幸兵衛の小言

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 写真は「赤旗」の号外から借用した、昨日の国会前デモの様子。
「赤旗」の該当ページ


 残念ながら、私はこの中に加わることはできなかったが、昨日は自宅近く、相模大野駅集合のデモ(パレード?)に参加した。
 「戦争させない・9条壊すな! 総がかり行動実行委員会」などが呼び掛けた、「8/30 全国100万人大行動」の一環だった。

 バナーを同委員会のサイトからお借りした。

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「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」サイトの該当ページ

 国会前には12万人という、目標を上回る多くの方が取り巻いたが、相模原では、パレード終了後に1,000人を越えた、という報告があったが、これは相模原地区三か所の合計かと察する。
 総ががり行動委員会のサイトにも、グーグルマップから確認できるが、「赤旗」のサイトに、事前に全国の各地域の行動予定が掲載されていた。
 相模原では、29日と30日に、次のような行動が予定されていた。
「赤旗」サイトの該当ページ


◆相模原市。「ママはせんそうしないときめた。」。29日午後4時、相模大野中央公園でデモ。主催=安保関連法案に反対するママの会@座間・相模原

◆相模原市。「戦争法案廃案! 安倍政権退陣! さがみはら全区いっせいパレード」。
30日午後5時、橋本駅北口デッキ、淵野辺駅北口デッキ、相模大野駅北口デッキにそれぞれ集合してデモ。主催=「戦争イヤだ! inさがみはら」パレード実行委員会

 集合時間の五時少し遅れて、相模大野駅に着いた。
 改札を出て左、南口の方に、すでに多くの人、幟が見えた。
 相変わらずガラケーのピンボケ写真だが、ご覧のほどを。


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 パレード出発前は、1分間スピーチということで、希望者が戦争法案反対について自由に発言する機会がつくられていた。
 私は自粛し(?)、できるだけ高齢の方や女性の声を聞きたいと思った。
 次のような方のスピーチがあり、なかなかの盛り上がりがあったなぁ。
 
 ・74歳の男性。4歳の時に大陸から引き揚げてこられた方は、親から聞いたこととして、
  敗戦時、軍隊は現地の国民を置き去りにして自分たちだけ帰って行った、と話された。
 ・70歳台の男性。友人と小遣いを出し合い「アベ政治を許さない!」のTシャツを作った。
  最前列を歩く方に着て欲しいからと、無償でそのTシャツを置いて行った。
 ・50台の女性。二人の子供を育て、ようやく手がかからなくなった。今は、いろんな
  習い事をしている。「私は怒らせたら怖いですよ!」と、子供たちを戦争には送らせない、
  と見事なスピーチ。
 他にも、国会前にも行かれた70歳台の男性が二人、マイクを握られた。
 その後、市会議員が二人話したかな。
 もっとも若いのは40歳台の男性だった。
 若者は国会前には多かったようだが、相模大野駅では、近くを運動部の練習帰りの見られる中高生が通るばかりで、一部、お子さん連れの家族が参加した以外は、平均年齢は高い。

 5時半頃に、駅前ロータリーで三列で並び、パレード出発。駅周辺を25分から30分ほど行進し、シュプレヒコールを挙げた。私の近くには、70歳台と思しきご夫婦がいらっしゃって、奥さんの方が、黙々と歩くご主人と、一所懸命に声を挙げていた奥さんの姿が、どちらも印象的だった。

 下は、パレード終了後の写真。



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 一緒に行進したご夫婦の奥さんは、パレード出発前、「子どもや孫を戦争に行かせるわけにはいきませんからね」と声をかけてくださり、私が7月に国会前デモに参加したと話すと、「それは、ご苦労さまでした。私どもはなかなか遠くまでは行けないので・・・・・・」との言葉。
 私は心の中で「いいえ、こうやって参加されているだけで、こちらがお礼したいくらいですよ」と思ったものの、ちょっとこみ上げるものがあり、言葉にならなかった。

 写真の幟を持つ方も、決して若い方ではない。 

 全国で、多くの高齢者の方がこの日の行動に参加されたと思う。
 雨が小降りで良かった。

 天も国民に味方しているのだ。


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by koubeinokogoto | 2015-08-31 12:14 | 戦争反対 | Comments(2)
 先日の台風の影響で、川内原発立地地域も、停電になった。
 しかし、台風や停電による対策を、再稼働を認可した鹿児島県が、何ら用意していなかった、という事実が明らかになった。

 福岡を拠点に、記者クラブとは一線を画すジャーナリストたちによるニュース・サイト、HUNTERの記事から引用する。
HUNTERの該当記事

鹿児島県 台風時の原発事故は「想定外」 
大規模停電で無責任体制露呈
2015年8月27日 09:00

 今月11日に再稼働した九州電力川内原子力発電所(薩摩川内市)をめぐり、鹿児島県(伊藤祐一郎知事)の杜撰な事故対策の実態が明らかとなった。
 25日に九州を襲った台風15号の影響で、鹿児島県内にも被害が続出。薩摩地方では翌26日まで多くの地域が停電したままの状態に――。
 原発周辺自治体の住民から「停電が長引けば、原発事故が起きても連絡などできないのでは」といった声が上がったことから、万が一の場合の対応について県の担当課に確認したところ、県は台風時の原発事故を想定しておらず、対応策さえ存在していないことが分かった。

原発周辺で大規模な停電
 九州全域に被害をもたらした台風15号。上陸した25日から通過後の26日にかけて混乱が続き、各地で電気の供給が止まる事態となった。鹿児島県の薩摩地方では、川内原発の立地自治体である薩摩川内市や周辺自治体の広い地域で電気がストップ。25日は、多くの住民が真っ暗な夜を迎えていた。電力の復旧は進まず、26日深夜になっても同地方の3~4割の世帯が停電。完全復旧は27日夜になる見込みだ。

 こうしたなか、薩摩川内市やお隣りのいちき串木野市の住民からは、改めて原発事故に対する不安の声。HUNTERには、次々と読者メールが送られてきた。

 ―― 台風に原発事故が重なったら、どうにもならないと分かった。避難誘導など絶対に無理。停電すれば、さらに事態が悪化するということがハッキリしました。(薩摩川内市・40代女性)

 ―― 電気が通じていないなかで、どうやって原発の事故を知らせるのだろう?県はきちんと対策を立てているのか心配だ。(薩摩川内市・50代男性)

 ―― ここ(いちき串木野)から川内は目と鼻の先。原発が事故を起こせば、大変なことになる。実際、こうして台風がきて停電が続くと、万が一のことが頭に浮かんで、ゾッとする。こうした場合の対策について、九電や県はどう考えているのか。(いちき串木野市・50代男性)

 住民の多くが台風で屋外に出られない状況のなか、原発の立地自治体とその周辺市町で広範囲の停電。川内原発は復水器のトラブルで営業運転開始を先延ばししており、まさに「原発事故」最中の非常事態となった。たしかに、事は深刻だ。
 下は、台風15号が通過した翌日(26日)の、川内原発周辺自治体の停電状況をまとめた表。午前10時になっても、原発がある薩摩川内市では4割以上の世帯が停電。隣接自治体である、いちき串木野市やさつま町では6割の世帯で電気が止まった状態だった。
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渋々認めた「想定外」
 この状況で、原発に事故が起きたらどうなるのか――住民が不安を覚えるのは当然だろう。原子力防災を所管する鹿児島県原子力安全対策課に話を聞いた。

 記者:原発の周辺自治体で大規模な停電が発生している。台風時の原発事故を想定していたのか?
 県側:個別、具体的な事案に対しては、その都度対応策を講じていくことになっている。

 記者:台風、停電。こうした状況で、どうやって原発事故を周知し、避難誘導するのかを聞いている。
 県側:個別、具体的な事案に対しては……。

 記者:杓子定規な話を聞いても仕方がない。今回のような場合に、原発事故を知らせる方法は?
 県側:防災無線やエリアメール、広報車の活用ができる。

 記者:それは、通常の災害対策に用いるもの。台風が荒れ狂うなか、しかも今回のように広域で停電や電話の不通が発生している場合に、役に立つとは思えない。どうやって知らせる?
 県側:個別、具体的な事案に対しては……。

 記者:他に策はないということか?もう一度聞く。台風時の原発事故は想定していたのか?。
 県側:個別、具体的な事案に対しては……。

 記者:想定していない。そういうこと!
 県側:してません……。

 川内原発の再稼働を決めた鹿児島県だが、避難計画は不備のまま。最低限の避難訓練さえ行っていないのが実情だ。台風下での大規模停電、そこに原発事故――県はこうした事態になることを、まったく考えていないかったのである。繰り返される「想定外」。福島第一の事故を教訓にできない自治体に、原発再稼働を決める権限などあるまい。伊藤知事はどう責任をとるのか?

 できる限り「個別、具体的なこと」を想定して対策を講じるのが、原発などの巨大システムの危機対策であるべきだが、鹿児島県は、まったく検討していなかった。
 川内原発再稼働を知事が認可するにあたって、どんな災害をシミュレーションしたのか・・・・・・。

 きっと、九電と国がなんとかするだろう、という役人的な甘えしかなかったと察する。
 
 では、九電は、国は、想定して対策を用意していたのか?

