2016年 02月 09日
重松正一さんに関する新聞記事。
以前、小島貞二さんの『こんな落語家がいた-戦中・戦後の演芸視-』について記事を書いた。
小島貞二著『こんな落語家がいた-戦中・戦後の演芸視-』
最初の記事は、2010年8月11日に放送されたNHKの「戦争と平和」関連番組『戦場の漫才師たち~わらわし隊の戦争~』を見て書いたその日の記事の中で少し紹介したものだ。
ミス・ワカナとヒロポンのことなども、書いた。
2010年8月11日のブログ
その六日後8月17日にも、この本を元に記事を書いたのだが、それをきっかけに、ある方とお知り合いになることができた。
重松正一さんだ。
私の記事のキーワードは、「バシー海峡」だった。
2010年8月17日の記事から、小島さんの本の関連部分を再度引用したい。
2010年8月17日のブログ
佐世保港から君川丸という徴用客船(約一万トン)に乗せられ、出航したのは昭和十九年七月十一日だった。
東支那海へ出ると、あちこちから船が集まり、たちまち大船団となる。航空母艦もいる。心強い。日本海軍は健在なりを思う。
健在が一瞬、恐怖に変わったのは七月十八日。命拾いしたあと、船中で見たガリ版刷りのニュースで、「東条内閣総辞職」を知った日であったから忘れ得ない。
命拾いとは、「そろそろバシー海峡だよ」と聞いたその日の夕刻、私はトイレのため甲板に上がり、用足しのついてに深呼吸をした。船内はすし詰めで息苦しい。トイレは甲板の脇に間に合わせのように設けられ、風の強い日など大も小も甲板に舞う。
「きょうは臭い日だね」が会話のひとつになっていた。
深呼吸の瞬間、「取り舵一杯!」の絶叫に続いて、船はギシギシ音を立てて左に廻る。その鼻っ先を、おそらく十メートルもないほどの距離を、魚雷が右に走ってゆく。間髪を入れずに、我がほうの艦載機が飛び、駆逐艦が走り、爆雷投下。幸い船団のどの船も無事であったようだ。火柱はどこにもない。
おそらく東條内閣崩壊の日を狙っての攻撃であったろう。ことらの防御もそれだけに万全であったのだろう。
大岡昇平の『俘虜記』によると、彼も同じころ、同じ海を渡っている。「サイパン陥落」の報をきいた三日後、バシー海峡で日進丸が魚雷を受け沈む。生存者約七百名を傍船が収容するとある。私たちよりひと足早い船団であったろう。
「南方へ死ににゆく」が実感となる。
この記事では、この後に、次のように書き、 朝日テレビ系列の「テレメンタリー」というドキュメンタリー番組での東京地区と大阪地区の放送日と時間を、重松さんのホームページの案内から、引用させてもらった。
このバシー海峡は、「魔の海峡」、「死の海峡」などと言われ、数多くの日本兵士の命を奪っている。小島さんが命拾いをした一ヶ月後の八月十九日には、“ヒ71船団”の「玉津丸」が米軍の潜水艦スペードフィッシュの魚雷を二発受けて沈没し、5000名近くの兵士が亡くなった。
レイテで戦死されたお父上の記録を残すために重松正一さんが開設されているHPの掲示板に、玉津丸のことを題材にしたテレビ番組が放送されるというニュースがあったので下記に引用させてもらいました。
遺誌 独立歩兵第13聯隊第3大隊レイテ戦史のHP
放送日前にも記事にしたところ、その記事に重松さんからコメントを頂戴した。
2010年9月9日のブログ
私は、重松さんのホームページの掲示板を拝見し、肉親捜しの依頼がたてこんでおられて、とてもお忙しい様子なので、引用するご了解をいただかないままに記事を書いていたので、実に恐縮したことを思い出す。
重松さんのホームページでメールアドレスを知り、遅ればせながら御礼を含むご連絡をした次第だった。
そして、昨年8月のこと。
バシー海峡「潮音寺」で大規模な慰霊祭が行われたことを新聞で知り、記事を書いた。
2015年8月4日のブログ
記事では、あらためて小島さんの本を引用し、重松さんのホームページの掲示板のことも紹介した。
重松さんにメールしたところ、慰霊祭からお帰りになったばかりで、実にお忙しい中なのに、丁寧なご返事を頂戴した。
その重松さんから、1月下旬に、読売新聞と東京新聞(中日新聞)で、重松さんを紹介する記事が掲載されることのご案内をいただいていた。
実は、これらの新聞は、どれも購読していない。
