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民主主義=多数決、ではない!-『わたくしは日本国憲法です。』より。


 安倍政権が、数の暴力を振るおうとしている。

 しかし、与党の多数は、国民の多数の声を反映するものではないのは明らか。

 民主主義が多数の意見を反映するのなら、数多くのメディアの世論調査で、圧倒的多数で反対の声が上がっている戦争法案が、なぜ国会で採決されようとしているのだろう・・・・・・。

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朗文堂さんの本書の案内ページ

 作年、私の落語愛好家仲間であり、人生の大先輩である佐平次さんの弟さん、鈴木篤弁護士が書かれた『わたくしは日本国憲法です。』を、四回に分けて記事に書いた。

2014年8月25日のブログ
2014年8月26日のブログ
2014年8月27日のブログ
2014年8月28日のブログ


 本書は、日本国憲法自身が憲法について語る、という形式で書かれた素晴らしい本。
 発行元の朗文堂さんのサイトで案内されているように、昨年、「日本図書館協会選定図書」になっている。

 昨年書いた四回の記事の三回目とほぼ重複するが、民主主義と多数決について、本書の主張を、あらためて紹介したい。

「多数決は民主主義の原則?」の章から。
 憲法さんは、怒っているのだ。
 「多数決は民主主義の原則」という考え方は国民の中に深く浸透しているようにおもえる。
 実は、わたくしが長年の間「違う!違う!そうじゃない!」とおもってきたことのひとつが、この考え方なのだ。
 戦後の教育の中でも、あるいは新聞や雑誌や出版物などの中でも、当然のように多数決は民主主義の原理と教え、語られてきている。
 ではみなさんにひとつ質問したい。多数決が民主主義の原理であるというなら、そのことと民主主義の根本は、ひとりひとりの個人をかけがえのないものとして尊重すること、つまり個人の尊厳を認めることにあるということとは矛盾しないのか?多数決とは少数意見の切り捨てではないのか?それは結局のところ、国民の中の少数者の権利や利益の制限や抑圧につながるのではないのか?

 憲法さんは、憲法13条の「すべて国民は、個人として尊重される」という民主主義の基本となる精神と、多数決の矛盾に関し、ある有名な詩を題材として主張を続ける。
 多数決を民主主義の原則だというのは根本的に間違っているのだ。本当は、多数決は民主主義の本来の原則を守り抜いた後の問題解決の方法として、民主主義とは異質な原則を例外的に制度として取り込んだものなのだ。ことばを替えていえば民主主義の限界を示すものなのだ。そのことをしっかり理解しておかないと大きな間違いを犯すことになる。
 少し前に「もし世界が100人の村だったら」という詩がインターネットを通して全世界に広がったことを覚えているひともいるだろう。その一部を抜粋するとこんなくだりがある。

 もし世界が100人の村だったら
 ・・・・・・
 6人が全世界の富の59%を所有し
 ・・・・・・
 80人は標準以下の居住環境に住み
 70人は文字が読めません
 50人は栄養失調に苦しみ
 1人が瀕死の状態にあり
 1人は(そうたったの1人)大学の教育を受け
 そして1人だけがコンピューターを所有しています
 ・・・・・・

 さて、これを見て素朴な疑問を持たないなだろうか。
 「6人が全世界の富の59%を所有している」ということは、全世界の94%のひとが所有する富は41%でしかないということだ。
 同様に、全世界の80%のひとは標準以下の居住環境に住み、70%のひとは文字も読めず、50%のひとが栄養失調に苦しんでいるということだ。
 このように、世界の中の富める者はごく僅かで、貧しくて十分な栄養も取れないというひとびとの方が圧倒的に多いというのに、なぜその多数のひとたちの願いが政治の基本に据えられず、いつまでも貧しいままになっているのか、そこには民主主義は無いのかという素朴な疑問である。

 多数決は、民主主義の原則ではなく、あくまで便法であるということを示した後で、“本当に多数決でものごとが決まるのなら、この実態をどう考えるのか”と、象徴的な詩が紹介された。

