70年経っても、被爆者なのに差別されている人々がいる。
広島への原爆投下から70年。
時間が経つのは、怖いものだ。
ミサイルは武器ではなく「弾薬」、劣化ウラン弾やクラスター爆弾でさえも「弾薬」として米軍に供給しかねない防衛大臣がいる世の中になってしまった。
もう四年以上前になってしまったが、現在もその職にある広島の松井市長が、被爆者に対してとんでもない発言をしたことに関する記事を書いた。
2011年6月17日のブログ
松井市長が、被爆者への援護施策に言及し、「何か権利要求みたいに『くれ、くれ、くれ』じゃなくて『ありがとうございます』との気持ちを忘れんようにしてほしいが、忘れる人がちょっとおる」と発言したことを、忘れてはいけない。
現在の政治家や役人たちの深層心理には、きっと、こういう思いが強いだろうと思うからだ。
彼等は、被爆者への援護のコスト面をのみ強く意識しているのだろう。
そういった被爆者への行政への仕打ちは、今も続いている。
「全日本民医連」のサイトから、「民医連新聞」の最近の記事を引用したい。(赤字は管理人による)
「全日本民医連」サイトの該当ページ
2015年8月4日
被爆を認められないヒバクシャたち 広島「黒い雨」被害者・長崎「被爆体験者」を知っていますか――
原爆被爆者たちはこれまで、健康障害に苦しみながらも、平和と核兵器廃絶のために声をあげ続けてきました。その中には、いまだ被爆者と認定されず、被爆者健康手帳を手にできない人たちがいます。広島では原爆投下直後「黒い雨」にさらされたが、認定区域外にされた地域の人たちが集団訴訟に向け動いています。また長崎でも「被爆体験者」と呼ばれ、健康被害が放射能によることが認められていない人たちの健康調査を民医連が行い、支援しています。
広島「黒い雨」認定区域拡大求め「ワシらも被爆した」
今年三月、七〇~八〇代の三六人が、広島市役所に被爆者健康手帳などの交付を申請しました。手帳は原爆被爆者の「証明」で、これを持っていれば医療費無料や健診などの国の支援が受けられます。原爆投下から七〇年も経って申請したのは、国の指定から外れた地域で「黒い雨」にあい、被爆を認めてもらえていない人たちです。
「黒い雨」とは、原爆が炸裂した時の塵や埃を含んだ雨です。熱線や爆風を免れた地域にも降り、放射能汚染を拡大しました。この雨にうたれて下痢や脱毛、出血傾向、急性白血病などの急性放射線障害を発症した人もいます。
申請者の一人、清水博さん(77)は爆心地から北に一七kmほどの亀山村(現・安佐北区可部町)の国民学校二年生でした。原爆投下時は始業直後の教室に居て、閃光とドンという衝撃をくらいました。一時間ほど裏山の横穴に避難してから帰宅を始めた時、山向こうの空から、真っ黒な雲がもくもくと迫り、黒い雨に降られました。
「その後も黒い雨が注いだ川の水を飲み、飯も炊いた。『キュウリを切ったら黒い汁が出た』と話した友人もいた」と、清水さん。二〇代から胃の疾患に悩まされ、五〇代でがんを発症、全摘しました。二歳上の姉も甲状腺疾患です。
「近くの山にはアメリカの気象観測の落下傘が三つ落ちた。落下傘が来たのは、あの日、広島市からの風がこちらに吹いていた証拠。当然、放射性物質も流れてきていた。わしらが病気ばかりしてきたのは原爆のせいじゃ。国はなぜ、被害者の話が聞けんのだろう」。
届かない支援策
直接被爆や入市被爆の人への被爆者健康手帳の交付は原爆投下から一二年後の一九五七年に始まりましたが、黒い雨の被害者についてはさらに一九年後の七六年になって「健康診断特例区域」を指定。区域内で黒い雨にあった人には無料健診の第一種健康診断受診者証を交付し、がんなどの特定疾患になれば被爆者手帳に切り替えるようにしました。しかし区域は大雨だった範囲に限られました。
区域拡大を求め「黒い雨の会」が各地でできたのはこの時期です。現在運動する「黒い雨」原爆被爆者の会へとつながっていきます。
会などの運動で、広島県・市が二〇一〇年、三万六〇〇〇人を対象に大規模調査を実施。実際の降雨は当時発表された以上に広く、「未指定地域の住民は被爆者に匹敵する健康不良状態」という結果に。これに基づき、県と三市五町の首長が連名で、援護対象区域を六倍に拡大するよう国に求めましたが、厚生労働省の検討会は「降雨地域の特定は困難」と否定(一二年)。未指定地域にいた人に保健師などが話を聞くだけの相談事業を、一三年から始めた程度の対応しかしていません。
