幸兵衛の小言

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どうしても、こういう記事を目にすると、何か書かないではいられなくなる。

 朝日のスクープなのだろうが、安倍政権が、原発推進の旗色を明確にしようとしている、という記事。朝日新聞サイトの該当記事

成長戦略に「原発の活用」 政権素案、再稼働の推進明記 
2013年05月31日05時52分

【藤田知也】安倍政権が6月にまとめる成長戦略の素案に「原発の活用」を盛り込み、原発再稼働に向けて「政府一丸となって最大限取り組む」と約束することがわかった。東京電力福島第一原発事故を受けて脱原発を求める声は根強いが、安倍政権の経済政策「アベノミクス」で目指す経済成長には原発が欠かせないという姿勢を鮮明にする。

 素案は、成長戦略をまとめる産業競争力会議で5日に示され、12日までに正式に決めたうえで、14日にも政府方針として閣議決定する。成長戦略に「原発の活用」が入れば、中長期にわたって原発に頼る経済・社会を続けることになる。

 朝日新聞は「成長戦略(素案)」を入手した。エネルギー政策では、成長を担う企業が活動しやすくするため、原発事故後の電力不足を解消したり、火力発電につかう燃料費がかさんで値上がりする電気料金を抑えたりする必要があると指摘している。

 そのために必要な政策として「電力システム改革の断行」「高効率の火力発電の導入」などとともに「原子力発電の活用」を盛り込んだ。具体的には、原子力規制委員会が安全と判断した原発は「判断を尊重し、再稼働を進める」としたうえで、地元の理解や協力を得るために「政府一丸となって取り組む」と明記し、原発再稼働を積極的に進める方針を打ち出す。



 “成長戦略に「原発の活用」”が入り、“中長期にわたって原発に頼る経済・社会を続けることになる”、なんてことは、多くの国民がまったく望まないのではなかろうか。

 「官邸」サイトの産業競争力会議のページに、この会議の議員のリストがある。

 どんな人たちが、フクシマを経験したにも関わらず、原発を再稼動させるなどと言う、まったく馬鹿げた「成長戦略」とやらを考えているのか、確認しよう。
「官邸」サイトの該当ページ

産業競争力会議 議員名簿(平成25 年1月23 日現在)

議 長 安倍 晋三 内閣総理大臣
議長代理 麻生 太郎 副総理
副 議 長 甘利 明 経済再生担当大臣
兼 内閣府特命担当大臣(経済財政政策)
同 菅 義偉 内閣官房長官
同 茂木 敏充 経済産業大臣
議 員 山本 一太 内閣府特命担当大臣(科学技術政策)
同 稲田 朋美 内閣府特命担当大臣(規制改革)
同 秋山 咲恵 株式会社サキコーポレーション代表取締役社長
同 岡 素之 住友商事株式会社 相談役
同 榊原 定征 東レ株式会社代表取締役 取締役会長
同 坂根 正弘 コマツ取締役会長
同 佐藤 康博 株式会社みずほフィナンシャルグループ取締役社長 グループCEO
同 竹中 平蔵 慶應義塾大学総合政策学部教授
同 新浪 剛史 株式会社ローソン代表取締役社長CEO
同 橋本 和仁 東京大学大学院工学系研究科教授
同 長谷川閑史 武田薬品工業株式会社代表取締役社長
同 三木谷浩史 楽天株式会社代表取締役会長兼社長

 

 個人的には、原発に反対という人もいるのだろうが、この会議においてその主張を活かしきれていないのなら、ある意味同罪だろう。

 燃料コストの高騰は電力会社のみならず、その電力を必要とする製造業などでも経営課題であるのは間違いはない。もちろん、燃料代高騰を理由に電気代が値上げされ、我々国民の生活も圧迫されている。

 燃料費が上がるから、原発、という短絡的で危険な発想を進める前に、「総括原価方式」と「原燃料費調整制度」という、燃料費コストダウンのための企業と国の努力をしなくても、電力会社やガス会社には被害が及ばず、国民にしわ寄せすることを堂々と国が認める悪しき仕組みを、まず改めるべきだろう。
 *「総括原価方式」について関心のある方は、「よくわかる原子力」のこちらのページをご覧のほどを。
「よくわかる原子力」サイトの該当ページ
 *「原燃料費調整制度」について関心のある方は、以前に書いたブログをご覧のほどを。
2012年3月20日のブログ

 これらの悪しき制度を改善しても、原発を止め他の発電方式を採用するために、どうしても必要と思われるコストを企業や国民が負担する必要があるなら、それは安全や環境保護、そして幸福な生活のための必要経費と考えるべきではなかろうか。

 国家としての「戦略」策定のために、短期的な企業のバランスシートの改善を優先してはならないだろう。

 日本という国が、世界に誇りを持ち、そして信頼され尊敬されることを大前提に、産業面の施策を考えるべきではないのか。

 クリーンエネルギーなどの言葉も、この会議の議事録には散見されるが、早い話が、原発再稼動では、「原子力ムラ」に繋がっているとみなされてもしょうがないだろう。

 もし、原発を再稼動させ、企業が財務的に潤い、そしてその恩恵が社員に還元されたとしても、原発立地地域の人々や、危険な現場作業員の犠牲の上で得たお金を得ることは、幸福なことなのだろうか。

 いつ地震や津波によって、次のフクシマが起らないとも限らない、そんな不安を抱えたままの生活を、多くの国民が望んでいるのだろうか。フクシマがチェルノブイリよりも撒き散らした放射能が少なかった、などと喜ぶことなどできるはずがない。
 放射能は、それこそ“グローバル”に、地図に書いた国境などを越えて被害を広げる。地球全体に対して被害を与える危険性のある原発を、地震大国で稼動させることの危険性を重視するより、「産業競争力」の向上が優先する国の政府に、我々は血税を払っている。納税者として、そんな政府には、「ならぬことは、ならぬ」と言い続けたい。

 TPP参加にしろ原発推進にしろ、この産業競争力会議の「成長戦略」には、大震災やフクシマ、もっと遡ればヒロシマ、ナガサキから何も学んでいない、成長しない日本人の姿を世界に印象づけるだけではなかろうか。
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by koubeinokogoto | 2013-05-31 12:02 | 原発はいらない | Comments(0)
フクシマは、まったく終わっていない、ということを東京新聞の今日の社説からご紹介。
東京新聞のサイトの該当記事


【社説】

原発と賠償 救済に誠意を示せ  
2013年5月27日

 原発事故で被災した福島県浪江町は、町が住民の代理で東電に慰謝料増額を申し立てる。個別交渉の限界を見かねた。賠償には誠意を示さねばならない。

 「何かもうむなしくて、情けなくって…」

 鈴木静子さん(76)は何度もこの言葉を繰り返した。浪江町の家を離れ、二本松市内にある仮設住宅で暮らすようになってまもなく二年がたとうとしている。

 3・11の原発震災では「全町避難」の指示に高校生の孫と二人、着の身着のまま逃げた。直前に夫をみとったばかりで、二重の苦しみの始まりだった。

◆「無」の時間が流れる

 若いころにかかった結核の長い療養生活が看護師の道を選ばせた。県立病院で定年まで働いた後、訪問看護にかかわってきた。苦労して建て直した自宅の庭や池が懐かしい。自分で紡いだ糸でセーターを編もうと山蚕を飼ったり、ランを育てたりしていた。残り少ない人生の楽しみだった。

 「だけど、仮設住宅では何もする気がおこらない。無の時間が流れていくのがたまらない」

 知らない者同士で入居した仮設住宅は隣の物音が聞こえる。狭い部屋にこもり、足が急に衰える人、酒におぼれる人、孤独死や自殺も相次いでいる。

 三月に国は再び避難区域を見直した。鈴木さんの家の周りなど町の一部は「避難指示解除準備区域」となった。日中いつでも帰れるとはいうものの、水などインフラは復旧していない。

 「トイレは車で五分の役場まで行かなくちゃいけない。町は切り刻まれて検問所だらけ。私たちにどんな生活をしろというの」。考えだすと夜も眠れなくなり、安定剤を手放せない。

◆個別救済には限界

 原発事故は続いている。時間がたつほどに、苦しみは軽くなるどころか強くなっていく。

 浪江町の馬場有町長は二十九日、東電との賠償交渉のため「原子力損害賠償紛争解決センター(原発ADR)」に申し立てる。交渉の負担を軽くするために、弁護士ら法律家の仲介委員が東電との間に入って和解を進める政府機関だ。

 賠償の交渉には東電と直接したり、裁判を起こす方法もある。しかし、多くの被災者は落ち着かない生活のために不満があっても余裕や余力がない。ADRへの申し立てですら、スタートした二〇一一年九月からの一年半で約六千四百件、一万三千人にとどまる。賠償の対象とされている避難区域の十六万人の一割にもとどかない。

 浪江町が決断した集団申し立ては、新しい可能性を求めての異議申し立ての方法だ。個別救済の限界を集団の力で乗り越えようとしている。町が住民の代理者として引き受けることで、住民は参加しやすくなる。

 長引く避難生活で、多くの人は余分な出費を強いられている。今支払われている一人当たり月額約十万円の慰謝料は、膨らむ生活費の補填(ほてん)も含まれていて、純粋な慰謝料にはなっていないのだ。

 使えなくなった家屋や田畑の損害額認定などは、被災者一人一人の事情が左右するが、精神的苦痛の賠償はだれもが共有できる問題だ。全国に分かれて避難する約二万人の町民に町が委任状を送ったところ、半月ほどで約半数が参加を表明した。

 しかし、ADRにも課題がある。仲介する法律家の数が足りず、審理は遅れ、和解に進んだのは申し立ての半分以下だ。

 東電は和解に協力的ではない。仲介委員が示す和解案には強制力がないため、拒絶するケースが目立つ。合意できなければ、被災者は裁判に訴えるしかなくなる。ADRは仲裁や調停の手続きだから、和解案を拒否することはできる。だが、住民側に落ち度はないのだ。「不服なら裁判を」と言わんばかりの東電の態度は誠実さに欠ける。救済を遅らせるばかりだ。

◆被災者の側に立て

 今国会に賠償を受ける被災者の権利を制限するような法案が、政府から出されている。民法が定める請求権の時効の中断に関する特例法案である。

 通常は三年で消滅してしまう請求権の時効を、原発事故に適用すれば、来年三月に期限が来る。法案は救済の対象としてADRに申し立て、和解が打ち切りになった場合に限っている。原発事故は経験がない。将来にわたる被害も予測が立たない。法にはむしろ、原発の損害賠償請求には時効をかけないと明記すべきだ。

 原発事故で被害にあった人たちの生活保障を定めた「被災者支援法」も昨年の成立以降、具体策は決まっていない。遅々とした賠償交渉。浪江町は立ち上がったが、被災者にもっと寄り添った救済を示すべきだ。