 この詩は、実はもっと長い。詩の全文は、最初に英文を訳した方による、こちらのサイトをご参照のほどを。
中野裕弓オフィシャルサイト「もしも世界が100人の村ならば」
 この詩は、NGOの開発教育協会では、国際理解のための教材として使っている。
開発教育協会のサイト

 安倍晋三は、“グローバル”という言葉が好きなようだが、この詩で語られている地球(グローブ)の実態については、知っているのかどうか。もし知っていても、彼の会食やゴルフの常連のお相手の顔ぶれを見ると、富める6人だけのための政治をしているように思えてならない。

 “世界の中の富める者はごく僅かで、貧しくて十分な栄養も取れないというひとびとの方が圧倒的に多いというのに、なぜその多数のひとたちの願いが政治の基本に据えられず、いつまでも貧しいままになっているのか、そこには民主主義は無いのかという素朴な疑問”について、憲法さんは、こう続けている。

 こうしたことは、なにも一部の「後進」国や非民主的な独裁国家に限ったことではなく、民主主義国家だと自他共に認められているいわゆる先進諸国にも共通する問題なのだ。この日本だったその例外ではない。一方に何千万円あるいは何億円もの年収を得ている一握りのひとがいて、他方では家族を抱え年収300万円以下という膨大な数のひとがいるのだから。
 民主主義がきちんと機能しているのなら、こんな不公平な状態は直ぐに解消されるはずではないか。-
 おかしいではないか。-
 こんなことがまかり通っている背後には、なんらかのトリックや秘密が隠されているのではないのか。

 まさに、民主主義が働いているなら、100人のうち、たった6人が冨の6割を所有し、80人は標準以下の居住環境に住み、70人は文字が読めず、50人は栄養失調に苦しむ、なんてことにはならないはずだ。
 憲法さんご指摘の通り、なんらかのトリックか秘密がない限り、世界中の不公平は説明できそうにない。
 では、民主主義を機能させないトリックとは何か。
 かつてこの秘密の正体は「数千の網の目」であり、トリックの正体はそれを背景にした「多数決原理」だとl喝破したひとがいた。
 どういうことかというと、権力を握っている側は、まるで数千もの網の目でからめ取るように、ありとあらゆる手づるによって国民を組織し取り込んでいて、そのため、普通に多数決を取れば自分たちに都合の悪い結論などは決してでないようになっているというのだ。そして国民の側は自分たちがそのようにからめ取られ、操作されているということに決して気づかず、自分たちは民主主義の権利を行使しているとおもいこんでいるのだ。
 今の日本でいうなら国民のひとりひとりは、学校教育や、新聞、テレビ(テレビから流れるコマーシャルも含めて)、週刊誌、雑誌、小説、音楽、演劇、映画はいうまでもなく、会社の人間関係、地域の人間関係等々、更にはこうした物に取り囲まれてその影響をどっぷりと受けている親とその子との関係、友人との関係など、それこそ文字通り「数千」どころか「数万の網の目」によって知らず知らずのうちに影響を受け、ひとつの方向に誘導されているのだ。
 この「網の目」の一端を示しているのが、最近出版された『原発ホワイトアウト』の中で紹介されている、原発から生じる膨大な余剰利潤を原資とするモンスターシステムにほかならない。この本の最後にしるされている柏崎原発のメルトダウンのシーンはフィクションだが、そこまでの部分はまさに今君たちの目の前で進行している事実そのままなのだ。
 つまり3.11大災害の直後にも、経済産業省内では原発推進を前提とした計画が策定されていたという事実、原発再稼動に向けて着々と手順を踏んでいる原子力規制委員会の動き、エネルギー基本計画での原発ゼロ方針の撤回、福島の子どもたちの健康調査の結果についての「原発事故による放射線と福島で発見されている子どもたちの甲状腺癌との間には、因果関係は無い」という発言、いつのまにかテレビやマスコミに原発反対派の学者や識者が登場しなくなっていること、政府がセールスマンとなって原発輸出を進めていることなどなど。