 きっと、何も考えていない。

 経営の論理のみで再稼働を急ぐあまり、案の上、トラブルが発生している川内原発。

 あれだけ、世間の注目を浴び、多くの人員が携わっていてさえ、こうなのである。

 何度も書いてきたが、自然には存在しないプルトニウムという人類にとって危険きわまりない元素を使い、人が管理する範囲を超えた巨大なシステムが、原発である。

 万が一のことではなく、日本の日常的な自然現象である台風、地震などによって、とんでもない危機的状況が起こり得る原発を、なぜ稼働させようとするのか・・・・・・。

 戦争はできるようにする、原発は肝腎な危機対策なしで再稼働させようとする・・・そんな政府は、必要ない。


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by koubeinokogoto | 2015-08-28 12:40 | 原発はいらない | Comments(2)
 最近、江戸時代や明治時代の日本と日本人のことを考えて、つい、渡辺京二『逝きし世の面影』をめくることが多くなった。

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渡辺京二著『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)

 「ノスタルジーに浸るな!」とお叱りを受けそうだが、それでも結構。

 かつての日本にあって、今日では見かけなくなった日本と日本人の光景を、幕末から明治にかけて来日した海外の人たちが残してくれた貴重な文章が満載だから、読むべき価値は高いのだ。

 読み直して印象的な部分を紹介したい。

 まず、「第四章 親和と礼節」から引用。

 ウィリアム・ディクソンは、ある車夫が苦労して坂を登っていると、別な車夫がかけつけてうしろから押してやる光景をしばしば見かけた。お辞儀とありがとうが彼の報酬だった。これは互いに見知らぬ車夫どうしの間で起こることなのである。彼は、東京に住む宣教師が車夫からうやうやしく声をかけられ、様子が気に入って家まで車に乗り、さて財布を取り出したところ、「お気になさらずに」と言われたという話を紹介している。車夫のいうところでは、彼の友達の病気をこの宣教師が親切に治療してくれたので、ささやかなお礼をしたかったのだとのこと。そう言うと車夫はお辞儀をして立ち去って行った。
 エドウィン・アーノルドも「俥屋にお茶を一杯ご飯を一杯ふるまって、彼のお礼の言葉を耳にすると、これがテムズ川の岸で、まぜもののビールをがぶ飲みしたり、ランプステーキに喰らいついたりしている人種とおなじ人種なのかと、感嘆の念が湧いてくる」と言っている。彼は明治二十二(1889)年の仲通りと銀座の群衆について次のように記す。「これ以上幸せそうな人びとはどこを探しても見つからない。喋り笑いながら彼らは行く。人夫は担いだ荷のバランスをとりながら、鼻歌をうたいつつ進む。遠くでも近くでも、『おはよう』『おはようございます』とか、『さよなら、さよなら』というきれいな挨拶が空気をみたす。夜なら『おやすみなさい』という挨拶が。この小さい人びとが街頭でおたがいに交わす深いお辞儀は、優雅さと明白な善意を示していて魅力的だ。一介の人力車夫でさえ、知り合いと出会ったり、客と取りきめをしたりする時は、一流の行儀作法の先生みたいな様子で身をかがめる」。田舎でも様子は変らない。弟妹を背負った子どもが頭を下げて「おはよう」と陽気で心のこもった挨拶をすると、背中の赤児も「小っぽけなアーモンドのような目をまばたいて、小さな頭をがくがくさせ、『はよ、はよ』と通りすぎる旅人に片言をいう」。茶屋に寄ると、帰りぎわに娘たちが菊を一束とか、赤や白の椿をくれる。礼をいうと、「どういたしまして」というきれいな答が返ってくる。

 本書の注によるとディクソンは、おそらく当時中国在留の医師であろう、とのこと。
 アーノルドは、イギリス出身の新聞記者であり、紀行文作家。福沢諭吉の庇護を受け、慶応で講師も務めた人。

 ディクソンやアーノルドが感嘆した日本人の礼儀正しさ、その美しさを、我々はは失ってしまった。
 アーノルドが形容したような、どこを探しても見当たらないような幸せそうな姿も、今の日本のどこを見渡せばあるのやら。

 その挨拶やお辞儀が、異国の人々に美しく優雅なものと映ったのは、その時の日本人に心の余裕があったからだろうとは思うが、それは日本人全員が本来持っている美徳でもある。

 「第五章 雑多と充溢」にもアーノルドの本からいくつか引用があるのだが、印象的な文章を紹介したい。
 アーノルドは言う。「日本の街路でもっともふつうに見かける人物のひとつは按摩さんだ。昼間は彼がゆっくりと―というのは彼は完全に目が見えないのだ―群衆の中を通り過ぎてゆくのを見かける。手にした竹の杖を頼りとし、またそれで人びとに道を明けるように警告す。・・・・・・夜は見かけるというよりも、彼の通るのが聞こえる。たずさえている小さな葦の笛で、千鳥の鳴き声にいくらか似ているメランコリックな音を吹き鳴らす。・・・・・・学理に従ったマッサージを行う者として、彼の職業は日本の目の見えぬ男女の大きな収入源となっている。そういうことがなければ、彼らは家族のお荷物になっていただろうが、日本ではちゃんと家族を養っており、お金を溜めて、本来の職業のほかに金貸しをやている場合もしばしばだ。目の見えぬ按摩は車馬の交通がはげしいところでは存在しえないだろう。彼の物悲しい笛の音なんて、蹄や車輪の咆哮にかき消されてしまうし、彼自身何百回となく轢かれることになるだろう。だけど東京では、彼が用心すべきものとては人力車のほかにない。そいつは物音はたてないし、子どもとか按摩さんと衝突しないように細心の注意を払ってくれるのだ」。
 アーノルドとともに明治二十年代初頭の東京の街頭に立ってみよう。四人の男の肩にかつがれた方形の白い箱がゆく。死者が東京と見納めているのだ。だが「あまり悲しい気分になる必要はない。日本では誰も死ぬことを、ひどく怖れたり嫌ったりすることはないのだから。下駄屋、氷水屋で氷を削っている少女、鰻の揚物を売り歩く男、遊びの最中の男の子と女の子、坊さん、白い制服の警官、かわいい敏捷なムスメが、ちょっとばかり葬列を見やる。だが彼らの笑いとおしゃべりは半分ぐらいしかやまない。・・・・・・街頭はこんどは人足たちで一杯になる。材木を積んだ車を曳いているのだが、紺のズボンをはいた年輩の女たちがあとから押している。・・・・・・あまいねり粉を文字や動物や籠の形に焼きあげる文字焼屋、それに彼の仲間の、葦の茎を使って、大麦のグルテンをねずみや兎や猿の形に吹きあげる飴屋」。紙屑拾い、雀とり、小僧に薬箱をかつがせた医者、易者、豆腐屋、砂絵描き、それにむろん按摩。アーノルドの列挙する街頭の人びとの何と多彩なことだろう。それぞれに生きる位置をささやかに確保し、街を活気とよろこびで溢れさせる人びとなのだ。

 按摩さんの文章で、『真田小僧』を思い浮かべた落語愛好家の方も多かろう。あるいは、『按摩の炬燵』や『三味線栗毛(錦木検校)』かな。

 私が子供の頃の北海道の田舎町でさえ、按摩さんがいたことを思い出す。
 目の不自由な人にとっては、貴重な職業だった。
 今では、あちこちに、チェーンのマッサージ屋さんが出来ているが・・・・・・。

 町の雑踏を通る葬列に対する人びとの対応は、あまりにも冷たい印象を受けるかもしれない。
 しかし、立川談志の言葉じゃないが、「死んだら、終わり」という、良い意味での処世訓が浸透していたように思う。そして、死に対する覚悟の違いを感じるなぁ。

 死ぬことを前提に、精一杯楽しい人生を生きる・・・そんな明るい、生に拘泥しない人びとの住む日本があった、ということか。

 なかなか、そこまで達観できないが、「死んだら、終わり」という意味を、肯定的にとらえる必要があるのかもしれない。

 町には、なんともいろんな職業の人がいたものだ。
 アーノルドが東京のどこを描いたのか分からないが、浅草や両国にも行ったのだろうし、縁日の光景に目を輝かせたに違いない。
 

 挨拶の優雅さ、礼儀正しさと姿勢の美しさ、明るいおしゃべり、相互扶助の精神、死を怖れることになく精一杯生きる姿・・・・・・。

 どれもこれも、かつての日本であり日本人のことである。

 そういった姿を、少しでも取り戻したいと思うが、もちろん、これは安倍晋三が言う「日本を取り戻す」でもなければ「美しい日本」でもない。

 安倍政権がしていることは、そういった本当に“美しかった日本”を、さらに遠い過去に退けようとする行為である。

 江戸、明治のことを考えると、どうしても今の日本の状況に対し悲観的になるが、いやいや負けてはならない、と思う。

 日本という国は、その歴史と伝統を顧みるに、海外の人に尊敬される国になれる要素は、いくらでもある。礼儀正しさ、争いを好まず平和を尊ぶ精神、相互扶助、などなど。
 なぜ、アジア近隣諸国との関係を悪化させるようなことばかり政府がするのだろうか。
 まずは、憲法と遵守し、戦争をしない国として他の国と接することが、日本として相応しいことなのは、間違いがない。