 いくつかの印象的な文章を、太字で再度並べてみる。

原発事故は続いている。時間がたつほどに、苦しみは軽くなるどころか強くなっていく。

長引く避難生活で、多くの人は余分な出費を強いられている。今支払われている一人当たり月額約十万円の慰謝料は、膨らむ生活費の補填(ほてん)も含まれていて、純粋な慰謝料にはなっていないのだ。

東電は和解に協力的ではない。仲介委員が示す和解案には強制力がないため、拒絶するケースが目立つ。合意できなければ、被災者は裁判に訴えるしかなくなる。ADRは仲裁や調停の手続きだから、和解案を拒否することはできる。だが、住民側に落ち度はないのだ。「不服なら裁判を」と言わんばかりの東電の態度は誠実さに欠ける。救済を遅らせるばかりだ。

今国会に賠償を受ける被災者の権利を制限するような法案が、政府から出されている。民法が定める請求権の時効の中断に関する特例法案である。

 通常は三年で消滅してしまう請求権の時効を、原発事故に適用すれば、来年三月に期限が来る。法案は救済の対象としてADRに申し立て、和解が打ち切りになった場合に限っている。原発事故は経験がない。将来にわたる被害も予測が立たない。法にはむしろ、原発の損害賠償請求には時効をかけないと明記すべきだ。

原発事故で被害にあった人たちの生活保障を定めた「被災者支援法」も昨年の成立以降、具体策は決まっていない。遅々とした賠償交渉。浪江町は立ち上がったが、被災者にもっと寄り添った救済を示すべきだ。
 
 東京新聞、がんばっているじゃないか。

 そして、もちろん、立ち上がった浪江町に、エールを送りたい。東電も、政府も、フクシマのことがメディアに載ることを嫌っているし、賠償問題のことも、風化してくれることを望んでいるのだろう。

 とんでもない、フクシマは未だに放射能をまき散らしているし、被害者の方々の生活は、ないがしろにされたままではないか。

 国策で進めた原発列島。故郷を奪われた人々に対し、自民党政権や東電が、逃げることを許してはいけないだろう。メディアはアベノミクスなどとはやしたてるが、そういう“口当たりの良い”ニュースの裏に、避難生活で苦しむ人々の事実を押し込めてはいけないだろう。

 この浪江町の行動が、他の被害を受けた市町村とも連携されることで、状況が好転することを期待したい。東京新聞も、今後もぜひこのニュースをフォローして欲しいと思う。数少ない、良質なジャーナリズムが存在することを、信じたい。
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by koubeinokogoto | 2013-05-27 19:34 | 原発はいらない | Comments(6)
敦賀原発の存在する地盤が活断層の可能性がある、という原子力規制委員会の判断に、日本原子力発電(原電)や福井県知事が、いろいろ言っている。こういう態度や行動は、子供が“ぐずる”のに似ている。
 
 原電は、専門家調査団メンバー個人に、ほとんど“脅し”とも言える抗議をした。原子力規制庁から注意されても、原電は、それを正当化しようとしている。こんな態度、行為はほとんど幼児と一緒である。
「時事ドットコム」の該当記事

原電社長「落ち度ない」=個人宛て抗議、批判に反論−規制庁

 日本原子力発電の浜田康男社長は22日、敦賀原発2号機(福井県敦賀市)直下に活断層があるとの報告書をまとめた専門家調査団のメンバー個人に抗議文を出したことについて、「やむにやまれず出させていただいた。落ち度はなかった」と述べた。活断層認定で規制委に公開質問状を提出した後、取材に答えた。
 これに先立ち、浜田社長と面会した原子力規制庁の桜田道夫審議官は、原電が抗議の対象を専門家個人としたことを問題視し、「はき違えないでいただきたい」と注意した。浜田社長は「われわれが出したデータに基づかず推論されている」などと反論し、改めて調査団を批判した。(2013/05/22-20:24)



 福井県の西川知事も、こんなことを言っている。
「日本経済新聞」サイトの該当記事

福井知事「政府、科学的結論へ方向付けを」 敦賀原発巡り
2013/5/22 15:14

 福井県の西川一誠知事は22日、原子力規制委員会が日本原子力発電の敦賀原子力発電所(福井県)2号機直下の断層は活断層だとする有識者会合の報告を了承したことについて「なぜいろんな議論がある中で急ぐのか」と批判した。

 西川知事は「(敦賀原発の)問題は日本のエネルギー政策に直接影響を及ぼす重要な課題だ」と指摘。「政府として幅広い分野の専門知識を結集し、公平な科学的結論を出す方向付けをすべきだ」といい、改めて議論すべきだとの認識を示した。


 「なぜいろんな議論がある中で急ぐのか」と言っているが、結果が「活断層ではない」ということなら、こんなことは言わない。


 原子力規制委員会のサイトから、この度の規制委員会の判断に至る会合「敦賀発電所敷地内破砕帯の調査に関する有識者会合 第5回評価会合」の資料をダウンロードできる。
「原子力規制委員会」サイトの該当ページ

 専門用語も使われているが、よく読めば、専門家が詳細な調査を行ない、原電が作為的に「活断層ではない」、と主張しているデータの不備を指摘し、客観的に科学的な論拠を元に、「活断層の可能性あり」と報告していることが分かる。
 
 原子力規制委員会のメンバーや、その活動に疑問がないではない。しかし、今回の規制委員会は、本来の仕事をしていると思える。

 それに反して、原電や福井県知事の態度は、「原子力ムラ」の立場をあからさまにし“ぐずって”いる。ある意味で、非常に見苦しい態度であり行動だが、それをさせているのが、安倍自民党の原発擁護の姿勢ではないか。やさしいお母さんへの甘えがあっての“ぐずり”なのだろう。

 スーパーのレジで買い物の精算をしようとする母親の脇で、「ねぇ、あれ買って、買って、買って!」とわめく幼児にも似た行為である。そこで母親は、「ダメ、帰るわよ!」と言い聞かせている光景を思わせる。

 原子力規制委員会は「敦賀原発は活断層の上にあります。廃炉にしてください」と言っているにもかかわらず、
「ねぇ、動かして、動かして」とわめく原電と知事。それを聞いている政府には、「しょうがないわねぇ、じゃあ動かしてもらいましょう」、と言わせてはならない。

 少なくとも、フクシマの経験を踏まえて設置された組織が、専門家の調査・報告を元に出した判断である。それに従えないようなら、原電も知事にもペナルティを与えることがあっても、彼らの言い分を認める理由は一切ない。

 「規制」とは、ある意味「躾」のようなものであり、NHK大河ドラマから借用するなら、「ならぬことは、ならぬものです」なのだ。
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by koubeinokogoto | 2013-05-22 21:57 | 原発はいらない | Comments(2)
 尖閣で緊張感が高まっている日中関係を、ますます悪化させる行動を日本がとろうとしている。
共同通信「47NEWS」サイトの該当記事

自衛隊へのオスプレイ導入提言へ 大綱で自民、尖閣防衛

 自民党は15日、政府が今年新たに策定する長期的な防衛力整備の指針「防衛計画の大綱」に向けた提言案に、米軍新型輸送機オスプレイの自衛隊導入を盛り込む方針を固めた。安全性への不安が指摘されるものの、中国が領有権を主張する沖縄県・尖閣諸島を含めた離島防衛のため、オスプレイ導入による機動力強化が必要と判断した。

 同党は17日に開かれる安全保障調査会・国防部会などの合同会合で提言の骨子案を示し、月内の取りまとめを目指す。

 オスプレイをめぐっては、3月の衆院予算委員会で小野寺防衛相が「離島からの患者搬送で大きな威力を発揮するのではないか」と導入に前向きな考えを表明。
2013/05/16 02:00 【共同通信】



 オスプレイの問題は、必ずしも安全性だけではない。在日米軍の配備も問題だが、自衛隊が導入することは、日中関係を一層悪化させるだろう。

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松竹伸幸著『憲法九条の軍事戦略』(平凡社新書)

 先日、少しだけ紹介したが、内田樹が「誰かがこういう本を書かなければならないと思っていたら松竹さんが書いてくれました」と推薦文を書いている、松竹伸幸著『憲法九条の軍事戦略』(平凡社新書、2013年4月15日初版発行)から引用する。著者は、九条を遵守した上での日本の軍事戦略が必要だ、という認識のもとで本書を書いている。なかなか意欲的な試みであり、本書では、なかなか知ることのできない日米安保体制の実態や、日本の安全性を脅かすさまざなな事実も明らかにされている。

「第五章 日米安保条約をどうするか」からの引用。

オスプレイ配備における日米の認識の違い

 いまの日本は、九条の軍事戦略とは正反対の方向に進んでいる。オスプレイの配備は、その最たるものである。
 アメリカにとっては、オスプレイの配備というのは、古くなった現行のヘリコプターを最新の軍用機に代えるというだけのものかもしれない。だが、グローバルに展開していう米軍にとってはその程度のものであっても、日本周辺という地域限定でみれば、オスプレイはきわめて重大な意味をもつ。
 これまでの軍用ヘリコプターと比べて、速度も、積載重量も、航続距離も飛躍的に向上したオスプレイの配備によって、この地域におけるアメリカの抑止力は飛躍的に強まった。それがもたらしたのは、ただの量的な変化ではない。ヘリコプターと異なり、自力で適地に飛んでいって、兵員と武器・弾薬などを降ろすことも可能になったのである。オスプレイが日本全土で低空飛行訓練と実施することが問題になっているが、軍用機が低空で飛ぶのは、敵国のレーダーに探知されないで適地に到達することあ目的である。
 したがって、オスプレイの配備とは、中国にとってみれば、レーダー網をかいくぐり、自国の領土に展開する能力をもつ軍用機が新しく配備されたことになる。そして、それを日本が許可したということは、日本が中国への敵対度を増大させていることを意味するわけである。


 在日米軍がオスプレイを配備することにさえ、中国はピリピリしている。しかし、そのことに関しては、日本はまだ、言い訳の余地はある。「だって、米軍が古くなった設備(武器だけどね)を新しくしたい、と言っているんだから、しょうがないでしょう」という言い訳だ。
 ところが、自衛隊が持つということは、その言い逃れが通用しなくなる。
 「日本は、我々(中国)を、また侵略しようとしているのか!」と言われても、「いえ、災害救助で使うのです」と言って済むはずがない。

 別に、中国が正しいとか、彼らに従属的な対応をしろ、と言うのではない。中国の現在の状況は、軍事力を前面に押し出して日本を威嚇する危険な兆候を示している。尖閣のみならず南シナ海でもベトナムやフィリピンと領有権を巡って摩擦を起こしている。

 中国は、約13億の国民を束ねる手段として、経済の次に軍事を手段としようとしているのだろうし、海に眠る海底油田などの資源に固執してもいるだろう。軍事力の示威行動は、今までになくあからさまになり、東アジアの緊張感を高めている責任の多くは中国側にあるのかもしれない。

