幸兵衛の小言

koubeinoko.exblog.jp
ブログトップ
来週4月26日が、チェルノブイリ事故から25年という区切りでもあり、ますますフクシマとチェルノブイリを比較する論調のニュースが増えるだろう。4月8日のAsahi.Comの記事を引用する。
Asahi.Comの該当記事

汚染、「飛び地」状も セシウムの健康被害は未確認 チェルノブイリ事故
2011年4月8日11時6分

1986年に起きたチェルノブイリ原発事故では、原子炉の試験運転中に大きな水蒸気爆発が起きた。10日間にわたり、放射性物質の大量放出が続き、原発から数百キロと極めて広い範囲に拡散した。福島第一原発の事故は、運転を停止した後に起きており、放射性物質が多く飛散したのは、避難地域を中心に限定的だ。

 旧ソ連政府などは、土壌のセシウム137の値が1平方メートルあたり3万7千ベクレル(100万分の1キュリー)を超えた地域を「汚染地域」、55万5千ベクレル(100万分の15キュリー)を超えた地域を「強制移住地域」とした。

 セシウム137は半減期が30年と長いため、土壌汚染の指標として使われる。

 国際原子力機関(IAEA)の報告によると、旧ソ連の汚染地域は約14万5千平方キロメートルと、日本の面積の約4割に上った。その地域に住んでいた住民数は、約600万人に上る。強制移住地域は、岐阜県の面積に匹敵する約1万平方キロメートルで、約27万人が対象となった。

 しかしこの汚染地域も風向きなど気象条件により、原発から同心円状ではなく、まだら状に広がっている。東側に400~600キロの範囲に、飛び地のように広がった地域もある。

 

 汚染地域が飛び地になる状況は、フクシマも同様の問題を抱えている。気象条件に影響されるから。
 さて、この記事で注意しなくてはならないのは、この後につづく次の部分である。

 汚染地域に住み続けた人が86~2005年に受けた放射線量の積算値の平均は10~20ミリシーベルト。強制移住地域に住み続けた人の積算値は、50ミリシーベルトを超えたという。しかし、国際機関と共同でチェルノブイリでの健康調査を実施してきた山下俊一・長崎大教授(被曝〈ひばく〉医療)によると、セシウム137の影響を受けた健康被害は確認されていないという。

 山下さんは「現地の人は汚染されたキノコや野菜を食べ続け、体内にセシウム137を500~5万ベクレルぐらい持っている。しかし、何ら疾患が増えたという事実は確認されていない」と話している。


 こういった報道は今後も増える可能性がある。第三者機関による調査とはいえ、「未確認」の背景には、ソ連政府による「被害の隠蔽」も想定できることを、あえて指摘したい。チェルノブイリ原発事故隠蔽の事例を、七沢潔著『原発事故を問う-チェルノブイリから、もんじゅへ-』(岩波新書、1996年発行)より紹介したい。

 

 原発の真北にあるウラスエ村は、放射能をふくんだ風の最初の通り道だった。しかし、村人が事故について公式に知らされたのは、保健婦のマリヤでさえ、事故から五日たってからだった。その間、突然軍のヘリコプターが飛来し、ガスマスクと防護服に身を包んだ軍人が放射線を測定したりしていたが、村人の質問には何も答えなかったという。マリヤは、五日目の4月30日に、ようやく隣村に呼び出されてヨード剤を渡され、村の子どもたちに配給した。そして5月1日、16歳以下の子どもたちが避難。5月4日には、コルホーズの牛や豚を297台のトラックに載せ、村人はバスに分乗して全員避難した。車に載せきれなかった犬が十数匹、バスのあとを追ってきたが、民間警察官が銃で撃ち殺したという。ウラスエ村から人影が消えたのは、歴史上二度目だった。第二次大戦下、ドイツ軍の攻撃で村は全滅、戦後四十年かけてようやく復興した村から、今度は放射能汚染が、村人を追い出したのである。
 (中 略)
 マリヤ・コジャーキナは、夫と七歳の娘、五歳の息子を連れ、避難先のゴメリ州の病院で、ほかの避難民と同様に健康診断を受けた。ほかの地区からやって来た人々に比べ、ウラスエ村の人々の顔が日焼けしたようにみな黒かったことが印象に残っている。甲状腺に測定器を当てられ、何の単位かわからないが、自分は4,000、子どもは2,500という数字がカルテに書き込まれたという。しかし、被爆線量などは知らされなかった。そしてカルテには「神経血管疲労」という奇妙な診断名が記された。
 マリヤはその後、家族とともに、原発から北西に五十キロの町ホイニキに移り、そこの地区中央病院に准看護婦として勤務することになった。この病院でも、三十キロ圏内からの避難民五千人が医療検査を受けていた。病院内のベッドには収容しきれないため、病院の前の広場に軍の医療部隊の手で特設テントが建てられたという。このホイニキ地区中央病院の医師長で、当時避難民の診断に当たったコビィルカ医師に会った。彼は、「あの時行われた検査の結果は、中央からの指示により、機密扱いとされました」と言いながら、病院の倉庫に残された、当時の避難民のカルテの山を見せてくれた。ベラルーシが独立を果たしてから、ようやく公開できることになったのだという。
 カルテを見ると、避難民が検査のために入院した5月初旬には、甲状腺の強い被爆線量が記されたり、「放射線障害」といった診断が書かれている。しかし、退院する時になると、診断は「神経血管疲労」という、マリヤ・コジャーキナがつけられたのとまったく同じ「病名」に変わっている。なぜだろうか。
 「『神経血管疲労』という病名をつけることになったのは、ソ連保険省からの通達があったからです。『事故の規模はそれほど大きくないから、住民には放射線障害に関連した病気は起こらない』という指示があり、われわれ現場の医者は、『放射線障害』と診断することを禁止されたのです。それで、ほとんどすべての患者に対して、上からの指示どおり『神経血管疲労』の診断名を書きました。・・・・・・」