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by koubeinokogoto | 2015-08-27 22:40 | 幸兵衛の独り言 | Comments(4)
 大阪市が、いじめ問題の解決策として、加害者の転校という、まったく教育的ではない愚策を採用しようとしている。
 毎日の記事より。
毎日新聞の該当記事

大阪市教委:いじめ加害者に転校打診 基本方針策定 
毎日新聞 2015年08月25日 11時44分(最終更新 08月25日 16時05分)

◇いじめ情報を故意に隠蔽教職員を懲戒処分の対象に

 大阪市教育委員会は25日の教育委員会議で、いじめが深刻なケースでは加害児童・生徒を出席停止とし、校外の「個別指導教室」で指導すると定めたいじめ対応の基本方針を策定した。被害者側の意向によっては、加害児童・生徒に転校を打診することも盛り込んだ。加害者側に厳しい姿勢を打ち出した方針は全国でも異例。

 基本方針は、「いじめを受けた子どもの救済と尊厳」を最優先すると明記した。いじめを受けた可能性があれば、事実関係が確認される前でも被害児童・生徒として扱うと規定。いじめの事実が確認され、被害者側が同じ学校に通いたくないと望めば、加害児童・生徒に転校する意思があるかどうかを確認すると定めた。

 また、重篤ないじめ事案については、加害児童・生徒を出席停止にすると明記。問題行動を繰り返す児童・生徒を受け入れるため今年5月、大阪市西成区に開設した「生活指導サポートセンター(個別指導教室)」で指導するとしている。

 このほか、いじめ情報を故意に隠蔽(いんぺい)した教職員を懲戒処分の対象にすると定めた。いじめの兆候に気づいた教職員に積極的な報告を求めることで、学校や市教委、保護者間で早期に情報を共有し、迅速な対応につなげる狙いがある。

 2013年に施行されたいじめ防止対策推進法は、全国の自治体に防止策の基本方針を策定するよう促している。【大久保昂】

 教育評論家の尾木直樹・法政大教授の話 いじめた児童・生徒に転校を打診することは、短絡的な考えで賛同できない。いじめの加害者に対する教育の基本は、改心を促して人間として成長させることだ。転校を打診されれば、学校教育に不信感を抱くことになり、健全な成長の阻害要因になりかねない。

 被害者保護、とう視点は理解できるが、加害者を転校させれば済む問題ではなかろう。
 
 「いじめ問題」が明らかになると、まるで、時間的には過去学校で、そして、空間的には他の学校では問題がないかのように、当該学校の周辺がやり玉にあがる。
 2ch的な犯人捜しは最低な行為だし、それに近い報道を流すメディアも、ヒステリックに叫ぶ、紹介した記事にコメントを寄せているような教育評論家も、問題の本質が分かっていないと思う。
 そもそも被害者やその家族を保護するためには、たとえば自殺に追い込まれた被害者の氏名は公開すべきではないように思う。

 問題の本質は、どこにあるか。

 「内田樹の研究室」の二年前の記事を引用する。(太字は管理人)
「内田樹の研究室」の該当記事

いじめについて

ある教育関係の媒体から「いじめ」についての意見を求められた。
かなりたくさん字数を頂いたので、長いものを書いた。

「いじめについて」

学校における「いじめ」とそれに対する対応のありかたについて意見を求められた。
悲観的な話から始めてしまって申し訳ないけれど、「いじめ」に対する即効的な対応策は存在しない「いじめ」は80年代以降の学校教育を貫通している「教育イデオロギー」の副産物であり、ほとんど「成果」と言ってもよい現象である。
30年かかって作り込んできたものを一朝一夕でどうこうすることはできない。同じくらいの時間をかけて段階的に抑制してゆく気長な覚悟がいるだろう。
私たちが今向き合っている教育現場における「いじめ」現象には「太古的な層」と「ポストモダン的な層」がある。
「太古的な層」は人類と同じだけ古い歴史を持っている。こちらの方は、はっきり言って手の着けようがない。とりあえず「ポストモダン的な層」を「太古的な層」から分離して、それが分泌している悪だけを除去すること、それが私たちにできる精一杯のことである。フロイトが「転移」について述べたように、人類史の彼方に起源を持つ「古い疾患」よりも、私たちがその発生に立ち合った「古い疾患の新版」の方がまだしも制御し易いからである。

「いじめ」は「供犠」という儀礼のひとつの変種である。それは「神霊」という概念の発生と同期している。集団に不幸が訪れる。天変地異でも、異常気象でも、不作凶作でも、異族の襲撃でも、集団内部での紛争でも、何か困ったことが起きる。これは神霊の怒りを買ったことの罰である。この罪の穢れを祓うために供犠が行われる。「諸悪の根源」が単一物として存在し、それがすべての悪を分泌している。だから、それを特定し、除去さえすれば社会は原初の清浄と活力を回復する。これが供犠という考え方である。指名されたものは「贖罪の山羊(scape goat)」となり、徴をつけられて集団の周縁に追いやられ、あるいは集団の外部に追放され、あるいは殺害される。
「贖罪の山羊」を追い払っても感染症や病虫害や自然災害に対する科学的効果があるはずがない。でも、それがわかっていながら、人々は供犠の儀礼を手放さなかった。それは供犠には「コスモロジーの効果」があるからである。
供犠はもっともプリミティブな「宇宙観」である。アモルファスな世界にデジタルな境界線を引く。どこでもいい、とりあえず「境界線」を引く。「清らかなもの(fair)」と「穢れたもの(foul)」、「内部」と「外部」、「善」と「悪」の境界線を引く。境界線の選定は本質的に恣意的である。そこに線が引かれなければならない必然性はない。けれども、とりあえず境界線を引いたら気分が少しよくなった。だから、一度やったら止められなくなった。「線を引く」のは人間の本態的傾向である。クロード・レヴィ=ストロースははっきりこう断言している
 
 大阪市の施策は、人間の本能である「線を引く」こと、「贖罪の山羊」を際限なく再生産させる行為である。

 引用を続ける。

「いじめ」は供犠の一変容態である。「仲間ではないもの」を名指し、徴をつけ、「穢れ」を押しつけ、集団から排除することで、排除する側の集団成員たちは同質的になり、凝集力を回復する、そういう仕掛けである。集団統合の力学的な働きに限って言えば、それは「クラス対抗リレー」とか「統一学力テストの学校別平均点競争」というようなものとそれほど変わるわけではない。「いじめ」と「競争」は同じ力学的構造を持っている。同一の組織原理の裏と表だと言ってもよい。
学校で何らかのレベルで集団的統合がつよく求められるときには、必ず供犠的な儀礼が行われる。必ず。これは避けられない。子どもたちは誰に教えられなくても本能的に供犠の有効性を知っている。集団の同質性と統合度を高めたいと思うと、子どもたちは必ず集団の同質化を阻む「異物」、統合を邪魔する「特異体」、集団の安寧を脅かす「敵」を特定し、それを排除しようとする。大人たちがしているのと同じことを子どもたちは彼らなりのスケールで再演するのである
そのとき選ばれるのは何らかのかたちで有徴な個体である。背が低い、太っている、肌の色が違う、言葉づかいが違う、勉強ができない、不器用・・・なんでもいい、何らかの指標で「際立つ」なら、その子どもは「いじめ」の対象になりうる。
現在における「いじめ」論議の最初の「つまずきの石」は「いじめは人間集団には必ず発生する太古的な機制である」という原事実を受け容れないことである。これを「異常」で、「非人間的」なものとみなし、学校内に存在しないことが「ふつう」であるという前提を採ると、問題は最初から解決の糸口を失ってしまう。
現在の「いじめ問題」は、「あるはずのないこと」が起きているのではない。「よくあること」の暴力性と攻撃性が常軌を逸しているのである。ことは「原理の問題」ではなく、「程度の問題」なのである。これを「原理の問題」として取り扱うと、「いじめがまったくない学校」を作り出さなければならない。そうすると「いじめ」があっても、教師や教委がこれを「なかったこと」にして放置し、場合によっては隠蔽するという最悪の事態になる(現にそうなった)。
 

 内田樹が指摘するように、問題は「原理」ではなく「程度」であるということから議論を出発しないことには、「過去にいじめは、まったくなかった」という歴史の捏造にまで発展しそうな気がして、実に嫌なのだ。

 間違いなく、過去にもあったし、今後もゼロにはならないだろう。

 また、「いじめ」は「教育の成果」であるという内田樹の指摘を、教師も教育関係者もじっくりと考えるべきだ。
 運動会で一等を表彰しないなど、「区別」と「差別」の違いを混同してしまった時期に、日本の教育は何を成し遂げ、何を失ったのだろう。


 集団の同質性と統合度を高めるための「敵」の排除は、近所づきあいにおいて親もしているし、教師同士でもやっていることだ。
 大人たちがしているのと同じことを子どもたちは彼らなりのスケールで再演しているのだから、周囲の大人たちがしている「いじめの程度」が深ければ深いほど、生徒、児童が再演するいじめの度合いも深くなるだろう。