川で遊んでいた子どもたち
さらに爆心地から離れた地域でも、証言があります。北北西に約二八kmの加計町穴阿(あなあ)地区(現・安芸太田町)にいた石井隆志さん(78)と斉藤義純さん(82)は、川で遊泳中、黒い雨にあいました。
「河原に脱いであった白いシャツがドロドロに汚れていた。黒い筋だらけになったお互いの顔を見て『なんじゃぁ?』と笑うた」。
降ったのは雨だけではありませんでした。上空がかすみ、たくさんの紙くずが落ちてきました。子どもたちは、好奇心で紙を追いかけました。この地域でもドンという音は聞こえましたが、それがどれほど危険な爆弾で、広島市内で何が起きていたか、知るよしもありませんでした。「爆風で舞い上がった物が、放射能と一緒に落ちてきていたんじゃな…」二人はうなずきあいました。
一緒に遊んでいたのは六人ですが、四人はがんや白血病などで早逝。原爆症だと主治医に言明された人もいましたが、指定地域でないため、何もできませんでした。残る二人も若い頃から体調不良に悩んできました。「こんな私らに『原爆の被害がなかった』と言い渡すのは人間のすることだろうか」と石井さん。斉藤さんとともに、黒い雨地域拡大を求める訴訟に参加すると決めています。「国には筋を通せと言いたい」。
訴訟へ
降雨の指定区域が拡大されなくても、泣き寝入りはできませんでした。五地域約四八〇人の会員を束ねる「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会が訴訟に踏み切ると決めたのが去年。三月に行った手帳と健診受診者証の申請が却下されれば、集団提訴するつもりです。
「原告は二〇人程度集まればいいと思っていたのですが、七〇人が手をあげました」と、同協議会の牧野一見事務局長。牧野さんは広島中央保健生協の組合員でもあります。住んでいた町が、川を隔てて指定区域と未指定区域に分断されて以来、この運動に関わっています。「申請した本人に被爆の証明を求め、できなければ救わないという国のやり方は正しくない。健康への影響という一番の証拠があるではないですか」。
降雨地域の罹患率の高さや、黒い雨の健康影響を科学的に示したデータも研究者から出されています。地元の大学生の協力も。「年内に裁判になると思います。長崎の『被爆体験者』とも連携し原爆症の訴訟に関わる民医連医師の支援ももらいながらたたかいます」。
(木下直子記者)
長崎「被爆体験者」精神的影響しか認められず
長崎原爆で指定されている「被爆地域」は、旧長崎市の行政区域に限定されています。被爆者の援護救済制度は、被爆した地域や条件で何段階にも区分され、爆心から六・七~一二km以内の地域のうち、「被爆未指定地域」で被爆した人々は「被爆体験者」と呼ばれ、精神疾患とその合併症にしか医療費が給付されていません。被爆体験者に生じた健康被害は「精神的要因」とされているからです。
そもそも、原爆症認定の実態から分かるように、国は原爆の放射線による健康影響を爆心に近い場所にしか認めていません。放射性降下物による低線量の内部被曝は考慮していないのです。しかし現実には遠距離でも多くの被爆体験者が、被爆直後に脱毛・下痢・鼻血などの急性症状を発し、その後も多くの疾病に罹患しています。
健康調査が被爆示す
長崎民医連では、被爆体験者の健康被害を非被爆者と比較する調査を行い、被爆体験者に生じた健康影響の実態を明らかにしました。たとえば急性症状については、被爆体験者の五六・五%が何らかの急性症状があったと回答、非被爆者と大きな開きがあります。一三種類の急性症状全てで、明らかに被爆体験者の方が多いと分かりました。その後も、被爆体験者は各疾病の罹患率が高く、六割を超す被爆体験者が、七種類以上の疾病を抱えていました。
また、被爆体験者の証言からは、「黒い雨」の降雨、爆心方向から来た灰や燃えかすの降灰、原爆投下後の原子雲が、広範に広がっていたことも分かりました。このことは、被爆未指定地域が放射能環境にあったことを示しています。 健康被害の実態と合わせ、被爆体験者が放射性降下物によって被曝した証拠です。原爆放射線の健康被害を過小に見ている国の姿勢は誤りです。さらに、被爆未指定地域も爆風・熱線の被害が多いことも分かりました。原爆被爆の継承をすすめる上でも、これらは忘れてはならない事実です。