 ソ連だからという特殊事情よりも、「原発事故」で共通する政府の“隠蔽体質”が、間違いなく存在する。今の日本政府筋から発信される情報や、御用学者の発言にくれぐれも注意する必要がある。

 “放射線障害”→“神経血管疲労” 、なのである。
 “未確認”→“被害なし”、ではあり得ないと考えるべきだろう。

 これまで繰り返された、その場しのぎの「ただちに健康への影響はない」という虚しい言葉の次に、チェルノブイリを引き合いに出して、フクシマに関する被害を低く低く偽ろうとする発表や報道が今後想定されるが、決して鵜呑みにはできない。セシウム137の半減期は30年、チェルノブイリから、まだ25年である。

 以前に高木仁三郎さんの『科学は変わる』から、「マンクーゾ報告」を紹介した2011年4月8日の該当ブログが、チェルノブイリの汚染地域で、実証的に被爆放射線量とガン発生の因果関係などを調べた報告があるというニュースを見たことも聞いたこともない。もしかすると、調査していても公開できない内容なのかもしれない。放射線許容量の基準などは、そもそも存在しないのである。あるのは、ソ連も日本も、そしてアメリカも含むすべての原子力発電所保有国の“政治的な判断”なのだということを、あらためて認識しないわけにはいかないだろう。
[PR]
# by koubeinokogoto | 2011-04-18 11:31 | 原発はいらない | Comments(2)
七沢潔著『原発事故を問う-チェルノブイリから、もんじゅへ-』(岩波新書、1996年発行)から引用したい。 前年に発生したチェルノブイリ事故に関して1987年に発表した原子力安全委員会の見解。 (同書P204-P205)
 

87年5月に、日本の原子力安全委員会がまとめた「ソ連原子力発電事故調査報告書」は、前年にIAEAで行われた国際検討会議の結果を踏まえて、チェルノブイリ事故の原因は「六項目の重大な規則違反に象徴される運転管理と安全保護の欠陥及び黒鉛減速チャンネル型炉固有の構造的特性」にあったと、ソ連の特殊事情を強調した。事故直後から繰り返された「わが国の原子炉ではこのような大事故は決して起こりえない」という見解もつけ加えられている。
 そして、同じ年に策定された原子力利用長期計画では、将来の発電電力量構成の見とおしとして、原発の担う比率を当時の28パーセントから十年後には40パーセント、二十年後には45パーセントにまで高めると、原発の大増設を打ち出している。
「いまや原発の安全管理と技術において日本は本家本元のアメリカをも凌ぐ世界の優等生である」−これが通産省、科学技術庁、電力業界をはじめとする日本の原子力界の一致した認識だったのである。その背景にはアメリカからプラントを輸入して三十年、さまざまな苦心惨憺のなかで、なんとか大事故を起こさずここまで来たというプライドを、資源小国日本の未来は原子力なしにありえない、という行政の頑なな信念があった。
 実際、チェルノブイリ事故ののち、日本では運転が開始された新しい原子炉は十六基、その数は世界で群を抜いている。1996年3月現在、運転中の原子炉は全国で五十基。さらに三基(もんじゅを除く)建設中で、二基が建設準備中である。原発の発電規模はアメリカ、フランスについて世界第三位に上り、総電力の31パーセントを生産している。まさに極東の原子力大国である。



 当時の原子力安全委員会の委員長は、御園生圭輔。
 ついでに、歴代の委員長を並べてみよう。(Wikipediaより)
吹田徳雄:1978年10月21日 - 1981年11月16日
御園生圭輔:1981年11月16日 - 1987年12月25日
内田秀雄:1987年12月25日 - 1993年2月16日
都甲泰正:1993年2月17日 - 1998年4月20日
佐藤一男:1998年4月21日 - 2000年4月6日
松浦祥次郎:2000年4月7日 - 2006年4月16日
鈴木篤之:2006年4月17日 - 2010年4月20日
班目春樹:2010年4月21日 -

 誰が委員長だろうが、この時はこういう反応をしたことだろう。この引用からもあらためて分かることは、この時から約三十年前、“はじめに予算ありき”でわき目もせず進んできた日本の原子力発電所建設は、“政官財マスコミ連合”にとっては後戻りできない“国策”になってしまっており、本来は関わるべき専門家の“学”を除外した構造が出来上がっていた。