 中国が帝国主義への回帰の気配があり、東アジアが非常に危険な状態にあるのは事実だ。しかし、その彼らに一層軍備を拡張させる口実を、日本から与えることは避けるべきだ。

 それでも、安保条約依存派は、「中国が攻めてきたら、アメリカが助けてくれる」などと“右からの平和ぼけ”になった発想をし、日米安保に依存することで“判断停止”病になっている。

 同じオスプレイのことから、日米安保依存派が決して公言しない、あるいは知らない実態を紹介したい。

安保のもとでは自主的な判断ができない

 日米安保条約が日本から自主的な判断を奪っていることは、さまざまな事例で論証できる。たちえば、オスプレイにかかわることで思い起こされるのは、98年2月、低空飛行訓練中の米軍機がイタリアで起こした事故をめぐる問題と、日本で米軍が事故を起こした場合との比較である。
 このとき、米軍機はアルプスの山中を飛んでいて、スキー客を乗せたゴンドラを運ぶケーブルを切断した。20人の乗客が落下して死亡したのである。高速で飛行する戦闘機だから、太さがわずか6センチのケーブルがパイロットの目にみえたのは200メートル手前で、その距離を進むのに一秒しかかからない戦闘機は、回避動作をとることがでいなかったのである。
 日本で米軍機が低空飛行訓練をするルートの下に、も、たくさんのスキー場がある。オスプレイは高速な性能を誇っている。人ごとではない。
 イタリア政府は、このような事故が起こらないよう、自国で10本のルートを設定し、そのルート下にある障害物を明記した地図を作成して米軍に提供していた。事故の直前、飛行高度の制限を300メートルから600メートルに上げて、それを米軍に通知していた。ところが米軍は、その地図を使っていなかったし、飛行高度の変更をパイロットに伝えていなかったのである。他国の防衛のために駐留してやっているという自負のある米軍は他国の主権に無関心なのである。
 ところが日本の場合、イタリアの事情とも比べられないほど、主権はさらに無視されている。そもそも日本にある七本の低空飛行訓練ルートは、日本政府が知らぬ間に米運が勝手に設定したものである。だから日本側は地図など作成しようがない。それどころか日本政府は、この程度の訓練なら(爆弾を落とすような訓練でないなら)、七本のルート以外のどこで訓練してもいいという態度だ。米軍機の飛行高度についても、日本側に決める権限はなく、アメリカが150メートルだとか60メートルだとかを決定し、日本に通告しているだけである。



重要部分を太字で再確認。

“日本にある七本の低空飛行訓練ルートは、日本政府が知らぬ間に米運が勝手に設定したものである。だから日本側は地図など作成しようがない。それどころか日本政府は、この程度の訓練なら(爆弾を落とすような訓練でないなら)、七本のルート以外のどこで訓練してもいいという態度だ。米軍機の飛行高度についても、日本側に決める権限はなく、アメリカが150メートルだとか60メートルだとかを決定し、日本に通告しているだけである”

 安全性について国民が不安を抱いているのに、その飛行ルートについての主体性を日本政府は持っていない。これで、政府が言う「安全性の確保を米軍に求める」などの答弁が信じられようか。

その日本政府と対照的なのがイタリア政府の行動だ。

日本はなぜこれほど、米軍の事故を裁けないのか

 この事故のときに、もうひとつ驚きをもって受け止めたことがある。イタリアの首相や外相が、事故を起こした米軍機パイロットの裁判を自国でするといいだしたことである。
 NATO諸国が結んでいる地位協定では、日本と同様、公務中の事故の場合、裁判権はアマリカ側にある。だからこの場合、イタリアには裁判権がなかったのだが、それが分かっていてもイタリア側は、堂々と要求したのである。結果としてイタリアの要求がかなえられることはなかったが、事故の調査委員会にイタリア代表がくわわることとなった。また、アメリカでおこなわれた裁判では、パイロット一人が有罪判決を受けたのである。
 とことが日本はどうだろうか。日本でも、安保条約を結んで以降、米軍の公務中の事故が5万件近く発生し、死者も500人を超えている。日米地位協定の規定によれば、このイタリアの実例と同じく、アメリカが裁判を実施することになっている。そのこと自体は、地位協定の定めなのだから、仕方がないかもしれない。ところが、この5万件の事故中、アメリカで裁判がおこなわれたのは一件にすぎないことが、外務省の資料で明らかになっている。地位協定でアメリカが裁判すると定められているから、日本は裁判権を放棄しているのに、そのアメリカは、日本で事件・事故を起こしても裁判をしていないのである。77年に横浜で米軍ジェット機が墜落し、三歳と一歳の子どもの命が失われる痛ましい事故が発生したが、そのパイロットも裁判を受けていないのだ。


 
日米同盟の実態を表わす部分をあらためて太字で確認。

“日本でも、安保条約を結んで以降、米軍の公務中の事故が5万件近く発生し、死者も500人を超えている。日米地位協定の規定によれば、このイタリアの実例と同じく、アメリカが裁判を実施することになっている。そのこと自体は、地位協定の定めなのだから、仕方がないかもしれない。ところが、この5万件の事故中、アメリカで裁判がおこなわれたのは一件にすぎないことが、外務省の資料で明らかになっている”

 米軍の事故によって日本国民の命が奪われいても、その裁判がほとんど開かれていないという現実を、どう考えればよいのだろうか。そして、危険なオスプレイの低空飛行訓練ルート設定を米軍任せにしている実態は、今後も事故による犠牲者を出す危険性を、政府が放置、あるいは自らつくっていると言えないだろうか。

 これで、本当に主権国家などと言えるのか。

 サンフランシスコ講和条約締結を記念した式典などをする前に、日本政府が行うべきことがあるはずだ。

 米ソの冷戦体制が集結して約25年。しかし、このまま日米同盟という幻想に依存した判断停止を続けていると、新たな“米中冷戦”構造をつくりだすかもしれない。

 日本こそが、実はアメリカと中国との緊張関係や、東アジアの平穏のためにできることがあるはずだろう。もっと言うなら、日本という国は、本来の文化的特質や国民性を活かして、尊敬される国になれうはずだ。

 あの敗戦後、九条を持つ日本は、他国で武力を行使したことはない。これは、大いに誇るべきことであり、尊敬される国としての要件でもある。そして、本来は平和を愛する国民性、自然を賛美し共生を好む文化を有している。散る桜に「もののあわれ」を感じる国民性を、もっと“グローバル”な観点で活かして、地球上での存在意義を見出し、信頼され、尊敬される国になることを目指すべきだろう。

 「核は一切持たない」「戦争には加担しない」「紛争当事国には、中立の立場で仲介役を担う」などを訴えることで、多くの国が日本を支持する国際関係をつくることにこそ、将来の明るい展望が開かれるように思えてならない。

 今こそ、素朴な疑問を問いかける時だろう。

・米ソ冷戦終結後、日米安保体制とは、いったい何のために存在するのか。

・日米同盟とは言うが、それはアメリカに日本が利用されているだけでないのか。

・在日米軍基地は、ベトナム戦争で重要な役割を演じた。今後もアメリカの実質的な
 侵略戦争のために、日本は間接的とは言え加担していくことにならないか。

・在日米軍基地がなければ、東アジアの平和は保たれないのか。それは、逆ではないのか。

・米軍の「核の抑止力」を是認することは、新たな核保有、あるいは核兵器の存在を
 日本が助長することに加担しているということではなのか。

・米軍の「核抑止力」依存が理由で、ヒロシマ、ナガサキ、そしてフクシマを
 経験した国が、「核不使用」共同声明に署名できないのなら、
 その「核の抑止力」依存自体を否定すべきではないのか。

 シリアでは、アサド政権ではなく、NATOの支援(≒アメリカの支援)を受けた反政府軍が、あの化学兵器サリンを使用した疑いが出ている。
「ニューズウィーク日本語版」の該当記事

サリンを使ったのはアサドか反体制派か
Syrian Rebels Used Sarin Gas

シリア内戦で猛毒ガスを使用したののはアサド政権ではなかった可能性が浮上
2013年5月7日(火)17時48分

 アサド政権と反体制派の攻防が続くシリア内戦で、政府軍が反政府軍に対して猛毒ガスのサリンを使用した疑いがある──。イギリスやフランス、イスラエル、アメリカは先月、相次いでそう警告した。

 だが、アサド政権の暴走だと決めつけるのは早計かもしれない。シリア問題に関する国連調査委員会のカルラ・デル・ポンテ調査官は5月5日、サリンを使用したのは反体制派だった可能性が高いことを、スイスのラジオ局のインタビューで明かした。「さらに調査を続け、検証・確認を重ねる必要があるが、現時点で得た情報によれば、サリンガスを使用したのは反体制派だ」

アサド政権の関与も否定できない

 反体制派への武器供与を検討している米政府は、デル・ポンテの発言について「非常に疑わしい」と反論し、アサド政権によるサリン使用の可能性を示唆。デル・ポンテも調査は始まったばかりで、今後アサド政権側のサリン使用を示す証拠が見つかる可能性もあるとも指摘している。調査委員会は6月に、国連人権委員会に報告書を提出する予定だ。

 サリンは1930年代にナチスによって開発された、強い殺傷能力をもつ神経ガス。無色無臭の液体で、吸い込んだり肌に触れれば、ごく微量でも死に至る恐れがある。イラクのフセイン政権は88年、イラク北部のクルド人地区ハラブジャをサリンなどの毒ガスで攻撃し、5000人を殺害した。日本でも94~95年にオウム真理教によるサリンテロ事件が発生した。

 オバマ政権は、シリア政府による化学兵器の使用が確認されれば、軍事介入に踏み切る可能性もあると示唆してきた。サリンを使用したのは誰か。その答えによって、シリアの運命は大きく変わる。

From GlobalPost.com特約


 真相はまだ解明されていないが、十分にアメリカ(とイスラエル)がやりそうなことである。あるブログには、アメリカがアサド政府が政府軍に化学兵器使用を許可した、というガセネタを(CIAかイスラエルのモサドに)ばらまかせたのではないか、という推測もあった。いかにも政府軍が使用したと見せかけて、サリンを反政府軍か、反政府軍に化けたモサドに使用させ、アメリカは堂々とシリア政府に攻撃をかけるつもりではなかろうか。イラクではアメリカの陰謀は成功したとはいえない。アメリカはシリアを侵略したがっているのは、紛れもない事実だろう。しかし、シリアでもアメリカの陰謀が成功するかどうかは怪しい。

 ここで、ちょっと想像力を働かせてみる。

 日本の米軍基地は、間接的に米軍のシリアへの侵略をを支援することになるかもしれない、ということ。

 そんなアメリカとの同盟が、日本にとって必要なのか。

 日本は、なぜ九条と体験を生かし「不戦」「非核」を標榜する国になれないのか。 

 憲法九条がアメリカの影響で成立したにせよ、それを逆に日本の財産として生かすことで、歴史の皮肉として、地球の平和に貢献することが、今後の日本のあるべき姿ではないのか。