 内田説を教育関係者が受け入れているように思えない。きっと彼らの同質性と統合度を高める上では、内田樹は排除すべき「敵」なのかもしれないなぁ。

 同質性を高める、言い換えれば、お友達と仲良くするために、自分たちのサークルから異質と思われる人を排除する本能的な行為の程度を、どれだけ抑えられるか、ということから始めなければならない。
 これは、どれだけ人を殴ったら相手にとって甚大な被害を与えるか、という程度と同じ次元で考えればよいのかもしれない。拳固で殴る、バットで殴る、それも一回なのか複数回なのか、これはイメージできるだろう。

 精神的な暴力においても、どれだけ相手の立場になって、その被害の程度を想像をたくましくできるか、別な言葉でいうなら、相手の立場になって気配りができるか、ということだろうか。

 たしかに、簡単な問題ではない。しかし、原理的な問題としてのヒステリックな善悪論や、「ゼロ」か「1」かという短絡的な議論をしても、決して解決の道にはつながらない。

 
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by koubeinokogoto | 2015-08-25 19:18 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)

FC2創業者に逮捕状。

 私が以前ブログを開設していたFC2の捜査に進展があったようだ。
 朝日の記事を引用する。
朝日新聞の該当記事

FC2創業者に逮捕状、わいせつ動画配信容疑 京都府警
2015年8月20日11時32分

 動画投稿サイト「FC2」のわいせつ動画配信事件で、京都府警はFC2創業者の40代の男について、わいせつ電磁的記録記録媒体陳列容疑で逮捕状を取ったことが、捜査関係者への取材でわかった。男は米国籍を取得しており、現在米国内にいるとみられる。

 捜査関係者によると、男はFC2の実質運営会社「ホームページシステム社」(大阪)社長の足立真(まこと、40)=公然わいせつ、わいせつ電磁的記録記録媒体陳列罪で起訴=と、創業者の弟で元社長の高橋人文(ともん、39)=同=の両被告らと共謀。一昨年6月、インターネットで動画を配信できる「FC2動画」で、大阪市大正区の無職の男(53)が投稿したわいせつ映像を不特定多数が閲覧できる状態にした疑いがある。

 FC2は1999年の設立で、米国に法人の拠点があるとされる。府警は昨年9月、FC2の実質的な運営会社がホームページシステム社とみて、同社や関係者宅を公然わいせつ幇助(ほうじょ)などの容疑で家宅捜索していた。男と両被告がFC2の運営に関してメールでやりとりをしていたことが判明したとして、府警は男がわいせつ映像の配信に関与していたと判断した。
 時事通信の記事は、共謀内容について、次のように書かれている。
時事ドットコムの該当記事
同社などから押収した資料の中に、男が社の運営方針について被告らとやりとりした記録があった。多くのアクセスを稼ぐ投稿者に対する報酬割合を、一般の投稿者より割高に設定するよう話し合うなど、わいせつ動画の公開をあおるような内容が確認されたという。

 容疑者が米国籍であることなどもあり、まだ、この件は長引くかもしれない。
 しかし、もはや、逃げることはできないだろう。
 「うちは、サービスを提供しているだけ。開設者がやったこと」と言い逃れできないだけの証拠があるからこその逮捕状だと思う。

 この事件の記事を含め、私がFC2から引っ越した理由やブログを書き始めた経緯などを、兄弟ブログ「噺の話」で4月に書いたので、関心がある方はご覧のほどを。
2015年4月26日のブログ
2015年4月28日のブログ


 ブログを引っ越してほぼ4カ月が経過した。

 エキサイトの仕組みについては、もう慣れたし、当初の戸惑いはない。

 ただし、いまだに古い記事内で旧記事にリンクしているもののすべてをエキサイトの記事に直せているわけではなく、訪問される方にご迷惑をおかけしていることには恐縮するばかりだ。
 過去記事へリンクをすることが多く、該当記事の数も半端じゃないので、ぜひ、長い目で見ていただきたい。

 4月の記事でも書いたが、引っ越そうと思った時には逡巡もあった。

「やや性急すぎるかな・・・・・・」と思わないでもなかったが、どう考えても経営陣が違法なことをしていると思われる会社のサービスを利用することが、とんでもなく居心地が悪かったのだ。
 今は、あの時に決断して正しかった、と思っている。

 FC2には、私がよく訪れるブログもある。
 もちろん、引っ越しするかどうかは、それぞれの管理人さんの判断である。

 引っ越しを悩んでいる方に私の経験から言うなら、引っ越し当初は、新システムに不慣れで当惑もしたし、検索エンジンからのアクセスが極端に減ったのは事実だ。
 しかし、操作には意外に早く慣れたし、現在ではアクセス数も以前と同等のレベルに戻っている。時間と慣れの問題だと思う。

 なお、こちらの「幸兵衛の小言」のアクセスは、引っ越し後に格段に増えている。
 これは、同じエキサイトブログの管理人さん同士のお付き合いが増えているからでもあるだろう。

 いろんなブログへの引っ越しを検討したが、エキサイトでは、ほぼ以前のレイアウトのまま移管できるし、画像もコメントも生かすことができるので、私はお奨めしたい。
 FC2からエキサイトへの引っ越し方法については、下記をご覧のほどを。
FC2からエキサイトブログへの引っ越し方法のページ

 もし、エキサイトに引っ越しされたい方で何かご質問などがあれば、非公開モードでも結構なので、拙ブログのコメント欄を利用してお聞きください。
  

 さて、当然だが、FC2が企業体として継続している限りは、お客様であるブログの管理人の方へのサポートをしっかり継続すべきだ。
 
 また、実刑が確定していないことを理由に、顧客対応を曖昧にしてはいけないと思う。
 今回の事件に伴い、多くのFC2ブログ開設者や訪問者に心配をかけたことは間違いがない。
 利用者、訪問者には、お詫びすべきである。

 何度か書いているが、ネットの世界の匿名性は、メリットもデメリットもある。
 SNSの持つ利便性も、正邪の両面性がある。

 しかし、ネットワーク世界が拡大することは、間違いないだろう。
 そこで重要なのことは、昔から変わらない。
 サービス提供者も利用者側も、料簡の問題だ。
 カタカナで言えば、モラルの問題である。
 特に運営者側は、経済性の論理ばかりで考えては、道を誤るだろう。
 ネット文化における、ネットモラルが、今後もますます問われるようになる。
 私自身も、しっかりとした料簡でブログを管理するよう、心がけたい。

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by koubeinokogoto | 2015-08-20 19:30 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)
 私の読書は、芋づる式で進むことが多い。
 
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『東京百話-人の巻-』(ちくま文庫、種村季弘編))

 兄弟ブログ「噺の話」で三代目三遊亭金馬の『浮世断語』の記事を書いた。
 金馬からの連想で、ちくま文庫の『東京百話-人の巻-』の巻頭にあるこの文章を再読した。
 『東京百話』は、幅広い分野の方の厳選された短編を楽しむことができるので、時おりめくる本。
 『竿忠の家』の出典は、『ことしの牡丹はよい牡丹』(主婦と生活社)だが、こちらは未読である。近いうちに読むつもりだ。

 先日の記事にいただいたコメントでも、根岸の女将さんのことにふれられた方がいらっしゃったが、多くの落語愛好家の方は、金馬-海老名香葉子-林家三平、という連想をされるだろう。

 初代の林家三平の女将さん海老名香葉子は、東京大空襲で家族を失い、敗戦後に金馬に引き取られた人。
 釣り好きだった金馬が、「竿忠」の娘であった彼女に救いの手を差し伸べたのだった。

 今や、“根岸の女将さん”として、確固たる(?)地位を築いた感のある方が、どんな子供時代を過ごしたのか、ご紹介したい。

 途中で部分的に割愛するが、“かよちゃん”一家が戦争に巻き込まれる前の、平和な暮らしを紹介したい。
 まずは、『竿忠の家』冒頭部分から。
 本所三ツ目通り。押上方面から三之橋を渡って右側が堅川三丁目。
 わたしはここで生まれ、ここで小学校五年まで育ちました。生まれたときから三の字に縁があったんだわ、と思っています。
 お隣はふとん屋さん。裏隣はフォードという大きな自動車の修理工場。三ツ目通りを渡って二百メートルも行ったところに菊川小学校-わたしのなつかしい母校があります。小学校の近くには小さい公園があり、ここはいつも子供たちが遊びほうけているところです。その公園の前に通称百軒長屋があり、その角の煙草屋のおばさんの明るい顔が、いまだに目に浮かびます。
 朝、広いアスファルトの三ツ目通りには、馬や牛の糞がたくさん落ちていて、狐が人間をだまし、あの糞を食べさせたんだという流行歌を、子供たちは親たちから聞かされていました。その、だました狐の歌を思い出します。

  おとっつあん
  今帰ったコーン
  おみやげあげようか
  温かい酒まんじゅう
  コーン
 
 学校から帰る頃には、この糞は近在のお百姓さんの畠の肥料(こやし)にでもなるのでしょうか、きれいに拾われて跡かたもなくなっていました。

 三ツ目通り、三之橋、三丁目・・・なるほど、三平に嫁ぐ運命にあったということか。

 馬糞・・・私が子供の頃には、道端に落ちていたなぁ。
 北海道の田舎生まれだったので、都会に比べトイレが水洗になるのは遅く、小学生低学年まで農家が馬車で集めて回っていたのを思い出す。