 原子力安全委員会の見解が下敷きにしたという86年8月にウィーンで開催された国際原子力機関(IAEA)のチェルノブイリ事故の検討会議。その会議には、ソ連から「事故の第一義的原因は、発電部著の要員たちが起こしてしまった、まったくありうべからざる指示違反、運転規則違反の組合せだった」という、政府によって捏造された報告が提出されていた。(同書P85)
  
 今回の福島原発事故がある程度鎮静化してから、いわゆる“原子力ムラ”からは、間違いなく「想定外の天災」とか、「現場作業員のミス」というような論調があるはずだ。
 政府関係からは東電のみをスケープゴートにする姿勢も十分にあり得る。もっとも許せない責任問題の決着は、しばらく清水社長を継続させ、どこかで他に何人かの役員を道連れに退陣させることを落としどころとし、あらためて原発大国への道を進むことだが、国民はそんなことで許すほど馬鹿ではない。
 
 “人災”があったとすれば、それは日本の原子力政策の重要な時期に、この国をミスリードしてきた人達による人災であって、決して現場の人たちの人災ではないことは、何度でも指摘する必要があるように思う。
[PR]
# by koubeinokogoto | 2011-04-15 21:25 | 原発はいらない | Comments(0)
すでに旧聞に入るが、4月7日の新聞に、前日の衆院経済産業委員会で、国の原子力行政の責任者たちが「陳謝」したというニュースがあった。
ASAHI.COMの該当記事

電源喪失、認識の甘さ陳謝 保安院・安全委トップら
2011年4月7日0時25分

東京電力福島第一原子力発電所で深刻なトラブルを招いた、非常用を含めた電源喪失事故。経済産業省原子力安全・保安院や原子力安全委員会のトップらが、6日の衆院経済産業委員会で、電源喪失を「想定外」としていた過去の認識について陳謝した。

 この日、これまでに原発問題を国会で追及してきた吉井英勝衆院議員(共産)が質問。原子力安全・保安院の寺坂信昭院長は昨年5月の同委で、電源喪失は「あり得ないだろうというぐらいまでの安全設計はしている」と発言していたが、この日は「当時の認識について甘さがあったことは深く反省をしている」と述べた。

 これまでの法廷証言などで電源喪失の可能性を否定してきた班目春樹・原子力安全委員長は「事故を深く反省し、二度とこのようなことが起こらないようにしたい」と答えた。

 また、過去に同様の見解を示してきた前原子力安全委員長(現・日本原子力研究開発機構理事長)の鈴木篤之氏も「国民の皆様に大変申し訳ないと思っている。痛恨の極み」。電源喪失の事態に備えてこなかったことは「正しくなかった」とした。(野口陽)


 前原子力安全委員長(現・日本原子力研究開発機構理事長)の鈴木篤之氏の名が登場する。
 未来のあるべき姿を考えるためにも、鈴木篤之という人が、過去にどんなことを言っていたかを振り返りたい。
 岩波書店の月刊『世界』1992年11月号(通巻574号)は、「特集 プルトニウム大論争」であった。この特集の最大の“目玉”は、「徹底討論 プルトニウム利用計画 是か否か」である。
 高木仁三郎(当時、原子力資料情報室代表)と鈴木篤之(当時、東大工学部教授、原子力委員会高速増殖炉開発計画専門部委員。*2010年より日本原子力研究開発機構理事長)の討論が繰り広げられている。
 
 この中から「事故の考え方」の一部を引用したい。この討論のあった1992年時点は、1979年のスリーマイル、1986年のチェルノブイリの後だが、日本原子力研究開発機構が担当する高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム漏出事故(1995年)や、東海村JCO核燃料加工施設臨界事故(1999年)の起こる前である。

