幸兵衛の小言

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 川内に続き、高浜原発の再稼働の恐れが出てきた。
47NEWS(共同通信)の該当記事
高浜原発再稼働認める
福井地裁が仮処分取り消し
2015年12月24日 14時17分

 福井地裁(林潤裁判長)は24日、関西電力高浜原発3、4号機(福井県高浜町)の再稼働を差し止めた4月の仮処分決定を取り消した。地元同意の手続きも終えており、関電は1月下旬から順次運転を始めたいとしている。原子力規制委員会の審査に合格した原発では、九州電力川内原発1、2号機(鹿児島県)に次ぐ再稼働となる見通し。

 福井地裁の樋口英明裁判長(名古屋家裁に異動)は4月14日、規制委の新規制基準を事実上否定、高浜3、4号機の再稼働を禁じた。関電は決定を不服として、福井地裁に異議を申し立てていた。


 直前に県知事が再稼働を同意する発言をして、司法決定の後押しをした。

 馬鹿な歴史が、また繰り返されようとしている。
 
 なぜ国も立地地域も、再稼働を望むのか・・・・・・。

 「人の命」より「金」の方が重くなるのが、相も変らぬ原発の構造的な問題だ。

 交付金という「麻薬」から地元が抜け出せないような仕組みそのものにメスを入れなければならないのだが、国(経産省)は、その「麻薬」切れの患者をいじめるような施策を実施している。

 要するに、原発を再稼働をしないと交付金を減らす、という脅しをかけているのだ。
 東京新聞の記事を引用。
東京新聞の該当記事

再稼働で交付金増減 自治体財政に「アメとムチ」
2015年8月12日

 経済産業省は二〇一六年度から、原発を抱える自治体に配る「電源立地地域対策交付金」を減額する方針を固めた。一五年度予算では再稼働した原発のある自治体に配る交付金を新設しており、政府は再稼働の有無によって自治体の財政を揺さぶり、再稼働への同意を促す狙いとみられる。露骨な「アメとムチ」に、識者から批判の声もあがる。

 同交付金は国が原発の稼働実績に応じて立地自治体に配分してきた。東京電力福島第一原発の事故後に全国の原発が停止した後も、国は地方財政への影響を和らげるため、全ての原発が「最大限十三カ月フル稼働して三カ月の定期検査を受ける」という理論値(稼働率81%)に基づき交付金を配ってきた。一五年度予算も、ほぼ前年並みの九百十二億円を計上している。

 しかし震災前の原発の稼働率は平均70%で、事故前より交付金額が増えた自治体もある。

 また、九州電力川内原発が再稼働したため「交付金の趣旨に従って」(経済産業省関係者)稼働していない原発と差をつける必要があると判断した。宮沢洋一経済産業相は十一日の記者会見で「現在の81%という割合はかなり高く、稼働実績などを踏まえて見直したい」と話した。

 一方、経産省は一五年度予算でも、原発の再稼働など「環境変化」(同省)した自治体に配る十五億円の交付金を新設。再稼働したら「アメ」、停止なら交付金減額の「ムチ」という姿勢を強めている。自治体が財政への影響を懸念し、交付金ほしさに原発の再稼働を求める可能性がある。

 原子力資料情報室の伴英幸共同代表は「カネで原発の再稼働を促せば、かえって原子力政策への反発を呼ぶ」と批判。福島大経済経営学類の清水修二特任教授(財政学)は「交付金は原発を維持推進する政策誘導に使われてきたが、今後は地元自治体が廃炉を選択しても交付を受けられるようにして、本格的な『廃炉時代』に移行するべきだ」と語った。 (吉田通夫)

 電源立地地域対策交付金は、かっての電源三法交付金の仕組みが2003年10月1日に法改正されて一つにまとめられたもので、原発立地地域への「迷惑料」であり、原発を稼働させなかればならないようにする「麻薬」であることに変わりはない。
 
 同交付金について、東京新聞は昨年12月に分かりやすい解説記事を掲載していたので、そちらからも「Q&A形式」の内容を引用したい。

東京新聞の該当記事
Q 電源立地地域対策交付金って何。
A 一九七四年に田中角栄内閣がつくったんだ。当時の中曽根康弘通商産業相は「原発をつくるところの住民に迷惑をかけているので還元しなければならない」と説明した。火力などすべての発電所のある自治体に配られるけど、制度の趣旨は原発という「迷惑施設」の受け入れを促すためだ。原資は電気料金に一世帯あたり月平均で約百円ずつ上乗せされる「電源開発促進税」の一部だ。