 さて、本所生まれの香葉子さんの家は、どんな家だったのか。
 わたしの家は代々釣竿師でした。三ツ目通りの角から二軒目で、間口六間(十・八メートル)、奥行四間(七・二メートル)の家です。二階の手すりの前には、ぶあつい立派な板に、大きく力強い字が彫り込まれた「竿忠」の看板が、掲げてあったのを覚えています。
 店の広い仕事場では、祖父と父がいつも竿づくりをしていました。常連の客が三、四人上り端に腰をかけ、その仕事ぶりを無言でじっと眺めているのが、毎日の店の風景の一つでした。竿師の家業がスタートしたのは五代ぐらい昔で、「竿忠」の屋号を掲げてからは祖父で二代、父で三代めということになります。
 曽祖父は明治の人で、名人とまでいわれたそうです。パリ万国博覧会に和竿を出品して最高級の銀盃をいただき、一躍有名になったようで、わたしの物心つく頃は下町の職人ながら、けっこう華やかな毎日だった印象があります。
 曽祖父の血を受け継いだ祖父や父の仕事ぶりは、子供心にも有無をいわせない気迫を感じさせました。短めの着物にたすきがけで、仕事中ほとんど口をきかず黙々と竿づくりに励む姿には、幼いわたしにも、「偉い人なんだなあ」と思わせる風格がありました。
 祖母は、神田の小柳亭という講釈場と寄席の小屋主の長女で、その界隈では飛び切りの美人という評判の娘だったそうです。わたしも「おばあちゃん」と呼びかけながらも、不思議なくらいきれいな人だと思っていました。
 母は木場の材木屋の長女で、父とは菊川小学校での同窓生。父が猛烈に母に惚れて、たっての願いで嫁いできてもらったそうで、父の一世一代の大恋愛だったことは、家族の間でも言い伝えられていたのです。
 店には、世間に名を知られる人が客として出入りしていました。中島飛行機社長の中島知久平、歌舞伎役者の先代市川海老蔵、落語家、講釈師から陸軍大将まで、そうそうたる人たちです。
 万博で賞を取ったほどの名人の曽祖父の血筋を受け継ぐ、伝統的な竿師の家の様子が、うかがえる。
 おばあさんが寄席、講釈場の小屋主の娘だったことは、その後の運命との縁を感じさせる。

 店を訪れた有名人の中には、きっと三遊亭金馬も含まれていたのだろう。

 そんな本所界隈の生活は、どんなものだったのか。
 象徴的な、その当時の朝の模様をご紹介。
「あさりからしじみよー」
 遠くに近くに聞こえる、もの売りの声から朝が始まります。
 祖母が長火鉢の端で、キセルの吸いがらをはたく音で、母がすっと起き、シャッ、シャッと手早く、着物とかっぽう着を身につけ、髪を撫でつけながら、あわてて下へ降りて行きます。
 間口の広い家の雨戸をゴトゴト開ける音、はたきをかける音、掃き出す音、丸い大きな卓袱台をギイギイ脚を出して組み立て、お茶椀やお皿を置く音、まな板でトントン、トントン・・・・・・の頃には、ご飯をおはちに取る匂い、そしておみおつけの香りがプーンと。
 一日の生活様式も明治時代以来のしきたりどおり、型が決まっていたものです。祖父母が睨みをきかせていて、店の仕事は祖父が、家内の取締りは祖母がとりしきっていました。
 朝脱いだ寝巻きやふとんのたたみ方、しまい方、洗顔、朝食など、子供たちもちゃんとしないと叱られます。母は色白の頬を赤くして、きゃしゃな体をきびきびと動かして、朝の秒刻みの忙しさをこなしていました。
 わたしたちが、
「行ってきます」
 と、次々に学校へ出かける頃には、入口に敷きつめられた玉石は、水で洗い清められています。四人も子供がいるので、部屋は散らかっていましたが、店の中は朝晩塵一つなく掃除されていたのです。
 わたしは、兄妹四人の末娘でした。

 そうなのだ、かつての日本の朝には“音”と“匂い”があった。
 
 また、この文章には、いわゆる‘核家族’時代の現在では考えられない、三代同居の生活風景が描かれている。
 いや、今は“核”すらあるのかないのか・・・・・・。

 出典元の著作の題名が登場する部分を、少し紹介。
 道路での遊びは、ろう石、縄跳び、ゴム段跳びなどの他に、

 ことしの牡丹はよい牡丹
 お耳をからげてスッポンポン

 や、「子取ろ子取ろ・・・・・・」「坊さん坊さんどこいくの・・・・・・」などを、男の子も混じえて喧嘩しいしい遊びをしました。
 ろう石、なんて死語になりつつあるのではなかろうか。

 お次は、竿忠一家の夕食の様子。
 風呂からあがると、おじいちゃんを除いた家族は、大きな丸い卓袱台を囲んで食事です。
「かよちゃん家のおかずはすごいね」
 近所の子によく羨ましがられましたが、今考えてみると、たいしたものではなかったと思います。
 祖父だけは湯あがりに手拭いを頭にのせ、長火鉢の前でくさやの干物などを肴に、わたしたちが食事をする横顔をミコニコ眺めながら、晩酌をチビリチビリとやり、仕事中の顔とはまるで違って、やさしい表情をしてました。
 子供たちは午後八時になると、否が応でも寝なくてはなりません。

  いたずら者は、いないかナァ
  いないかナァー いわみぎんざん
  
「いわみぎんざんがくるから早く、早く。子供は寝なさい。恐いよ、恐いよ」
 祖母が大きな声でせきたてます。
「知ってるんだ、いわみぎんざんは、鼠取のことなんだ」
 口答えをしつつ、わたしは梯子段の丸太の手すりにぶら下がりながら、まだ眠くないのにと、うらめしそうにしていました。
 仕方なくすごすごと二階に上がった兄たちは、部屋いっぱいに敷かれたふとんに入ってからも、笑ったり怒鳴ったり、取っ組み合ったりで、しばらくさわいでいました。
 わたしは父母のふとんの間にはさまれて、二の半の矢がすりのかいまきにくるまって寝ます。夢うつつに、父のほっぺや母の温かでやわらかいほっぺを、嬉しいなあと肌で感じながら。
 その頃になると、三ツ目通りの騒音は静まり、平和で穏やかな夜が更けていきました。

 まもなく、あんな大きな戦争が始まり、予想もしなかった不幸がわたしたち家族を襲ってこようなどとは露知らず、家族八人身を寄せ合って、ささやかながら幸福に充ち足りた生活を送っていました。昭和十五、六年頃までは-。
 昭和8年生まれで国民学校の5年生だったが“かよちゃん”は、昭和20年3月のあの日、静岡県沼津の叔母の家に疎開していた。9日の夜半から10日まで続いた東京大空襲で、父と母、美人だった祖母、長男と次男の兄、そして弟の家族六人を、いっぺんに失う。三男の兄は生き残り、「竿忠」の四代目を継ぐことになる。
 終戦後に親戚をたらい回しにされるが、父の知人で釣り好きだった三遊亭金馬に引き取られるのだった。

 私は、中学生の頃に夏目漱石の本を読むまで、敗戦前の日本について、あまりにも知らな過ぎた。
 意識の中で、昭和20年以前が、ほとんど空白だったとも言える。
 しかし、漱石の本には、私が知らなかった、素晴らしい明治や大正の日本が描かれていた。
 そこには文化の香りが充満していたし、知識人の姿や庶民の暮らしにも、憧れを抱いたものだ。
 「えっ、昔、そんな時代があったの!?」という驚きは、私にとってのカルチャーショックだった。歴史の教科書では分からないものがあった。
 

 戦争の悲惨さ、残酷さを語る手法はいろいろあるだろう。

 戦争体験そのものを語って後世に残していただくことも、もちろん大事だ。
 根岸の女将さんも、伝え続けている。
 デイリースポーツの8月14日の記事より引用する。
デイリースポーツの該当記事
12歳の年に終戦を迎えた。戦災孤児として生きた自身の体験を語り継ぐことを自分の「使命」と捉え、活動を続けている。終戦から70年の時間が流れ、戦争体験者は減少し、高齢化が進むが、「命がある限り伝えたい」と使命に燃える海老名さんの思いとは-。

 「戦後は生きる戦いでした。食べること、眠る所。もう、夢中でした。戦争は哀しいものです」。12歳で戦災孤児となってからの月日を、海老名さんは静かに語り始めた。

 私は、“かよちゃん”の体験を語り続ける根岸の女将さんは、偉いと思う。

 また、戦中戦後のことに加え、戦争で失われた戦前の姿を伝えることも、実に重要だろう。

 あの戦争が起こる前に、日本には今以上に文化的な香り溢れる生活空間があったことや、金銭的に貧しかろうが心が豊かな人々、そして家族の幸福な姿があった事実、歴史を伝えることも貴重なことだ。