事故の考え方
—実績を重視すると鈴木先生は言われましたが、たとえばチェルノブイリでもスリーマイル事故でも、事故は実際は突然、予測を超えて起こる。技術的にしっかりしていての人間のミスでも起こりうる。つまり経験として昨日まで大丈夫だったから明日からも大丈夫だとは言えないのではないか。
 鈴木 なぜ実績を強調したかというと、これまでのプルトニウムをめぐる議論のなかで、実際日本にどのくらい経験があるのか、あまり伝えられていない気がしたからです。
 経験がこれまでほとんどないようなことをやる場合には、軽々に「大丈夫だ」とは言えないですよ。技術じゃ経験が重要なのです。
 それでは、昨日まで大丈夫だったらこれからも大丈夫なのか。もちろん単純にはそう言えないですよね。原子力の技術はそのところをどう考えているか。少なくともわが国の安全ルールでは、人のミスということもあるかもしれない、ということを想定しているのです。われわれが考えうる限りのいろいろなミスを想定しても、なおかつ環境に著しい影響が出ないようにあらかじめ安全性をチェックしておく、これが原子力安全の鉄則です。
 高木 十数年の歴史があるというけれども、それは全然安心するに足るような歴史ではない。原子力の場合には、環境に著しい影響を与えるようなことがあってはいけない、それは当たり前のことです。しかし、それが破れるケースが往々にして現実にある。
 鈴木 だけど日本の場合はなかった。
 高木 たまたまいままで日本の場合にはなかったですけどね。
 鈴木 たまたまというより、外国と比べた場合その考え方が徹底しているのだと思う。
 高木 それはどこの国だってみんなそのつもりでやっている。ところがそれがいったん破綻すると、その破綻した段階でその国の技術や考え方が駄目だったということになる。しかし、東欧や旧ソ連を除いたとしても、西側の国でいえばみんな同じレベルだと思う。それでもアメリカでは高速増殖炉のフェルミ炉(閉鎖)の事故があったし、再処理工場に関しては、イギリスのセラフィールドでたびたび事故を起こし、環境をひどく汚染している。アメリカの軍事用再処理工場などの稼動後の汚染状況もさんたんたるものだ。
 日本はまだそんなに長い経験があるわけではないし、外部に重大な放射能こそ漏れなかったけれども、再処理工場はいままでの過程で随分トラブルがあり、稼働率だって高くない。いい実績と言えるものではない。ましてや高速増殖炉に関しては、発電炉という意味では「もんじゅ」(原型炉・28万kw)が最初で、「常陽」と比べてシステムも格段に大きくなる。しかも、「もんじゅ」は運転開始に至る過程で幾つかのトラブルをすでに起こしていて、運転開始が遅れている。この実績では、かえって逆に不安になりますね。
 鈴木 私は実績があるから即安全だと言っているのではなくて、逆なんです。安全のために実績をできるだけ生かすことが重要なんだと言っているのです。
 たとえば東海村の再処理工場のトラブルの話をおっしゃいましたが、確かにそういう故障がありました。おそらく設計したときにはあんなにすぐ材料が腐食すると思っていなかったでしょう。ところが、ではそれが環境に著しい影響を及ぼしたかというと、及ぼしていない。だから、そういう想定できなかったようなことが仮に起きたとしても、大きな事故にならない。そこが大事だ。
「もんじゅ」についてですが、現在の軽水炉と比べた場合、ナトリウムを使うという点が安全性の面では最も重要ですから、その点では、「常陽」の経験を生かすことができますと、そう申し上げたのです。


 この二人は、この時点では立場が明確なので、ある意味、討論にはなりえない。そして、この内容を読んだ印象としては、鈴木氏が本音として「実績」を背景として日本の原子力に関する安全対策に自信があったのか、それとも拠って立つ「推進派」として言わざるを得ないが、実際の心情としては高木氏の指摘に頷いていたのかは、分からない。
 はっきりしているのは、高木さんが安全性への危惧を訴えていた通りのことがこの後相次いで起こった、ということだ。歴史は、昨年から鈴木氏が最高責任者となった組織が担当する高速増殖炉「もんじゅ」が、この対談以降、次のような経緯を辿ることを物語っている。(Wikipediaより)

---高速増殖炉「もんじゅ」の沿革---
•1992年12月 性能試験開始。
•1994年4月5日午前10時01分 原子炉が初臨界達成。
•1995年8月29日 初発電達成。
•1995年12月8日 ナトリウム漏洩事故発生
•1998年10月1日 動燃解組。核燃料サイクル開発機構発足。
•2005年3月3日 ナトリウム漏洩対策の準備工事を開始。
•2005年9月1日 ナトリウム漏洩対策の本体工事着手。
•2005年10月1日 独立行政法人日本原子力研究開発機構発足。
•2007年5月23日 本体工事終了。
•2007年8月31日 運転再開に向けて、プラント確認試験の開始。
•2008年5月15日 高速増殖原型炉もんじゅの新燃料(初装荷燃料)の1回目の輸送。
•2008年7月18日 高速増殖原型炉もんじゅの新燃料(初装荷燃料)の2回目の輸送。
•2010年5月6日午前10時36分 運転再開。
•2010年5月6日午後11時9分・7日午前10時1分 放射性ガスの検知器の2回の誤作動
•2010年5月8日午前10時36分 臨界確認。試験として約1時間後、19本の制御棒のうち
          2本を 挿入し未臨界とした。今後、臨界と未臨界など各種の試験を経て
          2013年春に 本格運転を目指す。
•2010年8月26日 原子炉容器内に筒型の炉内中継装置(重さ3.3トン)が落下。後日、
           吊り上げによる回収が不可能と判明。長期の運転休止を余儀なくされた。
•2011年3月23日 福島県の原発事故を受け、福井県は、もんじゅの安全性確保について、
          文部科学省に申し入れをした
--------------------------------------------------------------

 「もんじゅ」は、現時点では運転することもできず、廃炉にすることも困難な状況で、その管理費用は年間200億円強と言われている・・・・・・。(一説には500億円とも)
 発電量「0」の「もんじゅ」が災害時の 危険性が高いことは他の原発と同様、あるいはプルトニウムの問題を考えれば・・・とても、放置できない存在である。

 古い雑誌の“討論”をあえて紹介したのは、日本の最高学府を卒業し、原子力に関する知見はお互い相当高いと思われるこの二人が、なぜ「推進派」と「廃止派」とに真っ二つに分かれることになったのか、ということを考えるためである。
 