(松延栄治、県連事務局)
(民医連新聞 第1601号 2015年8月3日)
大事なところを赤くしていったら、真っ赤になってしまった。
現在も、被爆者として苦しみながらも、国からの支援を受けていない多くの人々がいることを、もっと、多くの方が知る必要があると思う。
肥田舜太郎・鎌仲ひとみ著『内部被曝の脅威-原爆から劣化ウラン弾まで』
四年前の記事と重複するが、肥田舜太郎さんと鎌仲ひとみさんの共著『内部被曝の脅威-原爆から劣化ウラン弾まで』から引用したい。
本書は2005年に刊行されたものだが、私は3.11の後で読み、何度か拙ブログで紹介している。
肥田さんが執筆担当の「第2章 爆心地からもういちど考える」より紹介。被曝から60年後の時点での状況が書かれているが、さて、どれほど事態は改善されているものか。
引用文の最期の部分で、肥田さんは、国の対応を「差別」と糾弾する。
2000年代の被ばく者
中級の建設会社の社長で根っからの酒好き、じっとしていることが嫌いでいつも忙しく何か活動しているという友人がいる。定年で会社を退いてから町内会の役員を引き受けて、祭りの準備から消毒の世話まで目まぐるしく動きまわっているうちに、健康診断で血小板減少を指摘された。
気になることがあって無理やり精密検査をすすめたところ、骨髄異型性症候群という厄介な病気のあることが分かった。専門学校時代、原爆投下の広島に何日かたって入市したと聞いたことを思い出し、確かめたところ1945年の8月9日に五人の級友と海軍のトラックで広島に入市し、海田市からは徒歩で千田町の県立広島工業学校まで行き、誰もいない崩れた校舎に入って散乱している機械器具を片付けたり防水布を掛けたり、三時間くらい作業をした。近辺は学校ばかりが集まっている地域で人は一人も見かけず、日が暮れたので呉へ帰ったという。
彼らは1944年秋から呉の海軍施設に勤労動員で派遣されていたのである。明らかに入市被ばく者なので、早速、被ばく者健康手帳交付の申請を勧めたが、億劫なのか、なかなか手続きをしないでいるうち、今度は大腸癌が見つかって入院手術となり、観念して手帳を申請、証人の依頼に手間取って、数カ月かかってやっと広島の被ばく者と認められた。
現在、血色素の一定数を目安に輸血を繰り返しているが治癒の見込みはなかなかむずかしい。厚生大臣の認める認定患者認定を申請したが四月末、永眠した。
被ばく者の六十年
2005年の今年、生き残っている約二十七万人の被ばく者の多くは二つ、三つの病気を持ちながら、様々な不安や悩みを抱えて生き続けている。
彼らの多くは被ばくの前は病気を知らず、健康優良児として表彰までされたのが、被ばく後はからだがすっかり変わり、病気がちで思うように働けず、少し動くとからだがだるくて根気が続かずに仕事を休みがちになった。医師に相談していろいろ検査を受けても、どこも異常がないと診断され、当時、よく使われたぶらぶら病の状態が続き、仲間や家族からは怠け者というレッテルを貼られたつらい記憶を持つものが少なくない。事実、「からだがこんなになったのは原爆のせい」とひそかに思いながら被ばく事実を隠し続け、誰からも理解されずに社会の底辺で不本意な人生を歩いた被ばく者を私は何人も診ている。
占領米軍による被ばく者の敵視と差別
被ばく者は敗戦直後から米占領軍総司令官の命令で広島・長崎で見、聞き、体験した被ばくの実相を語ること、書くことの一切を禁止された。違反者を取り締まるため、日本の警察に言動を監視された経験のある被ばく者は少なくない。また、1956年に日本核団協(各都道府県にある被ばく者の団体の協議会)が結成された前後は、被ばく者は反米活動の危険があるとして警戒され、各地で監視体制が強められた。1957年、埼玉県で被ばく者の会を結成した小笹寿会長の回顧録のなかに、当時の執拗な埼玉県警の干渉があったことを書き残している。私自身も1950年から数年間、東京の杉並区でひそかに広島の被ばく体験を語り歩いたとき、米軍憲兵のしつこい監視と威嚇を受けた覚えがある。
日本政府による差別