 中国が、時代に逆行する軍備増強をする中、アメリカの言いなりになるのではなく、日本は、「平和」を訴えるべきだろう。
 
 日米で軍備の増強に走ることは、時計の針を過去に戻す行為である。

 尖閣問題だって、まず外交ありきなのに、政府はその窓口を閉ざす行為ばかりしている。「話せばわかる」ことはあるのだ。外交の次には経済的な協調策として、たとえば日本の技術力を活かして海底油田を日中で協力して開発するなど、歩み寄れる方法は必ずあるはずだ。しかし、日米安保に何ら主権国家としての判断や主張をせず依存していては、何ら展望は見えてこない。

 ヒロシマ、ナガサキ、フクシマを経験し、敗戦後の約70年に渡り海外で軍事行動を行なわず武器の輸出もしなかった国だからこそできることがある。“グローバル”な視野で、“地球”の平和と安全のために貢献し、尊敬される国になる道を模索し、その実現のために国に尽くすことが政治家と官僚の使命であり、それを支援するのが国民のあり方なのではなかろうか。

 台湾とフィリピンとの緊張状態は、南シナ海で彼らと領有権で争っている中国には無理である。まさに、日本が存在意義を示す状況にあるのが東アジアの現在なのである。

 アメリカの戦争の片棒をかつぐのは真っ平御免である。日本だからこそできる「不戦」「非核」「平和」への世界への貢献で、尊敬される国になりたいではないか。
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by koubeinokogoto | 2013-05-16 06:52 | 戦争反対 | Comments(0)
安倍や橋下は、「国際的」「グローバル」などと言うキーワードを頻繁に使い、英語教育の強化などを訴えるが、真に「グローバル」な人間は、「地球」的な視野で、国際法の観点や常識をわきまえてからモノを考え発言するものだ。
 もちろん、けっして個人的な見解を無防備にさらけ出して、海外との無用な緊張関係をつくるようなヘマはしないように努めるのが、「グローバル」な政治家である。

 いわゆる「河野談話」について、まず外務省のサイトから引用する。
外務省サイトの該当ページ

慰安婦関係調査結果発表に関する
河野内閣官房長官談話


平成5年8月4日

 いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。


 「村山談話」と同様、日本という国の見解として、ある意味、“グローバル”に許容されているメッセージだと思う。

 しかし、“強制的な状況の下での痛ましいもの”という表現について、河野談話否定派は、いくつかの調査を根拠に「強制的ではなかった」と反論する。しかし、「慰安婦問題」は、“強制的”か否かを論議する別の次元で“グローバル”で判断されていることが、彼らにはまったく分かっていない。
 もちろん、この度の橋下発言や、それを擁護する老害石原の発言は、論外である。安倍も最初の安倍内閣時代に、失言で日本への信頼を著しく貶めたことがある。

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東郷和彦著『歴史認識を問い直す-靖国、慰安婦、領土問題』(角川ワンテーマ21)

東郷和彦著『歴史認識を問い直す-靖国、慰安婦、領土問題』(角川ワンテーマ21、2013年4月10日初版発行)から引用したい。

時は2007年のことである。

 3月16日の質問主意書に対する回答が決められる前の3月1日、ぶらさがり懇談で安倍首相は、「当初、定義されていた強制性を裏づけるものはなかった。その証拠はなかったのは事実ではなかったかと思う」という発言をした。なきさけぶ人を強制して連れてくる狭義の「強制連行」はなかったという趣旨の発言だった。
 ところが、この発言が「安倍総理は、慰安婦に対する(いっさいの)強制性を否定し、河野談話の修正を企図している」というAP電と翌3月2日の『ニューヨーク・タイムズ』の記事で報ぜられて以降、事態が一変した。
 私はこの時、アメリカ西海岸カリフォルニア州立大学サンタ・バーバラ校で教鞭をとり、5月には、同大学の長谷川毅教授と「日本の歴史問題」についての国際シンポジウムを準備中であった。
 安倍総理を慰安婦問題の「否定者」(denier)として糾弾する米国マスコミの論調は想像を絶してすさまじいものがあった。日本語の活字にするとどうしても表現できない、肌で感ずる不気味な「日本否定論」が突如として噴出した。



 安倍は、この時の失態を覚えているのだろうか。果たして橋下は・・・・・・。

 著者は、この年の五月に開催されたシンポジウムの後で参加したアメリカ人から、明確な指摘を受ける。

会合の後に議論に参加したアメリカ人から言われたことは、世界がこの問題を見る目がどこにあるのかを知るうえで、晴天の霹靂だった。
①日本人の中で、「強制連行」があったか、なかったかについて繰り広げられている議論は、この問題の本質にとって、まったく無意味である。世界の大勢は、だれも関心を持っていない。
②性、ジェンダー、女性の権利の問題について、アメリカ人はかつてとはまったく違った考えになっている。慰安婦の話を聞いた時彼らが考えるのは、「自分の娘が慰安婦にされていたらどう考えるか」という一点のみである。そしてゾッとする。これがこの問題の本質である。
③ましてや、慰安婦が「甘言をもって」つまり騙されてきたという事例があっただけで、完全アウトである。「強制連行」と「甘言で騙されて」気がついた時には逃げられないのと、どこがちがうのか。
④これは非歴史的(ahistorical)な議論である。現在の価値観で過去を振りかえって議論しているのだ。もしもそういう制度を「昔は仕方がなかった」と言って肯定しようものなら、女性の権利の「否定者」(denier)」となり、同盟の担い手として受け入れることなど問題外の国ということになる。
⑤解りやすい例でいえば、「建国のころアメリカは奴隷制を受け入れていたのだから、歴史的には奴隷制は当然の制度」という議論が、今のアメリカではまったく受け入れられないことは、日本人にも理解できるのではないか。「慰安婦制度は歴史的にやむをえなかった」という議論は、全くそれと同じに聞こえる。
⑥あなたは、河野談話を基礎に、謙虚な姿勢から発言していた。だから皆「レイプ・センターではない」というあなたの言わんとすることを我慢して聞いていた。この順序が逆だったら、何人もの人が席を立ったと思う。


 このシンポジウムに参加したアメリカ人の思いは、相当程度に日本以外の「慰安婦問題」について共通するものではなかろうか。

 日本人として、「慰安婦問題」について、「グローバル」視点で考えるために重要な言葉を太字で再度並べてみる。

 「強制連行」があったか、なかったかについて繰り広げられている議論は、
 この問題の本質にとって、まったく無意味


 慰安婦の話を聞いた時彼ら(アメリカ人)が考えるのは、
 「自分の娘が慰安婦にされていたらどう考えるか」という一点


 「強制連行」と「甘言で騙されて」気がついた時には逃げられないのと、
 どこがちがうのか


 「昔は仕方がなかった」と言って肯定しようものなら、
 女性の権利の「否定者(denier)」となり、
 同盟の担い手として受け入れることなど問題外の国


 「建国のころアメリカは奴隷制を受け入れていたのだから、歴史的には
 奴隷制は当然の制度」という議論が、今のアメリカではまったく受け入れられない

 「慰安婦制度は歴史的にやむをえなかった」という議論は、全くそれと同じに聞こえる

 安倍や橋下、そして石原には、「もし自分の娘が慰安婦にされていたら」という想像力は働かないのだろうか。

 かつて必然性があったから、という理屈は、紹介した奴隷制度と同様、まったく発言の正当性もなければ、国際政治の場での受容性を持たない。

 本書には2002年7月1日に発足した、オランダのハーグ国際刑事裁判所に法的基盤を与える1998年7月1日付の『ローマ規程』第七条が紹介されている。

「人道に対する罪」(g)項は、「強姦、性的な奴隷、強制売春、強いられた妊娠状態の継続、強制断種その他あらゆる形態の性的暴力であってこれらと同等の重大性を有するもの」を「人道に対する罪」の一部として明確に定義している。日本は、この裁判所に2007年7月1日に加入。


 これが、いわば“グローバル”な見解である。

「慰安婦問題」についてどのような理屈をこねようが正当化する政治家は、まったく「グローバル」ではない、ということである。河野談話を否定することの外交上の影響を、政治家は十分に認識すべきだ。また、国際法を含め、官僚は政治家に“国際的常識”を伝授すべきである。

 高市早苗や橋下、そして老害石原、加えて今のままなら安倍も含め、戦争で被害を受けた相手の国民の心情を慮ることができず、その発言の外交上の影響も考えずに、結果として国の信頼を損なう発言をする政治家には、黙ってもらいたいものだが、「沈黙は金」という日本的な知恵も、必ずしも「グローバル」な正当性を持たない。

 今こそ、官僚が政治家のブレーンとして口の軽い彼らを諌め、またサポートしなければならないのではなかろうか。しばらくは安倍自民政権は続くだろう。彼らに国際感覚を備えた“大人”としての振る舞いと言動をさせなければ、日本はそれこそ“グローバル”な常識の通用しない好戦的な国として、ますます信頼されない国に堕すのみである。
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by koubeinokogoto | 2013-05-15 19:43 | 戦争反対 | Comments(0)
安倍や橋下は、「国際的」「グローバル」などと言うキーワードを頻繁に使い、英語教育の強化などを訴えるが、真に「グローバル」な人間は、「地球」的な視野で、国際法の観点や常識をわきまえてからモノを考え発言するものだ。
 もちろん、けっして個人的な見解を無防備にさらけ出して、海外との無用な緊張関係をつくるようなヘマはしないように努めるのが、「グローバル」な政治家である。

 いわゆる「河野談話」について、まず外務省のサイトから引用する。
外務省サイトの該当ページ

慰安婦関係調査結果発表に関する
河野内閣官房長官談話


平成5年8月4日

 いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。


 「村山談話」と同様、日本という国の見解として、ある意味、“グローバル”に許容されているメッセージだと思う。

 しかし、“強制的な状況の下での痛ましいもの”という表現について、河野談話否定派は、いくつかの調査を根拠に「強制的ではなかった」と反論する。しかし、「慰安婦問題」は、“強制的”か否かを論議する別の次元で“グローバル”で判断されていることが、彼らにはまったく分かっていない。
 もちろん、この度の橋下発言や、それを擁護する老害石原の発言は、論外である。安倍も最初の安倍内閣時代に、失言で日本への信頼を著しく貶めたことがある。

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東郷和彦著『歴史認識を問い直す-靖国、慰安婦、領土問題』(角川ワンテーマ21)