 この過ちの根源は、すでに三宅泰雄著『死の灰と闘う科学者』で紹介したように、日本の原子力政策が十分に政府や官僚、そして専門家である科学者達の議論の末に進められたのではなく、“はじめに予算ありき”であったこと、そしてアメリカの意向のままに振舞った原子力行政の要人の存在も大きい。三宅さんの著作から「第Ⅵ章 科学と政治の不幸な出会い」の後半部分を引用。

政府の苦慮
 第19国会で突如として通過した原子力予算をつかうために、政府は苦慮せねばならなかった。政府はとりあえず、1954年5月11日の閣議決定で「原子力利用準備調査会」をもうけることをきめた。この調査会は、当面の原子力予算のつかい方、および将来の原子力政策をきめるために、総理大臣の諮問機関としてつくられたのであった。
 会長には副総理の緒方竹虎氏が任命され、委員は経済企画庁、大蔵、文部、通産の四閣僚、経済団体連合会会長石川一郎氏、茅日本学術会議会長、藤岡原子力問題委員会委員長の七名であった(6月18日に第一回の会合)。
 この調査会の新設に対応して、通産省の中には、「原子力予算打合会」がもうけられた(7月6日、第一回会合)。日本学術会議からは茅、藤岡氏をはじめ、三島徳七博士(東京大学名誉教授、工学)、兼重寛九郎教授(東京大学、工学)の諸会員が参加した。会員外では原子核特別委員会委員長の朝永振一郎教授(東京教育大学、物理学)が構造部会に参加した。これらの会議では、はじめ1000キロワット程度の小型の天然ウラン重水炉原子炉を五ヵ年計画でつくることが話し合われていた。
 しかし、のちに派遣された初の原子力海外調査団が帰国し(1955年3月)、この方針があらためられた。調査団の報告(1955年5月6日)では、天然ウラン重水炉1万キロワット出力のものをつくることを第一次目標にすべきであるとされた。そして、とりあえず国産原子炉をつくる参考のためにも、濃縮ウラン実験炉(50キロワット)をアメリカから購入すべきであると報告した。この海外調査団は藤岡由夫博士を団長とする15名で、1954年12月25日に日本を出発し、ヨーロッパ、アメリカその他十二ヵ国を視察し、翌1955年3月に帰国した。
 調査団が日本をたつ一ヶ月くらい前に、アメリカは濃縮ウラン100キログラムを国際プールに提供する用意があることを表明した。はやくも1955年1月11日には、アメリカ政府は日本政府にたいし「濃縮ウランを提供しましょう。また、それにともなう技術援助もいたしましょう」と申し出をしていたのである。3月末に帰ってきた海外調査団が、滞米中に、濃縮ウラン実験炉の輸入について下話をしていたことは、たしかであろう。
 日本政府は、濃縮ウランの供与と技術援助の申し出に異常な執心をしめした。それはいうまでもなく、濃縮ウラン実験炉の早期輸入を実現するためであった。海外調査団の報告をうけた原子力利用準備調査会は1955年5月19日の第三回会議で、濃縮ウランをアメリカから供与してもらうという基本方針をきめた。それを実行にうつすために、日米原子力協定がむすばれ、6月22日には早くも仮調印をすませた。
 これで濃縮ウラン実験炉の購入の準備はすべてととのった。
 (中 略)
馬なしの馬車 
 ここでは、実験炉をまず買った上で、おもむろに研究者をあつめようという本末転倒な話が進んでいた。「馬なしの馬車」とはまさにこのことであろう。国産の原子炉をつくるための参考としても、実験炉は必要であるといわれていた。しかし、実際には「何分はじめての経験なので予定がおくれ、国産炉に対して調節的な結びつきは薄くなっていた」のである(『原子力開発十年史』)。
 原子炉予算がつけられた以上は、どんな形でもつかってしまわなければならない。原子力利用準備調査会の任務はまさに、そのことであった。これが「行政の論理」というものである。だが、それは「学問の論理」とはおよそ関係のないことでもある。



  “行政の論理”のみで、確保した予算を使うための日本の原子力政策が進められた。もし、“学問の論理”と“行政の論理”が、もっと日本的に「和」していれば、紹介したような高木vs.鈴木討論などが起こることもなく、もっと生産的に科学者達が協力して、今日とはまったく違う道を歩めた、かもしれない。
 あらため日本の原子力行政を「その時」から辿るなら、こうなるだろう。 
 (1)政治の力で原子力関連予算が国会を通過
 (2)予算を使うための諸組織の設置
 (3)政治主導で科学者の声を無視してアメリカから濃縮ウラン実験炉購入を決定
 (4)科学技術庁が原子力関連行政を管理
 (5)科学技術庁の原子力行政から、大学の研究・教育を排除
      ↓
  政治主導で、安全性論議を欠いたまま、歯止めのきかない原子力発電所の建設

 最先端の原子物理学や核物理学を学ぼうとした優秀な学徒が、予算がふんだんにある国の原子力関連機関に進路を決めることは、当時は決して非難できない選択だったかもしれない。しかし、当時の先端的な原子力関連研究から大学の研究・教育分野が排除され、あくまで原発を建設するためにのみ予算が使われ、安全性検証などの予算も組織的活動も十分にされてこなかった、という歴史が今日の不幸の背景にあった。
 