Q 私たちも負担しているわけね。国は自治体にどのぐらい渡しているの。
A 二〇一四年度当初予算では総額九百八十七億円だった。自治体が原発受け入れを決めると翌年度から支払いが始まり、運転開始後は発電実績に応じて額が決まる。経産省の一一年の最新パンフレットで、出力百三十五万キロワットの最新型原発を設置すれば五十年間で計約千三百六十億円もらえると紹介している。

Q 自治体はどんなことに使っているの。
A ほぼ自由で、保育園や消防署の人件費やごみ収集費など住民生活に欠かせない費目にも充てられている。原発がなくなると交付金をもらえなくなるから、自治体からは古い原発を廃炉にするのではなく建て替えを求める声も上がる。「原発マネー」はいったんもらうと抜け出せず、「麻薬」に例えられる。問題視する専門家もいるけど国も地方も改革の意識は薄い。

Q 今回、経産省は交付金制度を見直すはずだったのでは。
A 見直すといっても先祖返りにとどまる恐れがあるよ。すべての原発が停止しているが、政府は一二年度からすべての原発が81%稼働しているとみなして渡してきた。それを従来のように、原発が稼働する自治体に重点配分しようというんだ。原発マネーをほしがる地方自治体に、再稼働を急がせる思惑もありそうだ。

Q アメをぶら下げて自治体を動かそうというわけか。原発関連の補助金、交付金はほかにもあるの?
A 原発について広報するための交付金などたくさんある。自治体は原発に「核燃料税」という独自の税金もかけていて、やはり私たちの電気料金に上乗せされている。国はエネルギー基本計画で「原発への依存度を可能な限り下げる」と言っている。それなら廃炉になる原発を抱える自治体への交付金を増やして、廃炉を求めやすくするなど交付金の在り方も変える必要がある。
 なかなか良い記事だと思う。

 しかし、今日の福島地裁の記事、東京新聞の第一報は共同の配信記事だったなぁ。

 朝日も、東京も、政府に忖度せず、頑張ってくれよ!

 FIFAの汚職を暴くきっかけが、英国サンデー・タイムズの記者の勇敢な行動であったことを、ぜひ日本の新聞記者も考えて欲しい。


 何度も書いているが、第一に、長期的なエネルギー政策をどうするのかというビジョンを国は掲げなければならない。

 放射性廃棄物は日々増えるばかりで、その処理方法さえ決まっていない原発。
 人間性を無視した放射能が充満した場所での危険な労働を強いる原発。
 原発を稼働させるために、火力発電による大量の電気を必要としている事実。
 何より、大地震や津波、人為的なミスで巨大事故発生の可能性の高い原発。
 厳密に計算すれば、決して他の仕組みと比較して安いと言えない原発。

 長期的展望に立てば、原発が選ばれる可能性は、きわめて低い。
 
 そして、その長期計画に沿って、電源立地地域対策交付金などという「麻薬」を早急に断ち切り、立地地域が、原発に頼らずに再生できる方策を検討し、国や県は支援すべきである。

 なぜ、福島第一原発事故がいまだに収束していない状況で、他の原発の再稼働に踏み切るのか・・・・・・。

 日本は、過去に何も学ぶことのできない国であってはならない。
 
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by koubeinokogoto | 2015-12-24 22:36 | 原発はいらない | Comments(6)
 白紙撤回になった新東京国立競技場のデザイン案の話題がメディアを賑わしている。
 当初のデザインが白紙になったのは、予定をはるかに上回る建築費がかかりそうになったことでメディアも騒がしかったこともあるし、何より安倍政権の大臣による不祥事などが続き、政権の支持率が下がることを危惧した安倍の政治的な打算が背景にある。

 一施設ではなく、東京五輪全体の運営費も、当初予定を大きく上回り、新国立競技場の1500億とは文字通り“桁違い”の費用になりそうなのだが、かといって五輪開催を白紙撤回しよう、という人はいそうにない。

 まずは「日刊ゲンダイ」の記事から。(太字赤字は管理人)
「日刊ゲンダイ」の該当記事

これは東京五輪詐欺だ 運営費「1・8兆円」に6倍増の異常
2015年12月22日

 赤字5000億円規模の東芝どころの話じゃない。東京五輪の大会運営費が当初見込みの6倍、1兆8000億円に膨らむ可能性があると言いだしている。組織委が「払えない」とバンザイすれば、国民や都民の血税を投入する羽目に。これは完全に「五輪詐欺」。もう大会を返上しろ!