 そういった、大事なもの、人を、容赦なく奪うのが戦争であるという思いが、心の奥に沁み込んでくる。

 そういう意味で、紹介した文章は、戦前の「竿忠の家」のことであっても、十分に反戦の訴えにつながる貴重な記録、記憶だと思う。


 私は、歴史における「イフ-If-」をあえてタブー視しないことが重要だと思う。

 SF小説ではないが、パラレルワールドを空想してみる。
 もし、あの戦争がなかったら「竿忠」の人々はどんな家族の歴史を刻むことができただろうか、と想像してみるのだ。

 それは、現在安倍政権が行おうとしている暴挙を食い止めなければ、また、不孝な人々が増えるだけだろう、という想像力にもつながる視点だと思う。

 金銭的には少しぐらい貧しくてもいいのだ。戦火への不安、原発事故へ恐怖を抱くことのない、ごく普通の家族の営みを続けることが実に大事なことであり、それを破壊するすべてのものに反対したい。


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by koubeinokogoto | 2015-08-19 21:41 | 戦争反対 | Comments(6)

安倍談話への感想。


 とにかく、冗長な談話だった。
 朝日の下記のページに日本語全文と、英文版、村山談話や小泉談話へのリンクがある。
朝日新聞の該当記事

 すでに指摘されているように、間接表現や引用が多く、語り手本人の主張とは思いにくい言葉が続いた。

 「お詫び」を含む部分を引用。
 我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫(わ)びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。

 こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。

 過去の内閣の立場と同じならば、「お詫びします」と言えばいいのに、どうしても、自分では「お詫び」したくない腹の内がミエミエだ。

 村山談話から引用する。

 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫(わ)びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。

 その差は明白である。

 一部のメディアや有識者と言われる人々は、「お詫び」や「侵略」などの“キーワード”が入っていると評価しているようだが、私はキーワードが入っていようと、その言葉には心がこもっていないと思う。
 
 あの長い談話で次の最後の部分が、安倍の本心を表明していると思う。
 前段にどんな言葉があろうと、まったく、本心から「反省」もしていなければ、「お詫び」をしようとも思っていない胸の内が現れている。

 私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。

 終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。

 「秩序」とは「挑戦」するものなのだろうか。

 この部分は、「国際秩序の破壊者となってしまった過ちを、この胸に刻み続け」とすべきだろう。

 「積極的平和主義」なんてぇ旗は、はた迷惑だ。

 安倍の思う「そのような日本」を共に創ろうなんて思っている国民は、ほとんどいない。

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by koubeinokogoto | 2015-08-16 08:45 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)
 昨夜、連れ合いの越後の実家より帰宅。
 夫婦ともども、やや疲労困憊気味で、連れ合いと犬二匹は昼寝中である。


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『高木仁三郎セレクション』(岩波現代文庫)

 『高木三郎セレクション』は、2012年に岩波現代文庫として発行された。
 
 『世界』や『科学』そして岩波講座に分担執筆した論文が中心だが、未発表の手記なども含んでいる。

 川内原発が再稼動した。近隣に住む人々は、再稼動に反対した人も賛成した人も、不安の中で毎日を送っているのではなかろうか。
 
 「不安」という言葉を軸に、高木さんは、次のような文章を残してくれている。


市民の不安を共有する
                                (『科学』1999年1月号)
 ダイオキシンやPCB、“環境ホルモン”(内分泌撹乱化学物質)が、毎日のように報道をにぎわせている。伝えられるダイオlキシンの汚染値など、目を疑うような高さである。さらに、地球温暖化、産業廃棄物や放射性廃棄物の問題などが、地上の生命の未来にたちはだかり、人々の心を痛めている。一方で、薬害HIV問題、委託研究をめぐる贈賄問題など、研究者個人の倫理を問われるような問題も多い。私の関係する原子力分野では、事故隠し、データ捏造・改ざんが現在に至るもあいついでいる。
 (中 略)
 難題をもち出したようだが、実は転換はすでに確実に進行している。巨大な予算を使って研究をおこなう大学や国立研究所ばかりが科学の主要な担い手と思われていた時代から、これまでマージナルとされ、科学者や専門家として扱われてこなかったような研究者や活動家、さらには非専門の市民が、この転換に大きな役割を果たしている。この間のダイオキシン汚染の問題をみてみよう。告発の主体になっているのは市民(住民)であり、市民が専門家を動かして測定やデータ公開を促している。地方自治体やその周辺で活動する地域の専門家の果たしている役割も大きい。内分泌撹乱化学物質の問題で、“警世の書”といわれ、世界的なベストセラーとなった“奪われし未来”(原題は、Our Stolen Future<1996>)の著者は、NGOに属する人々である。フロンや地球気候変動の問題なども、今日のように国際的な科学的問題となり、国際条約による化学物質の排出規制にまで発展しえたのは、NGOの精力的な活動によるといっても過言ではない。
 私はなにも、NGO賛美をするつもりはない。しかし、科学者が科学者たりうるのは、本来社会がその時代時代で科学という営みに託した期待に応えようとする努力によってであろう。高度に制度化された研究システムの下ではみえにくくなっているが、社会と科学者の間には本来このような暗黙の契約関係が成り立っているとみるべきだ。としたら、科学者たちは、まず、市民の不安を共有するところから始めるべきだ。そうでなくては、たとえいかに理科教育に工夫を施してみても、若者たちの“理科離れ”はいっそう進み、社会(市民)の支持を失った科学は活力を失うであろう。
 (後 略)

 肝心な部分を、太字イタリックで再度。

“科学者が科学者たりうるのは、本来社会がその時代時代で科学という営みに託した期待に応えようとする努力によってであろう。高度に制度化された研究システムの下ではみえにくくなっているが、社会と科学者の間には本来このような暗黙の契約関係が成り立っているとみるべきだ。としたら、科学者たちは、まず、市民の不安を共有するところから始めるべきだ”
 

 紹介した文章の前半、科学者の倫理感による問題、委託研究における贈賄問題は、残念ながら今日も存在するし、かつてよりその問題の根は深くなっているかもしれない。

 個人と組織の利権や金銭欲が、市民の視点や不安の共有より優先した結果といえる事件が、ここ数年でも頻発している。

 さて、原発。
 川内が既定事実となって、今後も原発再稼動に向け“原子力ムラ”の動きは活発化するだろう。
 
 果たして、市民の不安を共有できる科学者はどれほどいるのか。
 私は少なからずいるだろうと、信じている。
 今後は、その科学者たちと市民がどれほど協調して、発言し行動できるかが、鍵をにぎっているだろう。

 脱原発派の科学者は、大手メディアには、ほとんど登場しなくなった。
 ブログなどのネットによる連携も重要になると思う。

 高木仁三郎さんの警告は受け入れられず、その予測は、残念ながら当たってしまった。

 これからは、高木さんが残した言葉、思いを、どれだけ科学者や市民が継承していけるかが問われている。



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by koubeinokogoto | 2015-08-14 17:20 | 伝えるべき言葉 | Comments(2)
 私が、高木仁三郎さんという人を知ったのは、3.11の後だ。

 福島第一原発の事故後、さまざまな原発の情報を調べているうちに、まず、原子力資料情報室のことを知って、2011年3月21日に記事を書いた。
2011年3月21日のブログ
 その後、同室をつくった人として、高木仁三郎さんを知り、同室のサイトから、そのプロフィールを紹介した。
2011年3月26日のブログ

 その後、古書店を巡り、高木さんの本を探しまくった。
 『プルトニウムの恐怖』は、神保町で見つけ、むさぼるように読んだ。

 政府もメディアも「メルトダウン」という言葉を禁句として発していない時、同書を引用して、「メルトダウン」について書いた。
2011年4月2日のブログ

 3.11以降、高木仁三郎さんの過去の著作が再刊されて広く読まれたことは、良いことだと思う。

 しかし、なのだ。

 最近、古書店に、再刊された高木さんの本が、結構安い値段で並んでいるのを見る機会が増えた。

 良い本が再活用されるのは、それは結構なことだ。
 しかし、私は、高木さんの本を数多く持っているが、一冊として古書店に売ろうなどとは思わない。

 残念だが、3.11が風化していることの兆候なのではないかと思っている。

 政府と九電、いや、原子力ムラが、川内原発を再稼動しようとしている。
 戦争法案で戦争をしようとしていることと同根にある暴挙である。
 これでは、日本人は、歴史からまったく学んでいない、ということになる。


 今こそ、高木仁三郎さんの著作を、あらためて読み直す時ではないだろうか、と思う。


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『高木仁三郎セレクション』(岩波現代文庫)

 2012年に、岩波現代文庫で『高木三郎セレクション』が発行された。
 『世界』や『科学』そして岩波講座に分担執筆した論文が中心だが、未発表の手記なども含んでいる。

 編集は、東京都立大学で、当時31歳の新任助教授として赴任された高木さんの薫陶を受けた中里英章さんと佐高信さん。

 中里さんは、高木さんの影響を受けて、七つ森書館を始めた方だ。

 本書には、2011年5月7日の拙ブログで書いたが、共同通信が取り上げた、日本物理学会誌の1995年10月号に掲載された「核施設と非常事態—地震対策の検証を中心に—」の論文も掲載されている。
2011年5月7日のブログ

 今回は、『世界』の1999年6月号に掲載されたインタビューを少しだけ引用したい。前年1998年に癌が発見され入院されたが、その後の取材。
 章の題は「私の生きてきた道、いま伝えたいこと」である。