 同じ過ちを繰り返さないためにも、そして日本の未来のために、こういった残念な過去の失敗を知る必要があると思う。
[PR]
# by koubeinokogoto | 2011-04-14 16:20 | 原発はいらない | Comments(3)
三宅泰雄著『死の灰と闘う科学者』から、昨日長めの引用をしたのだが、補足的に昨日の後のページも紹介しないと“言葉足らず”のように思い、あと少しだけご紹介。
 1954年3月の原子力関連予算の国会通過が、日本の原子力政策を左右する「その時」であったことは、すでに指摘したが、その後にも大きな「その時」、あるいは「その人」の存在があった。今回この本から引用するのは、原子力委員会発足当時の委員長のこと、そして発足時に委員として名のあった人たちのその後などについて書かれた部分である。

原子力大臣の出現 
 このときの内閣総理大臣は鳩山一郎氏(第三次)であった。閣僚の一人に正力松太郎氏がいた。正力氏は入閣をもとめられたさい、防衛大臣のポストをあたえられようとしていた。しかし、彼は「原子力大臣ならやる」と自ら原子力担当大臣を買って出た。
「彼(鳩山総理)はキョトンとした。“原子力って何だね”総理大臣が知らないのも無理はない。この時初めてわが国政府機構の中に原子力を中心とする科学技術全般を専管する大臣のポストが決り、その本格的政治が動き出したのだった」と正力氏はのちに、こう書いている(『原子力開発十年史』)。
 現代国家の総理大臣ともあろう人が「原子力」を知らないとは、おそれいった次第だが、それを「無理もない」とする正力氏にも問題がありそうだ。アイゼンハワー大統領が、「原子力を平和へ」の大演説を国連総会でおこなったのは、すでに二年も前のことであった。また、1954年の国連総会は、最大の政治的課題として、原子力平和利用の決議を採択した。1955年8月には、ジュネーブで国連主催の原子力平和利用会議が開催されたばかりであった。
 正力氏は翌年(1956年)1月1日に発足した原子力委員会の初代委員長になった。ついで、その年の5月19日にスタートした科学技術庁の初代長官のポストにおさまった。原子力委員会の委員の人選のさい、学術会議原子力問題委員会委員長藤岡由夫博士を、委員にすることに、正力氏はきわめて消極的であった。しかし、彼はノーベル賞受賞の湯川秀樹教授(京都大学、物理学)を入れて、委員会を内外ともに権威づけようとした。それとひきかえに、しぶしぶ藤岡氏の委員就任を承諾したのであった。
 藤岡博士の背後にある日本学術会議が、正力氏らが考えているような、原子力政策を、真向から批判することは目に見えていた。それが藤岡博士を忌避した理由である。しかし、懇請のすえ、ようやく入ってもらった湯川教授は、性急に輸入によって原子力発電を実現させようとする正力氏の意見との間に、本質的な相違を感じた。湯川教授は、はやくもその四月には辞表を出し、病気欠席のまま、翌年(1957年)には正式に辞任した。こんなことなら、面倒をかける大学人とは、むしろこちらから縁をきりたいと正力氏が考えたのは、当然のことであろう。
 すでに原子力委員会は、大学とは公式交流はしないことになっていた。委員の中には、社会党からの推せんをうけて、有沢広巳教授(東京大学、経済学)が入っていた。委員就任のさい、矢内原総長から、原子力委員会が大学の自治をおかさぬという約束をかたくなに守るようにいわれていたことは、いうまでもないことであった。
 科学技術庁設置法案を起草するにあたって、大学との絶縁状を法文化し、「こちらから」積極的に大学との縁をきろう、という一石二鳥の妙案が、正力氏はじめ、政府高官の間で練られていたことは、たしかなことである。


 当時の総理大臣鳩山一郎の原子力に対する“感度”の低さには、情けないほど呆れてしまう。

 湯川秀樹教授は、原子力委員会発足の前年、米ソによる水爆実験に反対し、“核廃絶・科学の平和利用”を訴えた「ラッセル・アインシュタイン宣言」に署名した世界の科学者11人の中の一人である。湯川博士が、正力委員長の独断専行でアメリカからの輸入による原子力発電所の早期建設という動きに抵抗して委員を辞任した行動は、よく分かる。しかし、いくらノーベル賞受賞者にしても、あくまで一人の人間にすぎなかったということなのだろうか。残念ながら、正力原子力担当大臣任命後の原子力政策について、この著名な物理学者にしても歯止めをかけることは出来なかった。

 原子力委員会と科学技術庁が発足した昭和31(1956)年当時、鳩山一郎は73歳、正力は二歳年下の71歳と年齢は近い。しかし、政治家としてのキャリアは、正力が前年昭和30年の選挙で富山二区から立候補して初当選したばかり。政治家年齢なら、大人と子供の開きがあったと思うが、昭和28(1953)年に日本テレビ開局によって波に乗る正力と、三年後の昭和34年3月に亡くなった鳩山とでは、心身ともに勢いの違いがあったのかもしれない。