東郷和彦著『歴史認識を問い直す-靖国、慰安婦、領土問題』(角川ワンテーマ21、2013年4月10日初版発行)から引用したい。

時は2007年のことである。

 3月16日の質問主意書に対する回答が決められる前の3月1日、ぶらさがり懇談で安倍首相は、「当初、定義されていた強制性を裏づけるものはなかった。その証拠はなかったのは事実ではなかったかと思う」という発言をした。なきさけぶ人を強制して連れてくる狭義の「強制連行」はなかったという趣旨の発言だった。
 ところが、この発言が「安倍総理は、慰安婦に対する(いっさいの)強制性を否定し、河野談話の修正を企図している」というAP電と翌3月2日の『ニューヨーク・タイムズ』の記事で報ぜられて以降、事態が一変した。
 私はこの時、アメリカ西海岸カリフォルニア州立大学サンタ・バーバラ校で教鞭をとり、5月には、同大学の長谷川毅教授と「日本の歴史問題」についての国際シンポジウムを準備中であった。
 安倍総理を慰安婦問題の「否定者」(denier)として糾弾する米国マスコミの論調は想像を絶してすさまじいものがあった。日本語の活字にするとどうしても表現できない、肌で感ずる不気味な「日本否定論」が突如として噴出した。



 安倍は、この時の失態を覚えているのだろうか。果たして橋下は・・・・・・。

 著者は、この年の五月に開催されたシンポジウムの後で参加したアメリカ人から、明確な指摘を受ける。

会合の後に議論に参加したアメリカ人から言われたことは、世界がこの問題を見る目がどこにあるのかを知るうえで、晴天の霹靂だった。
①日本人の中で、「強制連行」があったか、なかったかについて繰り広げられている議論は、この問題の本質にとって、まったく無意味である。世界の大勢は、だれも関心を持っていない。
②性、ジェンダー、女性の権利の問題について、アメリカ人はかつてとはまったく違った考えになっている。慰安婦の話を聞いた時彼らが考えるのは、「自分の娘が慰安婦にされていたらどう考えるか」という一点のみである。そしてゾッとする。これがこの問題の本質である。
③ましてや、慰安婦が「甘言をもって」つまり騙されてきたという事例があっただけで、完全アウトである。「強制連行」と「甘言で騙されて」気がついた時には逃げられないのと、どこがちがうのか。
④これは非歴史的(ahistorical)な議論である。現在の価値観で過去を振りかえって議論しているのだ。もしもそういう制度を「昔は仕方がなかった」と言って肯定しようものなら、女性の権利の「否定者」(denier)」となり、同盟の担い手として受け入れることなど問題外の国ということになる。
⑤解りやすい例でいえば、「建国のころアメリカは奴隷制を受け入れていたのだから、歴史的には奴隷制は当然の制度」という議論が、今のアメリカではまったく受け入れられないことは、日本人にも理解できるのではないか。「慰安婦制度は歴史的にやむをえなかった」という議論は、全くそれと同じに聞こえる。
⑥あなたは、河野談話を基礎に、謙虚な姿勢から発言していた。だから皆「レイプ・センターではない」というあなたの言わんとすることを我慢して聞いていた。この順序が逆だったら、何人もの人が席を立ったと思う。


 このシンポジウムに参加したアメリカ人の思いは、相当程度に日本以外の「慰安婦問題」について共通するものではなかろうか。

 日本人として、「慰安婦問題」について、「グローバル」視点で考えるために重要な言葉を太字で再度並べてみる。

 「強制連行」があったか、なかったかについて繰り広げられている議論は、
 この問題の本質にとって、まったく無意味


 慰安婦の話を聞いた時彼ら(アメリカ人)が考えるのは、
 「自分の娘が慰安婦にされていたらどう考えるか」という一点


 「強制連行」と「甘言で騙されて」気がついた時には逃げられないのと、
 どこがちがうのか


 「昔は仕方がなかった」と言って肯定しようものなら、
 女性の権利の「否定者(denier)」となり、
 同盟の担い手として受け入れることなど問題外の国


 「建国のころアメリカは奴隷制を受け入れていたのだから、歴史的には
 奴隷制は当然の制度」という議論が、今のアメリカではまったく受け入れられない

 「慰安婦制度は歴史的にやむをえなかった」という議論は、全くそれと同じに聞こえる

 安倍や橋下、そして石原には、「もし自分の娘が慰安婦にされていたら」という想像力は働かないのだろうか。

 かつて必然性があったから、という理屈は、紹介した奴隷制度と同様、まったく発言の正当性もなければ、国際政治の場での受容性を持たない。

 本書には2002年7月1日に発足した、オランダのハーグ国際刑事裁判所に法的基盤を与える1998年7月1日付の『ローマ規程』第七条が紹介されている。

「人道に対する罪」(g)項は、「強姦、性的な奴隷、強制売春、強いられた妊娠状態の継続、強制断種その他あらゆる形態の性的暴力であってこれらと同等の重大性を有するもの」を「人道に対する罪」の一部として明確に定義している。日本は、この裁判所に2007年7月1日に加入。


 これが、いわば“グローバル”な見解である。

「慰安婦問題」についてどのような理屈をこねようが正当化する政治家は、まったく「グローバル」ではない、ということである。河野談話を否定することの外交上の影響を、政治家は十分に認識すべきだ。また、国際法を含め、官僚は政治家に“国際的常識”を伝授すべきである。

 高市早苗や橋下、そして老害石原、加えて今のままなら安倍も含め、戦争で被害を受けた相手の国民の心情を慮ることができず、その発言の外交上の影響も考えずに、結果として国の信頼を損なう発言をする政治家には、黙ってもらいたいものだが、「沈黙は金」という日本的な知恵も、必ずしも「グローバル」な正当性を持たない。

 今こそ、官僚が政治家のブレーンとして口の軽い彼らを諌め、またサポートしなければならないのではなかろうか。しばらくは安倍自民政権は続くだろう。彼らに国際感覚を備えた“大人”としての振る舞いと言動をさせなければ、日本はそれこそ“グローバル”な常識の通用しない好戦的な国として、ますます信頼されない国に堕すのみである。
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by koubeinokogoto | 2013-05-15 07:04 | 戦争反対 | Comments(5)
“原子力ムラ”の癒着体質が、フクシマ以降もまったく変わっていない、という東京新聞の記事をご紹介。
東京新聞サイトの該当記事

原子力委員と密接NPO 核ごみ広報下請け独占
2013年5月10日 07時11分

 経済産業省資源エネルギー庁と原子力発電環境整備機構(NUMO(ニューモ))が、使用済み核燃料を再処理した後に残る高レベル放射性廃棄物の最終処分場問題をめぐる広報事業で、不明朗な契約を続けていたことが分かった。核のごみ問題への理解を深めてもらうため参加者が討論するワークショップ形式だが、元請けが変わっても、原子力と関わりの深い特定のNPO法人が下請けとなっていた。

 本紙は、ワークショップ事業が始まった二〇〇七年度以降、六年間の契約状況を、情報公開請求や関係者取材によって調べた。

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 その結果、事業の元請けとなる広告代理店などは、入札や企画競争などで決められ、年度によって変わっていたものの、ワークショップの企画・運営に協力する下請け団体はいつも同じという不明朗な状況が続いていた。元請けの契約金額はワークショップの事業規模などによって異なり、年度当たり千五百万~四千七百万円。

 エネ庁の事業は、NPO法人「持続可能な社会をつくる元気ネット」(本部・東京都新宿区)、NUMOは「あすかエネルギーフォーラム」(本部・東京都中央区)が下請けとなっていた。

 エネ庁とNUMOによると、どの団体を下請けに使うかは元請けの広告代理店などの判断に任されていたが、入札時に企画内容を提案する際、どの団体が下請けとなるかも提示させていた。

 エネ庁とNUMOに同じ団体が下請けとなってきた理由を本紙がただすと、ともに「委託先(元請け)は、提案が優れたものを選んだ。同じ下請けが続いているのは、あくまで結果的にそうなっただけ」などと強調した。

 両NPOの事業報告書などによると、ワークショップの下請けにより毎年数百万円の利益が出て、団体の重要な活動資金源になっているとみられる。両NPOともに原発推進の総本山となってきた原子力委員会の元委員や委員を顧問に迎えている。元気ネットは元委員の松田美夜子氏(71)、あすかは現委員の秋庭悦子氏(64)がそれぞれ顧問を務めている。

 核のごみの最終処分問題は、原発の存廃にかかわらず、いずれは解決しなければならない問題。ただ、ワークショップという同じ形式の事業が、国と電力会社でつくる団体で重複している上、効果があるのか十分検証もされていない。開催費用は、消費者が負担する電気料金が原資となっている。

 本紙の取材に対し、元気ネットの松田氏は「下請けが続いているのは公正な競争に勝った結果。同じレベルの仕事ができる団体があるなら引き継ぎたいが、国が育てようとしていない」と主張。あすかの秋庭氏は「NPO法人にも個別の信念がある。推進派の隠れみのだと指摘されるなら、もっと原発に肯定的な立場を明らかにしていきたい」と話した。(東京新聞)



 そもそも、“高レベル放射性廃棄物の最終処分場問題をめぐる広報事業”などに、我々の血税を使ってもらいたくない。

 それにしても、これらのNPOの実質的な責任者の発言にはあきれるばかりだ。

 特に、「NPO法人にも個別の信念がある。推進派の隠れみのだと指摘されるなら、もっと原発に肯定的な立場を明らかにしていきたい」と、開き直ったような言い方をしている「あすかエネルギーフォーラム」の秋庭悦子は、いわば確信犯と言える。なぜ、こんなNPOが放置されているのか、東京新聞や雑誌メディアは継続してこの件を追及して欲しい。

 秋庭悦子が堂々と原発肯定を公言する背景には、トルコへの日本の原発輸出の旗振り役を務める安倍の存在があるからだろうが、フクシマがまだ収束したわけでもなく、まだま現場からは大量の放射能が撒き散らされている状況で、“原子力ムラ”の不正と癒着、そしてこういう団体の存在や責任者の発言を許すわけにはいかない。

 この秋庭悦子が設立したNPOへの原子力ムラからの資金流入問題について、3月に毎日新聞が指摘している。
毎日新聞サイトの該当記事

電力業界:原子力委員NPOに1800万円 震災後
毎日新聞 2013年03月25日 02時30分(最終更新 03月25日 10時03分)

 原子力委員会委員の秋庭(あきば)悦子氏(64)が設立したNPO法人に、東京電力や電気事業連合会など電力業界側が毎年多額の事業資金を提供していたことが分かった。原子力委員を巡っては東電出身の尾本(おもと)彰氏(64)が福島第1原発事故後も東電から顧問料を受領していたことが判明、安倍晋三首相が「国民の理解を得るのは難しい」と述べ、尾本氏は委員を辞任。秋庭氏が設立したNPO法人は原発事故後、東電や電事連から少なくとも1800万円受領しており、議論を呼ぶのは必至だ。

 このNPO法人は「あすかエネルギーフォーラム」(東京都中央区)。消費生活アドバイザーだった秋庭氏が01年に設立し、03年にNPO法人格を取得。10年1月の原子力委員就任に伴って秋庭氏は理事長を退き、顧問となったが、現在もNPO運営の相談にのっているという。