 原発に関しては、残念ながら、再稼働のステップが進んでいる。

 なお、『原発ホワイトアウト』は、経産省の現役官僚が仮名で内部情報を元に原子力村の実態を交えて書いた本で、最近になって文庫化された。

 憲法さんの、民主主義を阻むものが、「数千の網の目」と「多数決原理」であるという指摘は、非常に重要だ。
 数千、数万の網の目が、100人のうち圧倒的多数の貧しい人々の姿を隠し、ほんの一部の富める者の有利な多数決原理が支えている、という現実を、私も日々感じないわけにはいかない。
 憲法さんの指摘するモンスターシステムは、時間の経過と、忘れっぽい国民性を味方につけて、今まさに活発に稼動してている。

 何度か書いてきたが、今やジャーナリズムという言葉が死語になりつつある。マスコミの世界にいる多くの人は、単なるサラリーマンであり、企業の論理、経営者の意向に従うばかり。加えて、勉強不足だ。
 憲法さんも、こんな事例を書かれている。
 池上彰というひとが新聞に書いていたことによると、自分の知っているテレビのディレクターに、秘密保護法の問題を取り上げようと提案したところ、そのディレクターから「なに?それ?知らない」という対応をされたそうだが、池上彰と一緒にニュース解説の番組をつくっている担当ディレクターにしてこうなのだから、多くの国民は秘密保護法について新聞に記事が載っても、テレビでそれについて報道や解説があっても、そうしたものを見ようともせずにスルーしてしまっているということだ。
 
 テレビマンたちは、ここまで落ちたということだ。それにしても、いつまでたっても池上彰にしか教わる人がいない、というのも困ったものだ。彼なら視聴率が稼げるという商売の論理が背景にある。そろそろ別な論客の登場を期待したいが、そういう人はマスコミには出ないだろうことを、憲法さんは、次のように表現している。
 国民の中で本当の意味で民主主義を身につけて、真実を語ろうとするひとびとは、いつまで経っても「変わり者」で、「少数者」にしかならない。

 私も頑張って「変わり者」のブロガーを続けようと思う(^^)

 さて、この章の最後は次のように締めくくられている。
 多数決がこういうトリックとして効力を維持するためには、国民が目覚めてもらっては困るから、教育を変え、報道を変え、不都合な情報が国民に知られないように秘密保護法をつくる等々のことにあんなにも必死になるのだ。
 このように見てくると、多数決の原理といのは、民主主義の原理であるどころか、多くの場合、民主主義を否定し民主主義を骨抜きにする側面を持っていることに気づくはずだ。
 つまり、多数決原理は民主主義を効果的に活かすための原理という側面と同時に、その理解と使い方を間違えると民主主義を骨抜きにしかねないという側面の、二律背反する性質を持っているのだ。そのことをしっかりと理解しないで、多数決=民主主義などと安易に考えていると、とんでもない間違いを起こすことになるのだ。

 
 国民が目覚めてもらっては困る、というモンスターシステムの思いのままになっては、民主主義も憲法の精神も滅びてしまう。

 繰り返すが、多数決は、憲法13条の「すべて国民は、個人として尊重される」という大原則を踏まえ、少数意見も汲み取る努力を尽くした後に、やむを得ず行う、民主主義の限界を示す便法である。

 今、安部政権が行おうとしているのは、大前提の民主主義に基づく議論の工程を無視し、便法でしかない多数議員の力の行使こそが民主主義だと偽って、国民の声をないがしろにする暴挙でしかない。

 まさに、モンスターシステムである。

 今や、老若男女、多くの国民が目覚め始めた。モンスターシステムの思いのままにはさせない。
 『わたくしは日本国憲法です。』は、今こそ多くの人に読んでもらいたい本。
 教育問題なども含め、現在の社会問題の多くが、憲法を無視することに元凶があることが、分かりやすく説かれている。

 なお、鈴木篤弁護士は、この本が刊行された後にブログを始められた。
 ぜひ、ご覧のほどを。
弁護士鈴木篤のつれづれ語り

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by koubeinokogoto | 2015-07-14 18:10 | 戦争反対 | Comments(0)
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