 組織が何か大きな事を成し遂げるには、その活動の“ダイナモ”(発電機)役が必要だ。日本の原子力政策にとって、正力松太郎は、まさにうってつけのダイナモとなった。テレビ局やプロ野球球団を経営することによる功罪のバランスシートは、あながちマイナスではないかもしれない。子供の頃、ジャイアンツを応援し、プロ野球選手になる夢をふくらませた野球少年もいた。しかし、こと原子力政策に関して言えば、彼のようなパワフルなダイナモが日本各地に原子力によるダイナモを建設することに貢献したことのバランスシートをしっかり見直す必要があるように思う。
[PR]
# by koubeinokogoto | 2011-04-13 20:57 | 原発はいらない | Comments(2)
“レベル7”の状況においても、「原子力行政が変わる性格ではない」と、近藤駿介原子力委員会委員長は言っている。MSN.産経ニュースの該当記事

原子力委員会委員長「原子力行政が変わる性格のものではない」
2011.4.12 12:47
 近藤駿介・原子力委員会委員長の話 「レベルは放射性物質の放出量で決まるので、事故の進展によって変わることがある。また、今回は単一の原子炉ではなく、3つの炉心から放射性物質が出たとすれば規模が大きくなることもあり得る。ただし、レベルというのはあくまで状況を早く伝えるためのものであり、今後の原子力行政が変わる性格のものではない。原子力委員会としては、原発事故の発生確率が低くなるよう、最新の知見を持ってリスク管理を行っていただくよう、引き続き申し上げていく。避難している皆様のご苦労を少しでも軽くすることが使命だ」


 まぁ、この組織からは、こういう発言しか出てこないのもやむを得ない。この組織は「原子力推進委員会」と名を変えるべきだろう。
 この組織の成立した背景を振り返るとともに、少し長い時間軸で、“原子力の平和利用”という国策がどういう経緯で始まり、なぜその計画がこれほどまでに危険をはらんだままで推進されてきたのかを振り返る必要もあるように思う。特に、今回の事故後に私がずっと不審に思っていたことなのだが、なぜ、大学という最高学府の科学者や研究機関が、原子力の危険性や災害対策の不備について抑止的な機能を果たせなかったのか、という疑問を探りたいと思う。

e0337865_16390032.jpg

三宅泰雄著『死の灰と闘う科学者』(岩波新書)

 三宅泰雄著『死の灰と闘う科学者』(岩波新書、1972年発行)の「第Ⅵ章 科学と政治の不幸な出会い」から、再び紹介したい。政治が力技で原子力関連予算を国会で通過させたことの連鎖反応として、新たな不幸の歴史が始まったことの確認である。
 長い引用になるが、大きな転換期の状況を知るために、ご容赦のほどを。

原子力に対する大学の反撥
 1955年12月に開かれた第23回臨時国会で、原子力三法が通過した。すなわち「原子力基本法」「原子力委員会設置法」および、原子力局を設置するための「総理府設置法の一部を改正する法律」の三つである。
 原子力基本法には、日本学術会議が主張したように原子力の研究、開発、利用が平和目的にかぎられることがのべられ、公開、自主、民主の三原則がとり入れられた。これは、これらのことをつよく主張した日本学術会議の科学者たちの努力の結果で、学術会議側の一つの成功といえるものであった。しかし、日本の原子力は原子力基本法ができる前に、「奇怪な」形でスタートしてしまっていた。基本法の自主、民主の精神は、実施面ですでに大きく損なわれていたのである。
 これらの法律が通る前に、一つの重要なできごとがあった。東京大学総長矢内原忠雄博士と、東京大学茅誠司教授が国会をおとずれ、原子力諸法に関し重大な申し入れをしたことをいう。それは1955年12月12日のことだった。
 矢内原忠雄博士は、当時、国立大学協会の会長でもあった。博士が衆参両院を訪れたのは、国立大学協会会長としての資格においてであった。
 衆参両院で、矢内原、茅両博士が国会に要望したことは、原子力諸法の成立によって、大学の研究、教育の自由がおかされることのないようにしてほしい、ということであった。国立大学協会は、国立大学の協議体で、各大学の学長がその大学を代表して参加している団体である。国立大学協会で、原子力研究の問題がどのように議論されたかを、いまくわしく知ることできない。しかし、国立大学協会としては、大学所属の教官の意見がまとまっていない段階に、政治家ペースで原子力の研究が推進されることに不安をいだいていたことは、推察できるところである。
 とくに東京大学には原子核研究所(同年7月1日発足)があった。政治家たちは、この研究所の予算を原子力予算にくみいれるべきであると考えていた。
 (中 略)
 矢内原博士は持論として、「科学技術教育の振興という問題は、それだけでは人類の幸福を増進するという自明な結論にはならない。これを何のために用いるかという、自明の厳密な規定が必要である」(原子力時代の教育、1957年、講演)と考えていた。したがって、日本の原子力研究がその目的を厳密に規定しないまま発足するすること、とくに大学におけるその研究に、不安をいだいていることは明らかである。
 矢内原博士に同道した茅博士の立場は微妙である。茅博士は日本学術会議会長であったが、会長の資格で国会を訪問したのでないことは明らかである。日本学術会議では、それまでに、原子力に関して多くの発言をしてきたが、大学と原子力研究の関係について、発言をしたことはなかった。学術会議は、大学内部の政策については、発言をさしひかえてきたのであった。
 矢内原、茅両博士の国会への申し入れは、その後、重大な波紋をよぶので、私はそれは国立大学協会の意志にもとづいてなされたものであることを、あきらかにしておきたい。