Webサイトで掲載するだろうと思っていて、つい日が経ってしまっていた。
新聞販売店に行ったら、もうなかったため、そのうち図書館に行って書き取ろう、と思っていたのだった。
しかし、今日、中日新聞のサイトに記事があるのを発見。
「戦禍の記憶」と題して、1月24日に「上」、25日に「中」、26日に「下」の三回にわたって掲載された記事の「下」に、あった。
中日新聞の該当記事(上)
中日新聞の該当記事(中)
中日新聞の該当記事(下)
26日の記事、「<戦禍の記憶> 戦死者、埋もれさせぬ」を引用したい。
米軍が太平洋の島を次々と攻略していた一九四四年夏。大分県中津市の陸軍軍人の留守宅に、一通の手紙が届いた。
「自己の生命の事等考へておられぬ 皆(み)んな父もあり母もあり可愛いゝ(い)子供もある人が沢山ゐるんだ (中略)此(こ)の大切な人々を僕の一令で死地に追込むのだから」
差出人は、重松勲次(くんじ)少佐。中国からフィリピンへ転任する直前にしたためた。「これが、最後の便りでした」。長男の正一さん(81)=堺市=は、父の心境を推し量った。「命令に従わなければならない。だが、多くの部下を死なせることにもなる。悩んだのではないか」
フィリピンで日本軍がほぼ壊滅した四五年六月。重松少佐はレイテ島で自決した。四十歳だった。二カ月後に終戦。重松少佐率いる大隊千二百人で、生還者はいなかった。
正一さんが戦争に向き合うようになったのは、六一年春。フィリピン戦の戦没者の慰霊式に初めて出席したのがきっかけだった。
「どこで亡くなったんでしょうなぁ」。親や息子の命日が分からないことに苦悩する遺族たちの声を聞いた。過酷だったフィリピン戦の中でも特に生還者が少なく、記録が乏しいレイテ島の戦いは、個々の兵士の正確な戦死日や場所は分からないままだった。
「自分の場合は、別部隊の将校が間接的に父の最期を聞いていて、自決を知ることができた。でも、大半の兵士たちはそうではなかった」。故人の足跡をたどろうにも、手掛かりすらなかった。
「戦死者を記録に埋もれさせるのではなく、一人の人間としてよみがえらせよう。指揮官の息子としての使命だ」。そう決意し、銀行勤めをしながら、レイテ戦の生還者への聞き取りをしたり、資料に当たるため図書館に通い詰めたりと、地道な調査を続けた。
五十年にわたる調査で五百人を超える遺族へ可能な限りの情報を伝えてきた。渡した資料に肉親の名前を見つけると、「これで一区切りが付く」と感激する人が少なくないという。レイテ戦を多くの人に知ってもらおうと、二〇〇八年にホームページも開設した。
「父が生きていたら同じことをしたはず。死んで父に再会した時、胸を張れます」
“戦死者を記録に埋もれさせるのではなく、一人の人間としてよみがえらせよう。指揮官の息子としての使命だ”という決意で仕事を続けながらの地道な調査をされてきた重松さんによって報われた人は多いだろう。
戦争の悲惨さを忘れないためにも、重松さんのような活動は、長く記録され記憶されるべきだと思う。
今の内閣が、あまりに軽々に憲法を改正(改悪)しようとしていることに、多くの遺族の方は決して賛成するはずもない。
そして、重松さんの努力で甦った一人一人の戦没者だって、彼岸から、戦争反対を叫んでいるに違いない。
“父が生きていたら同じことをしたはず。死んで父に再会した時、胸を張れます”とおっしゃるように、重松さんの努力は尊い。
その努力に報いるには、私のようなもっと若い世代が、戦争するための憲法改悪を断固として防ぐことしかないと思う。
昨日書いた記事の最後では、将来の日本を若者に期待するというようなことを書いた。
いやいや、中年も壮年も含め、国民一人一人が、現在の日本政府の軍国化の流れに、自分が出来ることで反対の意を示さなければならないのだ。
あらためて重松さんの記事を見て、こんなちっぽけなブログでも、なんとか頑張ろう思うばかりだ。
最後に、重松さん、記事の紹介が大変遅くなり、誠に申し訳ありませんでした。
by koubeinokogoto
| 2016-02-09 18:09
| 戦争反対
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