-50年代、60年代には、科学はどんどん世の中を明るく、よくしていくのだというポジティブなイメージ一色でしたね。

高木 私なんかもそういう世界で、自分がそれをやるんだと思っていた。日本は非科学的な部分があったために戦争に負けた、ということを聞かされて育ったというこもmこあったでしょう。まだその頃は、科学そのものを疑うことはなかったと思う。けれども、自分との関係でシステムを疑い出したのは確かです。
 大学を卒業して、はじめて日本の会社というシステムに出会う。私はサラリーマンの家庭ではなかったので、会社というものをそれまで知らなかった。職としては研究職なのですけれども、あるシステムの中で駒になって動いているという感じが強かったのです。子どものころロマンとして描いていたような、宇宙の本質を見きわめるようなことはできなくて、巨大なシステムの中の非常に細かい部分でスペシャライズする、専門家になる。そのことによって、はじめて学者としてのアイデンティティができる。つまり、自分を非常に部分化すればするほど、科学者としてのアイデンティティが保障されるというような世界なんです。
 そのとき、自分のアイデンティティは何なのか-もちろんアイデンティティなんていう言葉は使っていなかったでしょうが-そういう疑問を抱いたのです。
 日本の企業には、上が言ったことに対して逆らえないような暗黙の雰囲気があって、こういう雰囲気によって、みんなが戦争に持っていかれたのではないか、などと考えたりするようになりました。

 私は、ここ数日のNHK他の戦争特集番組を見て、高木さんが原発関連企業内で感じた、この、上が言ったことに逆らえないような「暗黙の雰囲気」を、あまりにも多く感じた。

 高木さんは、企業を離れ、大学に勤め研究者となった後、「市民科学者」と自らを位置づけて、原発に対峙する科学者としての生涯を送った。

 私も企業人として、この「暗黙の雰囲気」は、よく分かる。
 上司に逆らったこともあれば、暗黙の雰囲気に負けてしまったことも、たびたびある。
 
 しかし、問題は、その結果がもたらす影響である。
 企業の選択は、その企業の成長や衰退、また関わる企業人の将来への影響はあるが、必ずしも人の生死に影響するものではない。

 人の生き死にに関する場面で、そういった雰囲気に接するのは、原発などの巨大システムや戦争など、特殊な環境に特化されるだろう。

 「暗黙の雰囲気」は、日本古来のもので、今さら、高木さんの言葉から引用するまでもない、と思われるかもしれない。
 
 しかし、私は、この雰囲気に、ここ数日、あまりにも重いものを感じた。

 たとえば昨夜は、NHKスペシャルの「特攻~なぜ拡大したか~」を見た。
NHKスペシャル「特攻~なぜ拡大したのか~」
 終戦後の交渉を有利にするための、いわゆる「一撃講和」が、最後まで悲惨な特攻を続けた背景にあった。
 本土決戦派に官軍も屈し、「決号作戦」が決まった。
 紙で作ったような、戦えるはずのない航空練習機で戦おうという、無謀な作戦である。
 未熟な操縦士を乗せる練習機を集める役割を担った、磯辺利彦さんの言葉が、印象的だったのだ。
 彼は、上官の「命令」であるから、、一所懸命に練習機集めを行った、と述懐する。

 命令には逆らえない。まさに、「暗黙の雰囲気」であり、高木仁三郎さんも、指摘するように、そういった雰囲気こそが、戦争を泥沼化させたのだろう。
 同番組は、今夜深夜二時半から再放送されるので、関心のある方は録画のほどを。

 昨夜は紹介された言葉が少ないが、磯部利彦さんは、「NHK戦争証言アーカイブス」に証言動画があるので、ぜひご覧いただきたい。磯部さんも、戦争で大きな被害を受けている。
「NHK戦争証言アーカイブス」の磯部利彦さんのページ 


 あえて書くが、現在参議院の特別委員会で、JSCの理事長が、新国立競技場の建築計画が白紙になったにもかかわらず、自分たちの新しいビルを建設することを止めようとしないことについて、文部科学省の命令に従って粛々と、なんてぇほざいているのは、ここで言う「暗黙の雰囲気」とは、まったく別ものである。
 彼らは、確信犯として、血税を無駄遣いしている。
 下村もJSC理事長も、早く身を引くべきである。
 いわば、下村やJSC理事長の行動に対して、文部科学省やJSCの内部に漂っている「暗黙の雰囲気」こそ、打破すべきなのである。

 しかし、なかなか自浄作用を期待できないから、国民の怒りは募るばかりなのだ。

 自民党、公明党の人々よ、上に逆らえない「暗黙の雰囲気」を、ぜひ打ち破って、国民のため、平和のために行動してくれ! 
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by koubeinokogoto | 2015-08-10 16:52 | 伝えるべき言葉 | Comments(2)

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 この写真は、広島に原爆が投下されてから、約3時間後の貴重な写真。

 昨夜は、今、私のお気入りである木曜時代劇「まんまこと」の代り(?)に、NHKスペシャル「きのこ雲の下で何か起きていたのか」が放送されたが、その番組で中心となる写真だ。

 どうせ暑さで寝れないので、録画をじっくり観た。

 写真を借りたNHKサイトの「NHKスペシャル」のページから引用する。

NHKサイト「NHKスペシャル」の該当ページ

1945年8月6日、広島で人類史上初めて使用された核兵器。
その年の末までに14万人以上の命を奪ったという数字は残されているが、原爆による熱線、爆風、放射線にさらされた人々がどう逃げまどい、命つき、あるいは、生き延びたのか、その全体像は実際の映像が残されていないために、70年の間正確に把握されてこなかった。
巨大なきのこ雲が上空を覆う中、その下の惨状を記録した写真が、わずか2枚だけ残っている。原爆投下の3時間後、爆心地から2キロのところにある「御幸橋」の上で撮影されたものだ。
被爆70年の今年、NHKは最新の映像技術、最新の科学的知見、生き残った被爆者の証言をもとに、初めて詳細にこの写真に映っているものを分析し、鮮明な立体映像化するプロジェクトを立ち上げた。きのこ雲の下の真実に迫り、映像記録として残すためである。
平均年齢が78歳を超えた被爆者たちは、人生の残り時間を見つめながら、「いまだ “原爆死”の凄惨を伝えきれていない」という思いを強めている。
白黒の写真に映る50人あまりの人々の姿―――取材を進めると2名が健在であることが判明。さらに、その場に居合わせた30名以上の被爆者が見つかった。彼らの証言をもとに写真を最新技術で映像処理していくと、これまでわからなかった多くの事実が浮かび上がってきた。
火傷で皮膚を剥がされた痛みに耐える人たち、うずくまる瀕死の人たち---
皆、爆心地で被爆し、命からがらこの橋にたどり着いていた。写真に映る御幸橋は、まさに「生と死の境界線」。多くの人がこの橋を目指しながら、その途中で命尽きていたのだ。
きのこ雲の下にあった“地獄”。
残された写真が、70年の時を経て語りはじめる。
※フランス公共放送F5との国際共同制作。


 NHKサイトの「もっとドキュメンタリー」のページには、より簡潔な紹介文とともに、該当写真が大きく掲載されている。
NHKサイトの「もっとドキュメンタリー」該当ページ

70年前、広島を壊滅させた原爆投下。巨大なきのこ雲の下の惨状を記録した写真が世界でたった2枚だけ残っている。投下3時間後、爆心地から2キロのところにある「御幸橋」の上で撮影されたものだ。今年、NHKは居合わせた被爆者の証言、最新の映像技術や最新科学をもとに、50人あまりが写る写真の真実に迫った。原爆特有のやけどを負っていた皮膚や今にも亡くなろうとしている人々…。そこはまさに「生と死の境界線」だった

 このページに、8月9日(日)午前2時45分~午前3時50分に再放送されると記載されている。
 見逃した方には、ぜひお奨めする好番組であった。

 概要を記しておきたい。

 ここからは、ややネタバレになるので、事前に知らずに再放送を観たい方は、ご覧になった後でお読みいただきたい。

(1)写真とその場所
 中国新聞社に厳重に保管されている原爆投下の3時間後に撮られた写真のネガがあった。
 撮影したのは同新聞社のカメラマンだった松重美人(まつしげ よしと)さん。松重さんんは爆心地から約3km離れた自宅で被爆した。それでも、仕事柄、カメラ(これは、きっと名機マミヤ・シックスですね)を持って町に出た。
 御幸橋で、その光景に遭遇。当時、国民の戦意を削ぐような写真の撮影を禁じられていたので、松重さんは躊躇っていたのだが、カメラマンの本能からなのだろう、シャッターを切った。二枚目は少しアップの写真だった。
 御幸橋は、町の中心部と郊外を結ぶ重要な橋。爆心地から2キロ以内の壊滅地帯のすぐ近くながら火災をかろうじて免れたため、爆心地方面から郊外に逃げようとした人がようやく一息つける地点だった