 東京都に提出されたあすかの事業報告書によると、09~11年度に2000万~4000万円余の事業収入があり、あすか関係者らによると、この多くは東電や、電力10社でつくる業界団体の電事連などからの提供だったという。このうち原発事故後の11年度は2283万円の収入があり、うち600万円余を電事連から受領し、東電から163万円余、日本原子力文化振興財団(原文振)から約250万円受け取っていた。

 原文振は原子力の知識普及を目的に、原子力産業界と学会を中心に設立された財団法人で、現在、中部電力出身者が理事長を、関西電力出身者が専務理事を務めている。

 あすかは12年度にも電事連から600万円余、原文振から約150万円を受領し、これらを合わせると、原発事故後に電力業界側から少なくとも1800万円を受領していた。非営利のNPOにもかかわらず、11年度末時点で3800万円余の正味財産がある。

 これらの資金を元に、あすかは主婦層を対象に原発や放射線などの勉強会開催や機関誌発行などの事業を展開。東電からは消費者アンケート事業を委託され、11年5月まで毎月80万円余受領し、09、10年度は同事業で年間960万円余受け取っていたという。

 あすかはこの他、高レベル放射性廃棄物について国民の理解を得るための経済産業相認可法人の事業を下請け受注し、11年度には約1000万円が支払われた。この事業受注についてはある程度公開されているものの、東電と電事連、原文振からの資金受領は公開していない。



 電事連や、元請けを経由した資源エネルギー庁などから多額の金が流入する組織は、もはや“Non Profit Organization”とは呼べない。

 このNPOのサイトから、現理事長の挨拶を引用する。
NPO「あすかエネルギーフォーラム」のサイト

ご挨拶

私たちの視点 私たちの言葉で考え、伝えよう! エネルギー
NPO法人 あすかエネルギーフォーラム 理事長 中野 和江

「あすかエネルギーフォーラム」は、消費者の視点でエネルギー問題を考え行動することをモットーに、2001年消費生活アドバイザーを中心に活動を開始し、2003年にNPO法人になりました。2001年以来、秋庭悦子前理事長があすかエネルギーフォーラムを発展させてまいりました。この度、2010年度から第2代理事長として中野和江が引き継ぎました。よろしくお願い致します。

 2001年以降のエネルギー問題の複雑さや変化の速さは著しく、日々の暮らしにその影響がより強く表れています。暮らしの中での省エネ志向やIT機器の増加などはごく普通のことになりました。日本国内の動きだけでなく、グローバル化しているエネルギー問題や低酸素社会の実現に向けた動き、気候変動問題にも関心を向けざるをえなくなりました。私達自身の暮らし方を考え、社会のしくみを考えていく必要性を強く感じています。

 一般の消費者が気軽に参加でき、エネルギー問題を暮らしの言葉で語り合い、互いに気づきあう「場」が大切であるという目的は今も変わっておりません。設立当初から続けているエネルギートークサロンは企画から運営まで全て手作りで行い、回を重ねて29回となりました。最新情報を得るエネルギー研修会、見学会やテーマごとの勉強会などの消費者啓発も毎年行なっております。

 全国でエネルギーに関する活動をしているグループとのネットワークを拡げています。毎年開くグループ活動交流会では互いに刺激を受け、そのエネルギーを地元に持ち帰っています。あすかエネルギーフォーラムの会員は全国に広がり、北海道から鹿児島までそれぞれの地域で活動しています。

 会員の多くは主婦や行政の相談員などいろいろな仕事に就いていますが、エネルギーに関心を持って学習し、ボランティア活動として企画運営に参加しています。

 これからも、暮らしの中からエネルギーを考える視点を忘れず、次々に起こるエネルギーの課題を理解し対応を自ら考えられる知識を持った消費者の団体を目指します。一人ひとりが輝いて参加できるような楽しい活動を全国のネットワークを活かして拡げて、消費者の視点から発信していきたいと思います。

関心のある方は、是非ご一緒に活動しましょう。お待ちしています。

関係各位の皆様におかれましては、設立以来のご支援ご厚情に対し深謝いたしますとともに、これからもご指導ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。
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秋庭悦子氏は平成22年1月 内閣府原子力委員会委員就任に伴い、 理事長を退任いたしました。今後は顧問に就任し、引き続き御助力いただきます。 平成22年5月の総会までは規約により中野和江が理事長代行を務めます。 これからもあすかエネルギーフォーラムの活動に、ご支援、ご協力を賜りますようお願い申し上げます。



“2001年以来、秋庭悦子前理事長があすかエネルギーフォーラムを発展させて”きたのである。

 それにしても、不思議なNPOである。フクシマを経た今、エネルギーという名を持つNPOの理事長が、まったくフクシマのことを語らない挨拶など、あり得るだろうか・・・・・・。

 サイトを確認したが、このNPOが行ってきたのは、大学生のサークル活動もどきのワークショップと呼ばれる原発安全神話を普及させる勉強会の開催や機関誌発行などで、それらは到底“事業”の名に値しない。

 また、このNPOを隠れ蓑に、電事連が読売新聞などに“原子力神話”布教のための広告を出稿してきた事実もある。


 こういう団体にNPOと言う言葉を冠するのなら、それは
 “Non Progress Organization”(進歩のない組織)、とでも言うべきだろう。
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by koubeinokogoto | 2013-05-10 12:02 | 原発はいらない | Comments(2)
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 『小説吉田学校』の著者戸川猪佐武に、『政権争奪』(昭和57年角川文庫で発行)という著書がある。戦後の日本の政治状況を政権交替とその背景を中心にして書かれた本。

 巻末には年表があるので、その中から、敗戦以降の政権と主な出来事を並べてみる。

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年号    内閣     主要記事
昭和20          8/15 天皇・終戦詔勅放送
                 鈴木貫太郎内閣総辞職
     東久邇宮内閣  8/17 東久邇宮内閣成立
             8/30 マッカーサー元帥厚木進駐
             10/4 治安維持法など廃止、政治犯釈放
             10/5 東久邇宮内閣総辞職
     幣原内閣    10/9 幣原喜重郎内閣成立
             10/11 総司令部・五大政策を指示
             11/2 日本社会党結成(委員長片山哲)
             11/9 日本自由党結成(総裁鳩山一郎)
昭和21          1/1 天皇、人間宣言
             2/3 マ元帥、憲法草案作成を民政局に指示
             3/6 憲法改正草案発表
             4/10 衆議院総選挙
             4/22 幣原内閣総辞職
             5/4 鳩山追放
     吉田内閣    5/22 吉田内閣成立
            
昭和22         3/8 国民協同党結成(書記長三木武夫)
            3/31 衆議院解散
              民主党結成(進歩党改組)
            4/20 参議院選挙
            4/25 衆議院総選挙
            5/3 新憲法施行
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 年表でも分かるように、昭和20年10月11日に、総司令部(GHQ)から憲法改正と「五大政策」の指示を受けたのは、幣原内閣の時である。『政権争奪』から引用する。

 十月十一日、幣原が組閣後はじめて総司令部をたずねると、マッカーサーは「ポツダム宣言にそう憲法改正」と、「人権確保のための五大改革-婦人の解放、労働組合の助長、学校教育の自由主義化、民衆生活を恐怖におとしいれたごとき制度の廃止、日本経済の民主化の実行」を幣原に指示した。
 そのときすでに憲法改正については岩淵辰雄や近衛文麿が、おそかれ早かれ行なわなければならないものとして、研究をすすめていた。しかも近衛は、幣原内閣が出発する以前-十月四日にマッカーサーをたずねて憲法改正の示唆をうけ、八日にはアチソン政治顧問から改正のポイントとして、
 衆議院の権限拡大、貴族院の民主化、天皇の拒否権の廃止、基本的人権の条項、枢密院の廃止、など十二項目におよぶ総司令部の見解を示されていた。そこで宮内府では、いち早く近衛を御用掛りに任じ、憲法改正を行なう方針をきめた。その了解をうる必要から近衛が、九日幣原首相をたずねると、幣原は、「マッカーサーがそんなことを命令するとはけしからん」と、一向にとり合おうとはしなかった。
 しかしその幣原も、十一日、直接マッカーサーから憲法改正を指令された。ようやく本気になって松本国務相と相談し、内閣に憲法調査特別委員会を設けることにした。


 幣原内閣ができる前に憲法改正案の検討を指示された近衛の宮内府のプロジェクトと幣原内閣の委員会は対立し、結果として十一月一日に総司令部が「近衛が憲法改正に与っているのは彼と皇室との関係によるもので、連合軍当局の発意ではない」と談話を発表した。その後、十二月に近衛は戦犯に指定され、十六日に服毒自殺をとげた。
 憲法改正案は内閣の憲法調査特別委員会の仕事となり、その原案が総司令部に提出された。しかし、この原案は明治憲法を大きく変わるものではなかった。「天皇は“神聖”にして侵すべからず」の“神聖”を“至聖”に変えただけであったり、「枢密院」も廃止せず「国会開会中に開かないという」制限をつけただけだった。この内容を総司令部が認めるはずもなかった。

 二月七日、この原案をマッカーサーは一も二もなく拒否、みずから「憲法改正の三原則」を民政局に示して、其の手で草案をつくらせることにした。彼の示した三原則は、
 1.天皇は国の元首で世襲とし、天皇の義務と権能は憲法にもとづいて
   行使される。
 1.日本は国家紛争の解決、自己の安全保持のための手段としての
   戦争を放棄し、日本は陸海空軍の保有を許されない。
 1.日本の封建制度は廃止する。
 であった。これを軸としてホイットニー民政局長以下民政局の次長・行政課長ケージス大佐、法規課長ローウェル中佐、ハッセー海軍中佐とが極秘のうちに草案の作成にとりかかった。
 ホイットニーから楢橋書記官長に、「憲法について重大提案をする」と、電話による連絡があったのは、十三日であった。外相官邸には幣原首相、吉田外相、松本国務相らが集まり、総司令部からはホイットニー、ケージス、ローウェル、ハッセーが出席した。ホイットニーは、「政府案はとても受諾できない。新たに憲法改正を行なう指針として、基本的な原則を勧告する」といいはじめた。愕然となった日本側はそのプリントを受け取って、松本と吉田があわただしく目を通すと、「天皇は象徴である」「戦争は放棄する」「土地その他天然資源は国有とする」「国会は一院制とする」など、彼らにとってはまさに革命的な文字がつらねられていたので、さらに驚愕した。
 幣原や松本は、なんとか総司令部との間に妥協案を生み出したいと考えた。そこで二十一日幣原はマッカーサーに会った。しかし、マッカーサーは、「極東委員会の論議は日本に不利だ。ソ連と豪州は天皇制についても激しいことをいっている。この際、日本が総司令部の憲法原則を受けることが必要だ」といい、「天皇の象徴と戦争廃棄の二原則について介入してはならない」と述べた。ここに至って、妥協の望みは絶え果ててしまった。そのあと三月のはじめ政府が総司令部と打ち合わせてつくりあげた草案が、日本国憲法政府原案で、国民の前に公表されたのは三月六日のことである。