敗戦後、辛うじて死を免れた被ばく者は家族、住居、財産、仕事の全てを失った絶望的な状態のなかから廃墟に掘っ立て小屋を建てて生き延びる努力をはじめた。故郷のある者は故郷に、ない者は遠縁や知人を頼って全国へ散って行った。被ばく地に残った者にも、去った者にも餓死寸前の過酷な日々が続いた。政府は1957年に医療法を制定し、被ばく者健康手帳を交付するまでの十二年間、被ばく者に何の援護もせず、地獄のなかに放置した。
なお、被ばく者手帳を発行して被ばく者を登録したとき、政府は被ばく者を①爆心地近くの直下で被ばくした者、②爆発後二週間以内に入市した者および所定の区域外の遠距離で被ばくした者、③多数の被ばく者を治療・介護した者、④当時、上記の被ばく者の胎内にあった者に区分して被ばく者のなかに差別を持ち込んだ。
肥田さんの指摘するごとく、これは「差別」である。
戦後70年経っても、被爆者の苦しみは終わっていない。
永田町や霞が関は、「新たな被爆者」を増やそうとはしない。
あえて持ち出すが、新国立競技場やら、同競技場を管理するJSC(日本スポーツ振興センター)の新ビルを建設するために多額の税金が使われることより、戦争の被害に今も苦しむ人々のために、私は税金を使ってもらいたい。
この時期のさまざまな戦争特集の中で、今も続く戦争に焦点を当てる新聞やテレビは、果たしてどれほどあるだろうか。
ほとんどが、終わった戦争を振り返ることに終始しているのではないか。
もちろん、同じ過ちを繰り返さないために、過去を検証することは重要だ。
しかし、その過ちによって被害を被っている人々が、今も存在することも忘れてならならいだろう。
現在も被爆者として差別を受けている人々のことは、私が知る限り、ここ数日間では毎日新聞のみが取り上げていた。記事の後半を引用する。
毎日新聞の該当記事
◇対象区域の拡大、国側は認めず
黒い雨体験を訴える人たちによる被爆者健康手帳交付の集団申請は、今年3月に最初の42人が広島市と広島県に手続きを取り、その後も続いている。いずれも被爆者援護法に基づく援護対象区域外の住民。市と県は却下するとみられ、住民らは却下処分の取り消しを求める訴訟を広島地裁に起こす方針だ。
終戦直後に広島を調査した気象台技師らは、爆心地北西の楕円(だえん)状の地域(長径約19キロ、幅約11キロ)で大雨が降ったとまとめた。原爆の爆風で、すすやほこりが巻きあげられ、放射性物質を含む雨になった。国は1976年、この区域を援護対象区域に指定。区域内にいた人は定められた病気になれば被爆者健康手帳を取得でき、医療費が無料になる。
市と県は2010年、独自のアンケート結果を基に区域を約6倍に拡大するよう要望したが、これまで国側は認めていない。【加藤小夜】
その広島の今日の式典に関する記事。
47NEWSの該当記事
市長「人類愛と寛容で核廃絶へ」 過去最多100カ国参列、広島
広島は6日、史上初めて原爆が投下されてから70年の「原爆の日」を迎えた。爆心地近くの広島市中区の平和記念公園では、午前8時から「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれ、松井一実市長は平和宣言で「絶対悪」である核兵器廃絶に向けて世界の指導者らに「人類愛」と「寛容」を呼び掛けた。
厚生労働省によると、被爆者健康手帳を持つ人は2015年3月末で18万3519人。平均年齢は初めて80歳を超え、80・13歳となった。
式典には、過去最多の100カ国と欧州連合(EU)の代表が参列。核兵器保有国は米英仏ロの代表が出席し、中国は欠席。
2015/08/06 09:01 【共同通信】
松井市長の言う「人類愛」と「寛容」という言葉は、自分にこそ向けてもらい、広島市に被爆者手帳の交付申請をした被爆者の方のことを考えて欲しい。もし、申請を却下するのなら、果たして彼の言う「人類愛」や「寛容」とは、いったいどんな意味を持つのか説明して欲しいものだ。
役人と政治家だけを「人類」と考える、「愛」と「寛容」なのではないのか。
メディアは、18万3519人の被爆者手帳を持つ人に限らず、手帳を持っていない被爆者のことも、戦争被害者として語るべきだろう。
今日、被爆者団体が、安保法案は違憲であり撤回せよと主張しても、蛙の面になんとやらで、戦争を再び起こそうとしている安倍政権に対しては、「ペン」を‘弾薬’ならぬ‘武器’として、断固たる攻撃を加えるべきである。