■さらに膨れあがる可能性も

 実際、かつて返上した例がある。1976年の冬季五輪の開催地に選ばれていた米デンバー市。インフラ整備などで巨額の血税が投入され、環境も破壊されるという市民の反対運動が起き、72年の住民投票で返上が決定した。代わって、オーストリアのインスブルックで開催。東京五輪まであと5年弱、まだまだ間に合うだろう。

 そもそも五輪招致委と東京都がIOCに提出した立候補ファイルでは、運営費は3000億円のはずだった。それが1兆8000億円とは国民を愚弄するにもほどがあるが、これには白紙撤回した揚げ句、22日にも再決定される新国立競技場の建設費は含まれていない。五輪関連経費は2兆円を超える

 なぜ、こんなことになったのか・・・・・・。
 こうなることを事前に知っていた人が多いのも、実は五輪なのだ。
 ゲンダイは、こう続けている。
 組織委がチケット代やスポンサーなどから集められるカネは4500億円程度で、このままでは当初の予定より差し引き1兆円以上の“大赤字”になる。誰が穴埋めするかといえば、われわれ国民、都民だ。

組織委サイドは、首都高の営業補償など想定していなかった経費や、資材や人件費の高騰も要因なんて言い訳していますが、見え透いたウソですよ。前回の12年ロンドン五輪の例もあるように、3000億円で収まらないことは百も承知していたはずです。五輪を招致するために、ハナからかなり安く抑えた見積額をIOCに提示したに過ぎません」(JOC関係者)

 これを「詐欺」と言わずして何と言う。

 ロンドンのことや、五輪をめぐる“構造的問題”について、少し前にNHKも報じている。NHKのNEWSwebサイトから全文引用する。結構、リンク切れが早いのだよ、このサイト。
NHK NEWSwebの該当記事

東京五輪の運営費1兆8000億円 当初見込みの6倍
12月18日 19時12分

5年後のオリンピック・パラリンピックに向けて組織委員会が準備や運営に必要な費用を試算したところ、およそ1兆8000億円と当初の見込みの6倍に上り、組織委員会の財源だけでは大幅に不足することが分かりました。不足分は東京都や国が補填(ほてん)することになっていて、今後、公的な財政負担がどこまで膨らむのかが焦点になります。

組織委員会が5年後の大会の準備や運営を行うのに必要な費用は立候補段階では3000億円程度と見込まれていましたが、関係者によりますと組織委員会が先月新たに試算したところ、当初の見込みの6倍にあたるおよそ1兆8000億円に上ることが分かりました。
内訳は、仮設の競技会場の整備費などが3000億円、会場に利用する施設の賃借料などが2700億円、警備会社への委託費などセキュリティー関連の費用が2000億円、首都高速道路に専用レーンを設けるための営業補償費など選手や大会関係者の輸送に関する経費が1800億円などとなっています。費用の大幅な増加は、首都高の営業補償など当初、想定していなかった経費が加わったことや、資材や人件費の高騰なども要因だということですが、立候補段階での見通しの甘さが浮き彫りになった形です。
一方、組織委員会がチケット収入やスポンサー企業などから集められる資金は4500億円程度と見込まれ、このままでは1兆円以上が不足します。組織委員会は経費の削減とともに東京都やの事業として実施できるものがないか検討を進めることにしていて、最終的に不足分を補填することになる都や国の財政負担が、今後どこまで膨らむのかが焦点になります。

費用は組織委・東京都・国が分担

5年後のオリンピック・パラリンピックに必要な費用は、主に、組織委員会や、東京都、それに国が分担して負担することになっています。このうち競技会場については国がメインスタジアムの新しい国立競技場を整備しますが、総工費に設計費など関連費用を含めた1581億円のうち、国がほぼ半分の791億円程度を負担し、東京都も4分の1の395億円程度を負担する方針を決めています。また東京都は大会後も施設を残す競技会場の整備などを担当し、これだけで合わせて2241億円を支出する予定です。そして、組織委員会は、大会後に取り壊す仮設の競技会場の整備をはじめ、会場の警備や、選手の輸送などといった大会の準備・運営を担当することになっていて、立候補段階ではその費用は3000億円程度と見込まれていました。
しかし、組織委員会が試算したところその費用は1兆8000億円に上ることが分かり、国や東京都が競技会場の整備で負担する費用を合わせると2兆1000億円以上に上ることになります。

財政負担の拡大避けられず

組織委員会は今後、費用を削減できないか検討を進めるとともに東京都や国の予算で実施できるものがないか役割分担の見直しを進めることにしています。都や国の事業の対象になる可能性があるのは、会場やインフラなど大会後も残され、都民、国民が利用できるもの、また、交通インフラの整備など大会開催による都民活動への影響を抑えることにつながるものなどが考えられています。組織委員会は来年5月にIOCに予算の計画を提出するため都や国との協議を急ぐことにしていますが、最終的に都や国が不足分を補填することになっているため公的な財政負担の拡大は避けられない情勢で、都民、国民が納得できる説明がこれまで以上に求められます。