 
 こういった経緯から、「憲法はアメリカがつくった」云々、という批判があるわけだが、マッカーサーの総司令部が要求した内容は、さてそんなに日本人にとって屈辱的なものだったのだろうか。

 昭和21年4月10日衆議院総選挙では、政治的制約がいっきょに解消したため、政党の総数は363という非常識な多数にのぼっていた。立候補者も定員466名に対し、自由党485、進歩等376、社会党331、共産党143という状況。一人一党が184名に及んだ。
 大選挙区・制限連記制で行なわれた戦後初の選挙結果は、自由党141、進歩党94、社会党92、協同党14、共産党5、諸会派38、無所属81で、婦人議員も38名当選した。

 この総選挙の後、しばらく居座った幣原内閣だが、結局4月22日に総辞職。後継は鳩山一郎自由党総裁が本命だったが、思わぬ事態になった。

鳩山追放 
 しかし歴史は、ここでまた波乱の一ページを加えなければならなかった。それは組閣を前にしての全くの突然な鳩山の追放であった。鳩山が追放に該当することを指定したメモランダム(覚書)が、総司令部から政府に与えられたのは四日朝のことだった。
 政局は再び混乱のるつぼに投げ込まれることになった。鳩山パージのうわさはすでに総選挙の前から、政界では口の端にはのぼっていた。追放令にかかる理由としては、戦時中の著書である『世界の顔』のなかで、ヒトラーやムソリーニを礼賛していたこと、その著書が鳩山の立候補資格申請書に記載されていなかったこと、鳩山が昭和8年(1933)文相時代に滝川幸辰京大教授らを、左翼学者として処置したこと、この二月に反共宣言を行なったこと-などがあげられていた。
 


 この鳩山追放を巡っては反対陣営の裏工作もあったようだが、結果として、第一次吉田内閣が誕生する。そして5月16日に召集された第90臨時議会は、憲法改正を審議することが中心になった。

 憲法改正案を政府が議会に提出したのは6月20日だったが、その翌日マッカーサーは、「審議には十分な時間と機会が与えられること」「憲法の持続性が保証されること」「原案は国民の自由な意思によるものであることを明らかにすること」という憲法審議の三原則を発表した。
 議会は、憲法を日本の国のあり方と将来を決する最高基本法として、なにがしかの自主的な修正をするため、真剣に細心に審議した。



 さて、ようやく第90臨時議会、いわば憲法議会の内容の紹介である。意外な人が意外な発言をしていることが分かる。
 

「戦争放棄」の条項(第九条)について共産党の野坂参三が「侵略戦争に対して自国を防衛する自衛戦争は、正義の戦争である。わが国もすべての戦争を放棄する必要はないはずである」と、軍備保有の妥当を強調するような演説を展開した。皮肉なことには、それにこたえて吉田首相が、「日本が戦争放棄を宣言して世界の信をえつつあるとき、自衛権を論ずることは有害無益である。これは直接には自衛権を否定していないが、一切の軍備と交戦権を認めないもので、自衛権の発動としての戦争、交戦権を放棄したものである。これまでの侵略戦争はすべて、自衛権発動の名においてなされてきた」と、再軍備反対の答弁を行なった。


 このような論争をへて、各党それぞれが修正案を用意し、それを一本にとりまとめるために七月二十五日に特別委員会のなかに、十三名の委員からなる小委員会が設けられ、最終的に、
 内閣総理大臣は国会議員の中から国会の議決でこれを指名する(政府原案は「内閣総理大臣は国会の議決でこれを指名する」とあるのみ)。
 内閣総理大臣は国務大臣を任命する。その過半数は国会議員の中から選ばれなければならない(政府原案は「内閣総理大臣は国会の同意により国務大臣を任命する」とあって、国会の同意を必要とし、過半数が国会議員でなくてもよかった)。
 などを中心にする修正を加え、八月二十四日、賛成421、反対8で可決され、貴族院でも若干の修正を行なって十月五日の本会議で可決した。その後、十一月三日に発布、翌昭和22年五月三日に施行されたわけである。

 あえて補足するが、国会での論争における野坂参三と吉田茂の発言は、逆ではない。

吉田茂の答弁を繰り返す。
“日本が戦争放棄を宣言して世界の信をえつつあるとき、自衛権を論ずることは有害無益である。これは直接には自衛権を否定していないが、一切の軍備と交戦権を認めないもので、自衛権の発動としての戦争、交戦権を放棄したものである。これまでの侵略戦争はすべて、自衛権発動の名においてなされてきた”

 昭和21年の吉田茂の発言を、安倍晋三はどこまで理解できるだろうか。それまでも安倍は「アメリカに追従したもの」と言うかもしれない。吉田茂だって、あの憲法には受け容れ難いものもあっただろう。しかし、あの戦争で焦土となった国を見つめ、もっとも重要なことは、「世界からの信頼」を取り戻す、という一点だったのだ。だからこそ、「日本は二度と戦争をしません」という宣言を世界に発することが重要だったのである。

 今日、日本を取り巻く世界情勢は、では変わったのだろうか。私はそうは思わない。日本はヒロシマ、ナガサキ、そしてフクシマを経験した国として世界から信頼を得られるのは、憲法改正を進め軍隊を持つことではない。もちろん、決して海外に原発を輸出することでもない。

 これからの日本政府は、あくまで“世界の信”を得るためを第一に考えて欲しいものだ。

 現行憲法は、アメリカ総司令部からの影響はもちろん大きい。しかし、間違いなく日本に新たな憲法をつくろうとして政治家や官僚、有識者の努力はあった。そして、あの時、民主主義の国アメリカからの指導がなければ、現行の憲法をつくることはできなかっただろう。
 戦争を放棄する憲法を持つ国だからこそ存在意義もあれば、“世界の信”を得ることもできるのではないか。残念ながら現在の安倍自民党政権は、その存在意義も世界からの信頼をも失う道を走っている。この暴走こそ、日本を破滅に向かわせるものである。
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by koubeinokogoto | 2013-05-05 18:32 | 戦争反対 | Comments(2)
安倍自民党の憲法改正への暴力的な動きが活発になってきた。

 今日は憲法記念日。「自民党憲法改正草案」の問題点を考えようと思う。

 まだ、自民党の改正草案をご覧ではない方は、「Q&A」を含め、現行憲法と対比した草案のPDFを下記からダウンロードできるので、ご覧のほどを。
自民党サイトの該当ページ

 現行憲法の「第二章 第九条」は、こうなっている。

第二章 戦争の放棄
第九条
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。



 次に、自民党の改正草案。「第二章」は、「戦争の放棄」から「安全保障」に替わる。

第二章 安全保障
(平和主義)
第九条
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。
(国防軍)
第九条の二
 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。
2 国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
3 国防軍は、第一項に規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。
4 前二項に定めるもののほか、国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める。
5 国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に審判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴
する権利は、保障されなければならない。
(領土等の保全等)
第九条の三
 国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。



 さて、「九条」について、最近更新が少ないが、六年前の今日の「内田樹の研究室」の「憲法の話」という文章から引用。「内田樹の研究室」サイトの該当記事

 自民党の憲法改正の力点の一つは、紛れもなく「自衛隊」を「軍隊」として位置づけることだが、内田は、次のように書いている。毎日新聞の「水脈」(夕刊)のために書いた文章である。

私たちは1945年から後一度もどこの国とも戦火を交えることがなかった。私たちの国の正規軍兵士は他国の領土で人を殺していない。これは先進国の中できわめて例外的なことである。米、英、露、仏、中、どの国もこの「偉業」において日本に遠く及ばない。この成果に対して国際社会は日本にいくばくかの「敬意」を抱いている。少なくとも私の外国の友人たちは私にそう告げてきた。
けれども、改憲派の諸君はそれを「敬意」ではなく「侮蔑」と解釈する。アメリカの世界戦略への「人的貢献」(要するに他国の領土でその国の人々を殺すこと)を怠ったことで日本は「国際社会の笑いもの」になったというのが、彼らが改憲を急ぐ理由として繰り返し言挙げすることである。
日本は「戦争をしない国」として外交ゲームに参加している。それはいわば「ジョーカー」を持たないでカードゲームに参加しているに等しい。九条二項を廃絶するということは「いつでも、誰とでも、したいと思ったら戦争をする権利」を手元にとどめることである。その権利さえ手にすれば日本は隣国から「要らざる侮り」を蒙ることがないだろうと彼らは考えている。
だが、この推論には根本的な瑕疵がある。それは改憲しても日本は結局「ジョーカー」を手に入れることはできないからである。
改憲で日本が手に入れるのは「アメリカ以外の国と、アメリカの許可があれば、戦争をする権利」であり、それだけである。
改憲した後も日米安保条約が維持され、国内に米軍基地が存続し、核武装が禁じられるなら、改憲はただ日本が「アメリカの軍事的属国」であるということを国際社会に向かって改めて宣言すること以上を意味しない。
たしかにアメリカの「軍事的属国」であると公言することで、隣国の人々は日本を恐怖し、場合によっては憎悪するようになるかも知れない。その方が「侮られる」よりはましだと改憲派の諸君は信じているのだろうが、私はその判断には与しない。



“改憲した後も日米安保条約が維持され、国内に米軍基地が存続し、核武装が禁じられるなら、改憲はただ日本が「アメリカの軍事的属国」であるということを国際社会に向かって改めて宣言すること以上を意味しない”という指摘は、自民党の憲法改正案の背後でアメリカの力が働くであろうことを暗示している。

 アメリカは、国連の「PKO」(平和維持活動)の枠を超え、「軍隊」としての「自衛隊」を「自衛」を越えた「戦争」に巻き込むことができる。自国の国民の替りに日本人を紛争の前線に送り出すこともできるだろう。

 内田樹は著書『九条どうでしょう』での論旨を再度繰り返し、こう書いている。

『九条どうでしょう』以来、私が憲法について言っていることはずっと同じである。
それは交戦権を否定した九条二項と軍隊としての自衛隊は拮抗関係にあり、拮抗関係にあるがゆえに日本は「巨大な自衛力」と「例外的な平和と繁栄」を同時に所有している世界で唯一の国となった、ということである。
先日も書いたから、みなさんはもう聞き飽きたであろうが、二つの対立する能力や資質を葛藤を通じて同時的に向上させることを武道では「術」と言う。
「平和の継続」と「自衛力の向上」を同時に達成しようと思ったら、その二つを「葛藤させる」のがベストの選択なのである。
九条と自衛隊が矛盾的に対立・葛藤しているという考え方は、『九条どうでしょう』でも詳述したように、戦後の日本人がすすんで選んだ「病態」である。
本当の対立・葛藤は日米間にある。
九条はアメリカが日本を「軍事的に無害化する」ためにあたえた「足かせ」であり、自衛隊はアメリカが日本を「軍事的に有用化」するためにあたえた「武器」である。
日本はGHQが敗戦国民に「押しつけた」この二つの制度によって、「軍事的に無害かつ有用」な国になった。
ここには何の矛盾もない。
しかし、「ここには何の矛盾もない」という事実を認めることは、そのまま「日本はアメリカの軍事的属国である」と認めることになる。
それは壊滅的な敗北の後の日本人にとってさえ心理的に受け容れがたい「現実」であった。
それゆえ、日本人は「狂う」ことを選んだ。
耐え難い現実から逃避しようとするとき、人間は狂う。
日本人は暗黙の国民的合意によって「気が狂う」ことにしたのである。
それは「九条と自衛隊は両立しがたく矛盾しており、そこに戦後日本の不幸のすべての原因はある」という「嘘」を信じることである。
護憲派も改憲派もそれを同時に信じた。