(2)生存者:河内光子さん
 御幸橋で撮られた2枚の写真に同じ人物が写っていた。セーラー服を着たその女性は今も健在だった。その方は、当時13歳で、広島女子商業学校の2年生だった河内光子(こうち みつこ)さん(83)。
 河内さんによると、ガラスの破片がいっぱいついて背中に怪我を負ったが、痛いという意識はなかったという。彼女は友達の怪我のことで頭がいっぱいだったという。隣に写っている友達は、服は破れ肌があらわになっていた。
 当日、河内さん達は爆心地から1.6kmの貯金局で仕事をしていた。河内さんは、原爆の猛烈な爆風に吹き飛ばされ、壁に叩き付けられて気絶した。意識を取り戻すと、近くには内臓が飛び出た姿の同級生などが倒れている。顔を血で染めた友だちが「頭が割れた」と言いながら、抱きついてきたという。
 河内さんが、火災から逃げ、通れる道を探しながら辿り着いたのが御幸橋だった。投下から3時間後、何が起きたのか分からないまま、傷ついた体でここにいたのだ。
 写真には、河内さんにとって忘れられない女性の光景が写っていた。その女性は、黒焦げになった赤ちゃんを抱いていた。その子の姉のようだったった。「(姉と思われる少女は)起きてと叫んでいた」。河内さんは、「起きて」と叫びながら黒焦げの赤ん坊をゆすっている様子を自分で再現してくれた。「かわいそうだったが、どうしてあげるわけにもいかなかった」と河内さんは回想する。

(3)生存者:坪井直さん
 この写真では人だかりがしていて、足に何かを塗っている人もいる。その足元には四角い箱のようなものが映っていた。臨時の救護所となっていたのだ。
 その光景を少し離れた場所で見ていたのが、生存者の坪井直(つぼい すなお)さん(90)。
 坪井さんによると、それらの人々は火傷を負った体に食用油を塗っていたという。坪井さんも油を塗る順番を待っていたらしい。
 坪井さんは当時20歳で、広島工業専門学校(広島大学工学部の前身)の学生。爆心地から1.2kmの屋外で被曝し、背中や顔などに大火傷を負い、耳の半分がちぎれていた。
 瀕死の状態で御幸橋にたどり着いて周囲を見て、坪井さんは死を覚悟したという。坪井さんは、手元にあった石で「坪井はここに死す」と地面に書いた、と回想する。
 番組後半、坪井さんは、自分の背中をカメラに写させた。70年経っても、大火傷の傷跡が痛ましい。きっと、原爆被害の記録を、自らの体で残しておきたい、という強い思いがあったのだろう。

(4)フラッシュバーンや、原爆投下後の光景
 番組では、原爆特有の火傷「フラッシュバーン」についても、写真の検証を踏まえて説明される。
 フラッシュバーンとは、強烈な熱線に当たることで皮膚の水分が一瞬で水蒸気になり、水蒸気で膨らんだ皮膚は裂けて垂れ下がり、痛覚神経がむき出しになる火傷。専門の医師の言葉によると、「おそらく人間が感じる痛みの中で最大の痛み」だという。
 御幸橋にいた人の中には、フラッシュバーンによる耐えられない苦痛を味わっていた人も多かったと推定される。
 フラッシュバーンの恐ろしさを、生存者の河内光子さんも自らの肉親のこととして体験していた。この写真にも写っている彼女のお父さんは屋外で被爆して大火傷を負い手が腫れ上がっていた。彼女が父親に声をかけ手を掴んだとき、腕の皮が剥けてしまったという。痛くないかと尋ねると、お父さんから「聞くな!」と怒られたと回想している。
 番組制作にあたって、原爆投下当日に御幸橋を通った30名以上の方から話を聞くことができたらしいが、その光景は壮絶だったらしい。両手を突き出し、皮膚がめくれた腕が擦れないようにしていた人や、汚れた雑巾をぶら下げているような姿で多くの人が歩いていた、という言葉が、その光景の凄まじさを物語る。

(5)写真公表のきっかけなど
 この写真は戦後しばらく人目に触れることはなかったが、その存在が世界に知られるようになったのは、アメリカの写真雑誌「LIFE」による1952年9月号のスクープだった。
 なぜ、7年もの時間がかかったのかを、核兵器をテーマにしているジャーナリストのグレッグ・ミッチェルさんが語る。
 ミッチェルさんは、写真を撮った松重美人さんから「写真はアメリカの進駐軍によって奪われてしまった」と聞いたという。
 戦後、日本を占領したアメリカは、戦争被害の写真を検閲し、日本人が撮影した写真を見つけては没収していた。ミッチェルさんは語る。「原爆投下が実際に何をもたらしたのか、アメリカ政府は隠そうとした。一般市民を巻き込み無残な死に方をさせた事実を知られたくなかったのだ」。
 今年ワシントンで原爆展を開いたアメリカン大学のピーターカズニック教授は、公表までの7年間にアメリカで何があったのかを語る。この間、「冷戦」において、核兵器が重要な抑止力となるとアメリカは考え、原爆へのネガティブな情報である同写真は、日本はもちろんアメリカでも7年間秘密にされていたのだ。

 2枚の写真に写っていた中では、河内さんの同級生も消息も分かった。
 しかし、その同級生の女性は、被爆者として差別されることを怖れて、写真に写っていることを公けにすることを拒んだ。『黒い雨』でも分かるように、被爆者への差別は、根深いものがあったのだ。

 爆心地から2キロ以内の壊滅地帯には、12歳~13歳の中学生が約8000人いて、勤労奉仕中だったその人たちの多くが亡くなっているという事実も、あまりにも辛い。

 河内さんは、自宅で黒焦げになった姿で見つかった母親を含め、亡くなっていった人たちのことを思い、「私はどうして生きたのか」「どうして助かったのか」と問い続けてきたと言う。
 生かされているのは、伝えるためになのか、それもよく分からない・・・と河内さんは語っている。生と死の紙一重のところにいた河内さんには、人には分からない苦悩が、70年続いているのだろう。

 坪井さんは、90歳になる今まで、放射能の影響に違いないと思われる癌などの病気と闘い続けてきた。
 被爆者が年々少なくなるなか、坪井さんは杖を突きながら歩く身で、自らの経験を伝え続けている。「人間の命がいちばん大事。その命の取り合いをする戦争なんてもってのほか」と若い聴衆に訴えている姿に、頭が下がる。

 
 「ガジェット通信」には、2枚の写真、実際の御幸橋にある写真を含む記念碑などを含め、この番組を的確に紹介しているので、ご参照のほどを。
「ガジェット通信」の該当記事

 最近のNHKには、「政府の放送局か!」、と怒りたい時もあるが、こういう番組を観ると、まだジャーナリズムの精神をすべて失ったわけではないようだ、とも思う。

 昨日は、いまだに役人の作るルールの不都合で、被爆者なのに被爆者手帳をもらえない人々がいることを、記事に書いた。

 爆心地近くにいた数少ない生存者である河内さんも坪井さんも、そして、被爆者手帳の申請をしている方々も、すべての人が、戦争被害者である。

 私はこの写真のことや河内さん、坪井さんのことをこの番組で初めて知ったのだが、後で調べると、これまでにもメディアで取り上げられていた。
 四年前の日経に、河内さんの被爆体験記の出版記念会でお二人がお会いしたことが掲載されている。
日経の該当記事

 この記事で、坪井さんは、日本原水爆被害者団体協議会代表委員と書かれている。
 番組では団体名について触れていなかったが、坪井さんは、現在も日本原水爆被害者団体協議会代表委員であり、広島県原水爆被害者団体協議会理事長だ。
 昨日の朝、安倍晋三は、きっと坪井さんの同席した席で被害者団体から、安保法案は違憲であり撤回せよ、と抗議を受けているはずだ。
 安倍晋三には、あの御幸橋の光景を見て、いったい何を思うのか。それとも、やはり、血も涙も通っていない‘丸太ん棒’なのか。
 安倍は、原爆も「弾薬」であり「武器」ではないと言うのだろうか。

 原爆も原発も、人類が、自然に存在しない放射性物質を作り出してしまったことに端を発する、人間の管理できない魔の産物である。

 核兵器廃絶を唱えるのであれば、「核」になり得るプルトニウムを作り出す原発も含め、廃絶すべきである。
 原発の❛産業廃棄物❜で作られる劣化ウラン弾が、どれほど中東で一般市民の命を奪っていることか。
 それをも「弾薬」であり、米軍への輸送が可能である、などとほざく防衛大臣は、真っ当な首相なら罷免すべきである。もちろん、任命責任もとって欲しい。

 多くの犠牲を伴う歴史から何も学ぼうとしない政府には、断固として戦争反対を唱え続けたい。

 なお、広島平和資料記念館のサイトの「平和データベース」で、河内光子さんの証言ビデオを見ることができる。ご興味のある方は、ぜひご覧のほどを。
「広島平和記念資料館」サイト平和データベースのページ

p.s.
あらためて録画を見た。
河内さん、坪井さんを中心に記事を書いたが、後半に登場する当時13歳だった桑原千代子さんを含め、取材に貴重な記録と記憶を提供していただいたすべての方に感謝しなければならない、と痛感。
語ることは、実に辛いことだったでしょうが、この番組にご協力いただいた皆様、ありがとうございます。

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by koubeinokogoto | 2015-08-07 12:56 | 戦争反対 | Comments(4)

人間らしく生きることを阻害するものに反対します。


by 小言幸兵衛