前回大会でも巨額の公的資金

前回、2012年に開催されたロンドン大会でも、準備や運営、それに競技会場の整備などにかかる費用が当初の見込みの3倍近くにあたる2兆1000億円余りに膨らみ、組織委員会が財源不足に陥り、巨額の公的資金が投入されました。ロンドン大会では組織委員会が大会の準備や運営を担当し、宝くじの売り上げやロンドン市などが拠出する公的資金で競技会場やインフラの整備を行う計画でした。しかし、組織委員会がチケット収入やスポンサー企業からの収入などで集めた資金は4300億円余りにとどまりました。このため当初、組織委員会が負担することになっていた競技会場などの警備や、開会式や閉会式などを開催するための費用は公的資金でまかなわれ、競技会場などの整備費と合わせて最終的に投入された公的資金は、1兆6700億円余りに上りました。

専門家「賛同得るには説明責任を」

オリンピックなどスポーツイベントの運営に詳しい早稲田大学スポーツ科学学術院の原田宗彦教授は運営費などが大幅に増加したことについて「オリンピックの招致の段階では国内の支持、IOCの支持を取り付けなければならず、非常に小さめの数字でまとめることが多く、今回の東京も当初、小さくまとめたことがこの結果につながったと思う」と指摘しています。そのうえで、前回のロンドン大会でも開催費用が当初の3倍に増えたことを例に挙げ、「東京も予算額が増えてもしかたない面はあるが、6倍というのはかなりの膨らみ方で、若干見通しが甘かったと思う」と話しています。また、資金の不足分については東京都と国が補填することになっていることから、原田教授は「組織委員会の財務状況が破綻することはないと思うが、都民、国民の賛同を得るために組織委員会は納得できる計画を立て具体的な数字について十分な説明責任を果たしていかなければならない」と指摘しています。

 早い話が、こうなることは承知で、東京五輪開催のために、ありえない見積もりを捏造し、開催が決まったら、なし崩しに都民や国民の税金を使おう、という確信犯による詐欺なのだ。

 FIFAの問題については、アメリカの司法がメスを入れた。
 IOCだって、つつけばいろいろ出てくるのは当然。
 利権の塊りであり、ビッグマネーが動くイベントだ。
 これは、開催を許認可する側にも、開催する側にも、カネにまつわる裏工作が必然的に発生する構造的な問題になっている。

 クーベルタンは、こんな「近代オリンピック」を想定したのだろうか・・・・・・。

   招致のための低費用見積もり捏造
           
     開催決定後の実費用厖大化
           
      国民の負担増大

 「一億総活躍」というのは、東京五輪のために、全国民に血税を今以上に払わせるための運動に冠された標語なのに違いない。

 こういう国家的な詐欺を許さないための司法や官庁に“活躍”してもらいたのだが、残念ながら、彼らも利権分配の輪の中にしっかり組み込まれている。

 自然を破壊し、国民の負担を増やす五輪開催。

 競技する選手たちも主役ではない。

 1984年ロサンゼルス大会以降、五輪の商業主義が鮮明になった。
 前回1964年東京五輪は10月開催だったが、2020年は、競技者にとって決して適切とは言えない7、8月に開催される。理由は、大会運営費の多くを占めるテレビ放映権料を獲得するためだ。欧米の人気プロスポーツのオフシーズンを探した結果の開催日程である。

 本来は、アマチュアアスリートの大会であり、運営の大半をボランティアが支えていたオリンピック。
 しかし、その原点に戻るのは難しい。すでに、巨額マネーが動く構造が、出来上がっている。
 もし後戻りするのであれば、いったん五輪を廃止するしかないだろうが、そうはさせない巨大な力が働いている。


 予想される赤字約1兆円のうち、どれほどが東京都民の負担になるかは分からないが、決して少ない額ではなかろう。
 しかし、東京都民にデンバー市民と同じような行動を期待するのは酷だろう。
 では、メディアは・・・・・・。