“日本は「巨大な自衛力」と「例外的な平和と繁栄」を同時に所有している世界で唯一の国となった”ことを、今後も「狂う」ことで日本人が受容することを、私は支持する。
 論理的にすっきりすることが必ずしも正しい選択とばかりは言えない、というのが、現行憲法「九条」の意義だと思っている。

 矛盾のない憲法に改正して、「軍事的に有害」な国になるより、矛盾した現行憲法のままで、「軍事的に無害」な国を選ぶが、必ずしもアメリカのためだけに「有用」な国にはなりたくない、と思っている。

 しかし、安倍自民党は、「九条の矛盾」をとことん強調する。

 「普通の国」には「軍隊」があって当然、とか、「天皇は実質的な元首である」という論理は、あたかも正しそうに思えるし、特に若い人には、「当然じゃん!」というノリで受け取られる可能性も高い。実際に高校生を対象とした調査では憲法改正賛成派が反対派を上回ったらしい。
時事ドットコムの該当記事

自衛隊容認が大幅増=改憲賛成、反対上回る−日高教の高校生意識調査

 日本高等学校教職員組合が昨年度に行った高校生の憲法に関する意識調査で、「自衛隊は(戦力不保持を定めた)9条に違反していない」とする回答が4年前に比べ大幅に増えたことが分かった。担当者は「東日本大震災での救助活動を反映しているのではないか」と分析している。
 調査によると、自衛隊が9条違反と答えた生徒は12%だったのに対し、「違反していない」は45%。4年前の前回調査より否定派が7ポイント減る一方、容認派は20ポイント増加した。
 改憲については、賛成(23%)が反対(20%)をわずかに上回り、前回(賛成16%、反対27%)と逆の結果となった。
 賛成理由(複数回答)では、「環境権、プライバシー権など新たな権利を加えるため」が51%で最多。「現在の憲法は占領軍に押し付けられたと言われているため」が27%、「自衛隊が武力行使できるようにするため」が20%で、「憲法改正のための手続きを簡単にするため」は7%だった。(2013/05/02-14:36)



 しかし、「憲法」が「国民のため」という視点や、「立憲主義」という大きな原則に立ち返れば、「軍隊」や「元首」を憲法で明文化することの意味は、国民の内面的な納得感にのみ留まらない危険性を持つことを、「憲法賛成」と言う高校生は分かっているだろうか。
 「立憲主義」について、護憲派の論客である伊藤真が所長を務める「法学館憲法研究所」のサイトにある「中高で学ぶ憲法用語解説」から引用する。「法学館憲法研究所」サイトの該当ページ

 政治を行う者がその権力をかってに用いて国民を不幸にすることがないように、憲法にもとづいて政治を行わなければならないという原則を立憲主義とよびます。
 近代以前のヨーロッパでは、国王や貴族たちが、生まれや身分にもとづいて権力を独占していましたが、やがて支配者たちの専制政治への不満が高まり、アメリカの独立と建国、フランス革命などの市民革命が起こりました。そして、権力をもち政治を行う人々が厳重に守るべき原理として、ふつうの法律とは区別される憲法という国の最高の法が定められるようになりました。
 1889年に日本でも大日本帝国憲法(明治憲法)が発布されましたが、そこでは天皇は神聖で侵すことができないものとされ、国民の権利も制限されました。したがって、そこではかたちだけの立憲主義が実現したにすぎませんでした。こんにちの日本国憲法は国のあらゆるきまりのなかで最高の地位にあり、憲法に違反する法律や命令、国の行為は効力をもたない(日本国憲法第98条1項)、とされます。憲法は、一人ひとりの自由・人権を守るために、政府や国会議員などが守らなければならない(日本国憲法第99条)ものなのです。


 要するに、憲法は、「誰のために」あるか、という問題だ。その点で、自民党憲法改正草案は「立憲主義に反する」と批判されている。 

 「法学館憲法研究所」のサイトからは、伊藤弁護士が自民党改正案を分析した資料をダウンロードすることができる。
「法学館憲法研究所」サイトの該当資料ダウンロードページ
タイトルは「自由民主党『日本国憲法改正草案』について」とシンンプルな内容になっているが、実に真っ当で分かりやすい分析と批判になっているように思う。

 冒頭に、現行憲法と比較し、次の大きく四つの問題点が指摘されている。

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 この枠組みされた箇条書きの後に、次の文章が続く。

 一言でいえば、人権の保障度を下げ、数多くの義務規定を盛り込むことで、立憲主義と決別している点が最も注目すべき特徴である。国防義務(草案前文3段)、日の丸・君が代尊重義務(草案3 条)、領土・資源確保義務(草案9 条の3)、公益及び公の秩序服従義務(草案12条)、個人情報不当取得等禁止義務(草案19条の2)、家族助け合い義務(草案24 条)、環境保全義務(草案25 条の2)、地方自治負担分担義務(草案92 条2 項)、緊急事態指示服従義務(草案99 条3 項)、そして憲法尊重擁護義務(草案102 条1項)など、多くの義務規定を盛り込みながら、国による権力の行使を容易にし、国民を支配しやすくする意図があるように思われる。
 以下、草案の条文に沿い、重要な問題点をピックアップしながら検討していく。なお、今後も適宜改訂していく予定である。



 個々の条項に対する伊藤弁護士の指摘は、今後も紹介したいと思っている。

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松竹伸幸著『憲法九条の軍事戦略』(平凡社新書)
 内田樹が「誰かがこういう本を書かなければならないと思っていたら松竹さんが書いてくれました」と推薦文を書いている本、松竹伸幸著『憲法九条の軍事戦略』から少しだけ引用する。

 平凡社サイトには、次のようなコピーで本書を紹介している。

憲法改正や国防軍、または日米安保依存だけが、日本の軍事戦略ではない。護憲派の立場から、九条の思想が軍事戦略として他国と渡りあえるだけの根拠をもつことを明らかにする。



 「第一章 九条の軍事戦略が必要とされる理由」からの引用。

平和主義と軍事力保持は矛盾しない
 九条というのは、日本人にとっては、いろいろな角度で肯定的な意味をもつものなのだろう。ある人にとっては、日本が軍事大国にならないための「歯止め」である。別の人にとっては、アジア諸国に対する戦前の過ちに対する謝罪の証だったりする。人によって意味はそれぞれ違っても、日本が「平和国家」として生きてほしいという願いは、国民の心の奥底に共通して存在しており、その象徴として九条をとらえているわけである。
 一方、帝国主義の時代と同じではないにせよ、現代の世界においても戦争が絶えることはない。第二次世界大戦後に発生した戦争の数は、100をはるかに越えるともいわれる。国連は、1990年代、毎年50万人の命が戦争で失われたと警告した。日本国民の目の前で戦争が起き、多くの命が奪われてきたわけである。日本周辺にも不安定な政治、軍事情勢が存在しつづけた。そういう状況下では、万が一のときの安心を求めて軍事力に頼りたいという気持が生まれてくるのは、きわめて自然なことである。
 要するに、軍事力に頼るという気持ちは、平和を願う気持ちと矛盾しない。だからこそ、軍事力を頼る世論が、同時に九条の堅持を求めるのである。軍事力を肯定する世論を平和に反するかのように位置づけるならば、世論の現実から大きく乖離した見方に陥ることになるだろう。
 他方、戦後の日本が選択してきた軍事戦略というのは、米軍の「抑止力」「打撃力」に依存するというものであった。この戦略は、誰よりも強大な戦力に依存しているという点では、大きな「安心」をもたらす面があったことは否定できない。だが、同時に、そのアメリカの戦力は、強大かつ暴走しがちであるが故に、他国との間に緊張をもたらし、かえって日本の安全を脅やかす面があることも事実であった。にもかかわらず、その緊張状態がもたらす不安の強さの故に、アメリカへの依存がますます深まっていくのである。まさに悪循環である。


 こういう状況を踏まえた上で、本書では日米安保依存から脱し、いかに現行九条での新たな軍事戦略を打ち立てるかという課題について考察が続く。本書については、あらためて紹介したい。

 九条以外の自民党案の問題を考える。
 現行憲法の「第三章 国民の権利及び義務」の最初の部分は次の通り。

第三章 国民の権利及び義務
第十条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。
第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
② 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
③ 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。



次に自民党案の「第三章」はこうだ。

第三章 国民の権利及び義務
(日本国民)
第十条 日本国民の要件は、法律で定める。
(基本的人権の享有)
第十一条 国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。
(国民の責務)
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。
(人としての尊重等)
第十三条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。
(法の下の平等)
第十四条 全て国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、障害の有無、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 華族その他の貴族の制度は、認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に
限り、その効力を有する。



現行憲法の第十二条、
“この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ”という内容と、自民党案の第十二条、“この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない

と読み比べて、なぜ「公共の福祉」ではなくて、「公益及び公の秩序」という言葉に替えたのかは、どうしても疑問である。

 「公益」は、ある意味、政府(為政者)が、都合よくどうにでも使える言葉である。「公共の福祉のために利用する責任」は、国民から政府に対してベクトルが向くが、「公益及び公の秩序に反してはならない」という言葉は、さてどちらに矢羽根が向かっているのだろう。私は、「あなたは公益に反しましたから、憲法違反です」と、国民を罰するために改悪したように思えてしょうがない。


 九条も十二条も含め全般的に、自民党の憲法改正草案は、とても「改正」とはいえない。憲法を「国民」の手から遠ざけ、人間らしい生活への危険性を秘めた「改悪」である。九十六条を手始めに、九条を含む憲法改悪をたくらむ安倍自民党の暴走を許してはならないと思う。

p.s.
高校生意識調査について、調査組織が日本高等学校教職員組合であるのに日教組と誤記し、加えて「改憲賛成が過半数」と誤った表現をしていました。お詫びします。
修正し、時事ドットコムの記事を掲載しリンクを張りました。それにしても改憲賛成が反対を上回ったのは、危険な兆候です。
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by koubeinokogoto | 2013-05-03 06:36 | 戦争反対 | Comments(4)

人間らしく生きることを阻害するものに反対します。


by 小言幸兵衛