民の心にとどめられ、その誇りは長く語り継がれることでありましょう。
機雷掃海の危険性を、安部晋三は、どれほど認識しているのだろうか。
今年の追悼式について、毎日新聞の記事をご紹介。
毎日新聞の該当記事
殉職顕彰碑:掃海など79人 元司令、安保法制に「心配」
毎日新聞 2015年05月31日 09時05分(最終更新 05月31日 09時13分)
太平洋戦争の終戦後、日本近海に残った機雷の除去(掃海)などで殉職した79人の顕彰碑が、海上安全にゆかりのある金刀比羅宮境内(香川県琴平町)に建っている。政府は安全保障関連法案の審議で、中東ホルムズ海峡での機雷掃海を集団的自衛権行使の事例に挙げる。時代が変わっても掃海作業は危険を伴う任務だ。安保論議を見守る遺族や海上自衛隊関係者は「二度と殉職者を出してはならない」と訴える。
防衛省によると、米軍などは太平洋戦争中、日本近海に約6万7000個の機雷を仕掛けた。旧海軍省は1945年10月、掃海隊を編成して機雷の除去作業を開始。52年に全国の主要航路・港湾で安全宣言が出されたが、その間、作業中の爆発事故などで78人もの命が失われた。
顕彰碑は全国の港湾都市の首長が発起人となって52年に建立された。縦約6メートル、横約2.4メートルの巨大な石碑で、碑文は吉田茂首相(当時)が揮毫(きごう)した。63年に掃海訓練中に事故死した海自隊員1人を含めて79人の名を刻み、毎年初夏に追悼式が催されている。
毎年参列している櫛野弘さん(85)=広島県福山市=の兄勲さん(享年20)は45年10月、大分県沖の瀬戸内海で掃海作業中、船が機雷に触れて沈没し亡くなった。44年秋に徴兵され、終戦になって帰郷した翌月だった。
安保関連法案の論議では機雷掃海が焦点になっているが、櫛野さんは「一般の人は機雷といわれてもピンとこないし、掃海の怖さを知らないと思う」と懸念する。「二度と人の命が奪われることがあってはならないが、上の人が決めたら行かなきゃいけないのは今も昔も同じ。国は残される人のことを考えてほしい」と訴えた。
残存する機雷の掃海作業は、海自が引き継いだ。元掃海隊司令の松藤信清さん(67)=同県呉市=は「安倍首相がはっきり答弁しないので思惑がよく分からないが、法整備で自衛権の発動が明確化されるのはありがたい。できるだけしっかりした任務や目的を与えてほしい」と話す。
掃海技術は時代を追って格段に向上し、安全性も高まった。91年には湾岸戦争後のペルシャ湾に海自の掃海部隊が派遣された実績もある。それでも松藤さんは「心配がないかというと、うそになる」と複雑な心境を語る。
今年の追悼式は30日午前に営まれ、遺族や掃海部隊OBら約280人が参列。犠牲者の冥福を祈った。【伊藤遥】
元掃海隊司令の松藤信清さんの「安倍首相がはっきり答弁しないので思惑がよく分からないが、法整備で自衛権の発動が明確化されるのはありがたい。できるだけしっかりした任務や目的を与えてほしい」という言葉には、いろいろと考えさせられる。
あくまで、「自衛権」であって、「集団的」自衛権ではない。
本来、攻撃を受けた場合に行使すべき「個別自衛権」が、今回の法案のせいで曖昧になっているとも言えるだろう。
機雷の掃海が、「後方」で安全だと言うのなら、安部政権の閣僚が、率先して出かけてもらおうじゃないか。
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佐平次さんとは、共通の趣味である落語をきっかけにお知り合いになったんですが、お互い、長いものに巻かれたくない性分も共通でした(^^)
ちっぽけなブログでも何かできることがないか、考える日々です。
しかし、小言を言いたいネタに不自由しない、というのも困ったものです。
sheri-shaeriさんのブログも今後うかがいます。
今後も、気軽にお立ち寄りください。