 Wikipediaで「2015FIFA汚職事件」を開くと分かるが、下記に引用するように、一連のFIFA汚職問題の突破口を開いたのはイギリスのメディアである。
Wikipedia「2015FIFA汚職事件」
FIFAによる汚職が明らかになったきっかけは2010年にイギリスの新聞・サンデー・タイムズの記者が、アメリカへのFIFAワールドカップの誘致を目指す、いわゆるロビイストに扮し、ナイジェリア人のFIFA理事に接触して、アメリカへ投票とすると引き換えにして、多くの金額の賄賂の支払いを要求する模様をビデオカメラに収録し、それを、紙面に掲載されたことだった。

2011年、FBI・アメリカの連邦捜査局とアメリカの税務当局の担当者の2人が、かつてのFIFA理事で北中米カリブ海サッカー連盟事務局長も歴任したチャック・ブレイザーを訪ね、そこで、ブレイザー自身からFIFAがこの10年以上も脱税していると指摘、捜査当局に対し、ブレイザーは捜査の協力に同意した。その後、2012年のロンドンオリンピックの時に、キーホルダーに小型のマイクを仕込んで、FIFAの幹部らの会話を録音し、その一方で、ブレイザーの立ち合いを求めた上で、電話やメールの記録もアメリカの捜査当局が確認していった。さらに、この捜査情報を元に、FIFAワールドカップの2018年と2022年の誘致活動の交渉について、賄賂のやり取りの証拠を集めていった。

 囮取材の是非はあるだろう。しかし、私は、大きな不正を暴くためのジャーナリストとしての体を張った行動の価値を讃えたい。

 政府や官庁に飼いならされた日本の新聞記者にサンデー・タイムズの記者の真似は、どう考えてもできない。
 もし個人が組織のルールや暗黙の規範を破って体を張った行動をしても、あの元毎日の西山記者のように、閉鎖的な日本の記者クラブ仲間が助けてくれるどころか、束になって村八分となるのが関の山なのである。

 今の日本のマスメディアは政府の意向を忖度するのに必死だし、五輪による広告収入を期待するから、間違っても五輪返上キャンペーンなどするはずもない。

 残念ながら、調査報道を主体とするミニメディアやSNSなどで、膨れ上がる経費による税負担を減らすよう努めるしかないのかもしれない。

 誰のための東京五輪なのか・・・・・・。
 
 私は、3.11と原発事故の被災者の方がすべて日常の生活に復帰できない限り、スポーツの祭典などを楽しみ気になれない。

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by koubeinokogoto | 2015-12-22 20:51 | 責任者出て来い! | Comments(0)
 野坂昭如の訃報を目にした。

 昭和58年の衆院選、私は野坂が田中角栄に対抗して立候補した、当時の新潟三区の中心都市である長岡に住んでいた。

 飲み屋街である殿町の店で、うかつに角栄や越山会の悪口など言えない土地。
 ある選挙期間中だったと思うが、飲んでいたスナックに、娘の真紀子が「父の代理」として挨拶で回っていたことを思い出す。ビルの店を一軒づつ回っていたのだろう。

 大手通りで角栄が演説をしている時、多くの越後のおばちゃん達が、神様に向かうかのように手を合わせていたことも思い出す。

 余所者である私は、野坂の出馬を意気に感じて彼に一票を投じた。

 「朝まで生テレビ」は、大島渚と野坂昭如が出演していた頃が絶頂期だったなぁ。

 さて、この記事は野坂の前に伝えられた訃報の主の著作について書くつもりでいたが、まくらがつい長くなった。野坂のことは、別途書くつもり。

 水木しげるさんの訃報に接した際、兄弟ブログ「噺の話」で記事を書いた。
「噺の話」2015年11月30日のブログ

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『総員玉砕せよ!』(講談社文庫)

 あの記事を書いた時は未読だった『総員玉砕せよ!』(講談社文庫)を読み終わった。本書は1991年に単行本発行、1995年に文庫化された。

 読後、なんとも言えない思いに浸る。


 冒頭部分。
 海上を進む輸送船やニューブリテン島の風景を背景に、次の「可愛いスーチャン」(作者不詳)の歌詞がある。

お国のためとは 言いながら
人の嫌がる 軍隊に
志願でするよな バカもいる
可愛いスーチャンと 泣き別れ

朝は早よから 起されて
ぞうきんがけやら はき掃除
いやな上等兵にゃ いじめられ
泣く泣く送る 日の長さ

乾パンかじる ひまもなく
消灯ラッパは 鳴りひびく
五尺の寝台 わらぶとん
ここが我等の 夢の床

海山遠く へだてては
面会人とて さらになく
着いた手紙の うれしさよ
可愛いスーチャンの 筆の跡

 戦意高揚のための軍歌ではなく、兵卒の日常を歌う、いわゆる兵隊節であることが、この本がどんな視点で書かれたものかを暗示する。

 あとがきで作者水木しげるは「90パーセントが事実です」と書いている。

 残る10パーセントは、作者の分身である丸山二等兵は、「バンザイ突撃」の時には入院していたのだが、本書では仲間と一緒に玉砕していること、など。

 本書は、水木しげるの戦争体験に基づいている。
 中心となるのは、ラバウルにいた十万人の日本兵の捨て石となったバイエン支隊五百人の兵士の玉砕。

 敵は上陸してくる米軍だけではなかった。
 デング熱で亡くなる者、手榴弾で捕った魚が喉に詰まって窒息死する者、池に溺れてワニに食われた者、などもいる。そして、支隊にとって味方であるはずのラバウル司令部でさえ・・・・・・。


 物語は、ニューブリテン島ココボ、昭和18年末のことから始まる。

 「ピー屋」と呼ばれる慰安所に並ぶ多くの兵隊たち。

 翌日の丸山たちの会話。
 
 「それで、きのうはどうだった」
 「二三人はできたかしんねいど、なにしろ五分間しかねえのに
  七十人も並んでんだ」
 「ほとんど『女郎の歌』でお別れさ」
 
 『女郎の歌』の歌詞も載っているが、割愛。

 初年兵は、理由なく上官から殴られる。
 しかし、テレビドラマ「鬼太郎が見た玉砕 ~水木しげるの戦争~」で塩見三省が扮した「ピンタ軍曹」こと本田軍曹は、味方の鉄砲の誤射で負傷し、手榴弾で自決。

 部下に「玉砕」を命じたのは士官学校出、二十代のバイエン支隊長田所少佐。
 少佐は楠木正成に心酔しており、湊川の戦いにおける正成の死に様にあこがれていた。
 テレビでは「花子とアン」で新聞記者を演じた木村彰吾が田所に扮した。

 田所支隊長(少佐)が「玉砕」を説くものの、児玉中隊長(中尉)はゲリラ戦を主張する。田所は、児玉の中隊のみ、特別にゲリラ戦を許可したため、生き残ることのできた生命が増えたのだった。

 バイエン支隊はラバウルの司令部に玉砕することを電信する。
 司令部では、彼らは全員死んだものと思い、全軍にそのことを告げ、戦意高揚を図っていた。しかし、聖ジョージ岬の警備隊から、バイエン支隊の生存者数十名が岬近くにいると知らせを受ける。
 司令部は、バイエン支隊の敵前逃亡はラバウル全軍の面汚しと考え、彼らを実際に「玉砕」の英霊とするために、参謀の木戸を聖ジョージ岬に派遣する。
 木戸の出発前夜、バイエン生き残り兵士の一人である石山軍医がラバウルを訪れて部下の命乞いをしたが、司令部が認めるはずもなく、軍医は抗議の自決をした。
 テレビでは嶋田久作が軍医に扮した。ニンだったなぁ。
 
 本書でも、石山軍医の行動や発言が、強く印象に残る。

 狂気のうずまく中で、正気は少数派にしかなりえない、ということか。

 これ以上は内容について書かないが、作者のあとがきから引用したい。
 
 「玉砕」というのは、どこでもそうですが、必ず生き残りがいます。 
 まあ、ベリリウ島等は、ものすごく生き残りが少なかったので、模範ということになり、ラバウルではベリリウ島につづけということがよくいわれました。
 しかし、ベリリウ島みたいな島で全員が一度に死ねるということなら、玉砕は成功する。
 ラバウルの場合、後方に十万の兵隊が、ぬくぬくと生活しているのに、その前線で五百人の兵隊(実際は三、四百人)に死ねといわれても、とても兵隊全体の同意は得られるものではない。
 軍隊で兵隊と靴下は消耗品といわれ、兵隊は“猫”位にしか考えられていないのです。

 日本は、人間を靴下と同じような消耗品として扱う悪夢を、また繰り返そうとしている。

 水木しげるは次のような回想を記している。
 この物語では最後に全員死ぬことになっているが、ぼくは最後に一人の兵隊が逃げて次の地点で守る連隊長に報告することにしようと思った。だが、長くなるので全員玉砕にしたが、事実はとなり地区を守っていた混成三連帯の連隊長は、この玉砕事件についてこういった。
「あの場所をなぜ、そうまでして守らねばならなかったのか」
 ぼくはそれを耳にしたとき「フハッ」と空しい嘆息(ためいき)のような言葉が出るだけだった。
 
 後で振り返れば、何人もの生命を奪った玉砕のすべてに、「なぜ、そうまでする必要があったのか」という疑問符がつく。

 それは、「なぜ戦争をしたか」という問題にまで戻ることになるはずだ。

 水木しげるが残してくれた戦争の記録と反戦の思いを、我々は生かさないわけにはいかない。

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by koubeinokogoto | 2015-12-10 20:52 | 戦争反対 | Comments(2)
 「内田樹の研究室」が、約二か月ぶりとなる久しぶりの更新。

 大阪のダブル選挙の結果を踏まえ、現在の政治状況を「株式会社化」と評する持論の展開。

 タイトルと前半部分を、まず引用。(太字は管理人)
「内田樹の研究室」該当記事

株式会社化する政治

大阪ダブル選では、政策的には候補者間に大きな違いはなかった。いずれの候補者も大阪の全方位的な長期低落傾向を嘆き、再活性化の喫緊であることを訴えていた。そして、結局「大阪都構想」が再び争点になった。
ふつう半年前に否決された政策が(特段の条件の変化があったわけでもないのに)再び争点化するということはない。ということは、この選挙のほんとうの「賭け金」が政策ではなかったということを意味している。
大阪の有権者が選択を求められたのは政策の「中身(コンテンツ)」ではなく、候補者の人間性あるいは手法という「容れ物(コンテナー)」だったと私は理解している。
維新・非維新候補の際立った違いは何よりも「一枚岩の政党」の候補者か「寄り合い所帯」の候補者かという点にあった。有権者たちはその違いに最も敏感に反応した。「街の声」でも、SNSに流れた感想でも、大阪維新のアドバンテージとして「話がわかりやすい」「言うことに一貫性がある」を挙げたものが多かったし、逆に、自民党・民主党・共産党が推した候補者たちはまさに国政において対立している政党の支援を基盤にしたゆえに、いったいどのような立場を代表しているのか「わからない」という批判に終始さらされた。

 あの選挙は、いわば、劣等比較の選挙と言えたのではなかろうか。
 その結果、多くの大阪の有権者は、反東京、反自民という思いが強いから、維新を「地元」の政党という意識で選んだ、ということだろう。
 
 内田は、その維新の会は、「一枚岩」の組織としてまとまって見えたことが有利に作用したことを指摘し、「政治の株式会社化」という持論を説く。

有権者は「一枚岩組織」のもたらす「わかりやすさ」を選好し、「寄り合い所帯」の「わかりにくさ」を退けたのである。
この「組織のかたち」についての選好のうちに私はこの選挙結果の歴史的な意味を見る。
現代人は「一枚岩」の、上意下達でトップの指示が末端にまで瞬時に伝達され、成員が誰も命令に違背しない、そのような組織を好む。そのような組織こそが「あるべき姿」であり、それ以外のかたち(例えば、複数の組織が混在し、複数の命令系統が交錯し、複数の利害が絡み合うようなかたち)は「あってはならない」ものだと信じている人がたぶん現代人の過半を占めるであろう。
以前から繰り返しているように、この趨勢を私は「株式会社化」と呼んでいる
CEOが経営方針を決定するというのはビジネスマンにとっては「常識」である。従業員の過半の同意がなければ経営方針が決まらないような「民主的」な企業は生き馬の目を抜くビジネスの世界を生き抜くことはできない(そもそも存在しない)。ワンマン経営者は取締役会の合意さえしばしば無視するし、株主総会は事後的に経営の成否について評価を下すが、事前に経営方針の適否について判断する機関ではない。
株式会社はトップが独断専決することを許容するばかりか、しばしばそれを理想とさえする
トップによる独断が許されるのは、なぜか。理由は簡単である。それは経営者のさらに上に「マーケット」という上位審級が存在するからである
経営戦略の適否を判断するのは従業員でもないし、取締役会でもないし、株主総会でもない。それは「マーケット」である。
「マーケットは間違えない」というのはビジネスマンの揺らぐことのない信仰箇条である。

 「マーケット」としているが、もちろん「市場原理主義」を意識して書いているのだ。「市場」という言葉の意味が広いので、あえてカタカナにしたのだろう。

 「マーケット」という言葉は、政治には似合わない。 
 企業経営には「マーケット」は重要なのは、言うまでもない。
 しかし、政治を企業経営と同列で語る人は多く、その風潮は強まっている。
 選挙結果を、まるで、製品の市場シェアと同じように考える傾向がある。

 また、アメリカなど海外のビジネスマンから、日本の企業や経営陣は、「決断力がない」「意思決定が遅い」と非難されてきた。
 そして、いつも間にか、こういった批判が、政治や政治家に対しても言われるようになってきたように思う。

 しかし、ちょっと待てよ、と思う。
 ビジネスの世界と政治の世界は違うだろう、と思うのだが、そういった指摘をあまり聞かなくなった。
 
 TPPについて、安倍はオバマから「決断力」「意思決定の早さ」を評価されたかもしれないが、本来大事なことは、その政策、決断が、国民のためになっているのか、ということだ。
 
 なぜ、政治を企業経営と同じように見るようになったかについて、内田は、次のように説明する。

ビジネスマンにとって(もっと広く「営利企業で働く人々」と言い換えてもいい)にとってはそれが「社会というもの」である。それ以外の組織のかたちを「生まれてから見たことがない」という人さえいるだろう。例えば、子供の頃はよい成績を上げて、よい学校に進学することが「家庭という企業」の製造する製品の質を示すことになると教え込まれ、学校を卒業するときには、有名企業に入り、高い年収を得ることが「大学という企業」のアウトプットの市場での評価を高めると教え込まれた子供がサラリーマンになった場合、彼は生まれてから「そういう組織」しか見たことがない大人になる
当然、その人は「あらゆる社会組織は株式会社のように制度化されねばならない」と心から信じる市民となるだろう

 こういった市民の見本が、橋下ではないだろうか。
 彼は、大阪府、大阪市という「組織」は、「株式会社」と同じような制度化、効率化が必要だと思っているはずだ。
 判断の重要な指標は「費用」「コスト」など「金」になり、府民や市民の「生きがい」とか「働き甲斐」などではないはずだ。

 内田は、経営と政治の違いについて、次のように記している。
この「株式会社原理主義者」たちはたいせつなことを忘れている。
それは「政策は商品ではない」ということである。
さらに言えば、「国民国家や自治体は株式会社ではない」ということである。
どこが違うのかと言えば、責任の範囲がまったく違うのである。
株式会社にとって考え得る最悪の事態は倒産である。けれども、それで終わりである。株主は出資金を失う。それ以上の責任は問われない。株式会社は世にも稀な(というか唯一の)「有限責任体」なのである。
だが、国や自治体はそうではない。それは「無限責任体」である。
国や自治体に失政・失策があれば、そのツケを後続世代の人々は半永久的に払い続けなければならない。現に、福島原発はわが国の原子力政策の失敗だが、国土の汚染と住民たちの生業喪失と健康被害は東電が派手に倒産してみせたからと言ってまったく回復されることがない。そもそも私たちは70年前に私たちが選任したわけでもない政治家や官僚や軍人たちが犯した戦争の責任を今も問われ続けているではないか

 政治に市場原理を持ち込むことは、そういうった思考に慣らされてきた現代人にとって、分かりやすいかもしれない。
 しかし、政治の過ちは、時間と空間ともに無限に禍根を残す。

 亡くなった水木しげるさんが、『総員玉砕せよ!』を描く際の苦悩などを「NHKスペシャル 鬼太郎が見た玉砕 ~水木しげるの戦争~」で見たことがあるが、あえて言うなら、水木さんの左腕は戻ることはなかったし、彼を悩ましていたニューブリテン島の上官や戦友たちの幻影や、残った者だけが抱く複雑な思いも、消えることはなかっただろう。

 内田は、この後に次のような内容を含めて「共和制」のことを書いている。
共和制的な合意形成には時間がかかる。けれども、その代価として、国や自治体にどのような致命的失政があっても、それについて「私には責任がない」「ほら見たことか」と言うような市民ができるだけ出てこないように抑制することはできる
共和制は全員が多かれ少なかれ現状に責任があるということを認め合う仕組みだからである。
「全員が政策決定がもたらす成功の恩恵も失敗の責任も等しく分かち合う仕組み」というのは、言い方を変えれば、「全員が(ろくでもない)現状に同程度に不満であるような仕組み」のことである。
私はこれを先賢が知恵が振り絞って構想した政治の仕組みだと思う。けれども、残念ながら私たちの時代にはそのような仕組みに価値を見出す人は次第に少数派になりつつある。

 誰もが満足、という仕組みは、ありえない。
 特定の少数の誰かに恩恵があり、大多数が大いに不満となる仕組みがいいのか、全員が同程度に不満な仕組みがいいのか・・・・・・。


 私は、大満足組には入れなくても、「全員が政策決定がもたらす成功の恩恵も失敗の責任も等しく分かち合う仕組み」を望む。

 「共和制」や「民主主義」という言葉は、「新自由主義」や「市場原理主義」とは、対極にあると思う。


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by koubeinokogoto | 2015-12-01 21:18 | 責任者出て来い! | Comments(0)

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by 小言幸兵衛