大学との絶縁—国会付帯決議
 原子力関係諸法の規制から、大学をのぞくようにという矢内原、茅両博士のつよい要請を国会側は了承し、その趣旨をのべた付帯決議をすることになった。
 衆議院での原子力委員会設置法への付帯決議は次のとおりである。
「原子力利用に関する経費には、大学学部における研究経費を含まないものとする。」ここで、原子力委員会の調整からはずされるのは、大学学部の研究予算であり、付置研究所は原子力委員会の調整範囲に入っていた。具体的には東京大学に付置の原子核研究所がそれであった。
 大学側はさらに申し入れをかさね、付置研究所の予算についても、原子力委員会の調整からはずすように求めた。この意見を入れてなされた参議院の付帯決議は次のとおりである。
「大学の研究経費は含まないこととする。」
 さらに、原子力委員会設置法第7条第2号では、「原子力平和利用に関する研究者および技術者の養成訓練(大学における教授研究に係るものを除く)に関すること」とし、大学の教育、研究に関する事項は、原子力委員会の任務からのぞかれることになった。
 このようにして大学が、こんご原子力研究、教育に従事するようになるとしても、それらは一切、原子力委員会の調整の範囲外におかれることになった。
 なお、原子核研究所が原子力委員会と無関係になったことから、ひいては原子物理学と原子力とが疎遠のなったことも、重要なことである。欧米諸国では、大型加速器などを用いる原子核研究は、原子力研究予算の範囲内におかれていることが多い。これらの国では原子物理学者が、原子力研究の発展に大きく寄与している。
 原子力委員会は1956年6月1日に発足した。当初の原子力委員会委員のリストは第15表のとおりである。衆参両院の付帯決議は原子力委員会で尊重され、原子力委員会は大学の研究に関しては干渉しないことになった。
-------------------------------------------
第15表 当初の原子力委員会委員名簿(1956年1月)
委員長 正力松太郎
委 員 石川一郎
     藤岡由夫
     湯川秀樹(非常勤)
     有沢広巳(非常勤)
-------------------------------------------
 国立大学協会が、大学の研究教育の自治を守るため、矢内原博士を通じて、国会に申し入れをしたことには、それなりの理由があった。原子炉予算提出の非民主性がもちろんだが、原子力諸法の法案要綱をみても、大学の自治が十分に守れるとは、いいきれない心配があった。
 もし、原子力研究が国民にとって、真に重要なものであるとすれば、国会は大学の自治を十分に保障し、国の英知を結集して、原子力研究が推進されるように、法案を修正すべきではなかったろうか。それはまた、原子力基本法の精神を生かす道でもある。
 たとえば、日本学術会議や、国立大学協会の推せんする人を原子力委員会に入れること、原子力研究の基本方針について、日本学術会議に諮問することなどを、法文化することである。このようなことは、すでに多くの国で行われていることで、新しいことでも、珍しいことでもない。
 (中 略) 
 国会議員たちは、この付帯決議が連鎖反応をうんで、日本の科学技術をますます窮地においこんでゆくことに気付かなかった。

連鎖反応はすすむ
 そのときは、まだ科学技術庁はできていなかった。総理府にあらたに原子力局がもうけられ、それが原子力委員会の事務局にもなった。
 科学技術庁は1956年5月19日に発足したが、それを機として、原子力局は科学技術庁に移った。原子力委員会も科学技術庁に事務局を移した。
 科学技術庁ができるまでの、原子力委員会と大学との関係は、国会の付帯決議および「養成訓練」における大学除外の法律によって定められていた。
 原子力委員会は、国会の付帯決議の趣旨を守り、大学の教育、研究のことには触れない方針を堅持していた。この原子力委員会の傘になる科学技術庁も、その方針にならい、大学と科学技術庁の関係を法文化することにあいた。科学技術庁設置法第3条(任務)に、このことがのべられている。
 第3条 科学技術庁は、科学技術の振興を図り、国民経済の発展に寄与
    するため、科学技術(人文科学のみに係るもの及び大学における
    研究に係るものを除く、以下同じ)に関する行政を総合的に推進
    することを主たる任務とする。
 さらに第9条(原子力局)第1号では、原子力に関し、次のように規定されている。
 1. 原子力利用(大学における研究に係るものを除く。以下第2号、第3号
   および第10号において同じ)に関する基本的な政策の企画、立案および
   推進に関すること。
 ここで第2号は事務の調整、第3号は試験研究補助金、交付金、委託費に関することである。第10号は養成訓練に関することである。
 このようにして、原子力研究はいうまでもなく、原子力問題を発端として、一般の科学技術の研究に関しても、科学技術庁と大学とは、一線を画することになった。
 一国の科学技術を推進するには、大学、官庁、民間の別なく、研究者の英知を結集することが、何より大切である。
 (中 略)
 これがもとをただせば、1954年の原子力予算に端を発した連鎖反応の結果であることを、私たちは知っていなければならない。



 すでに書いた「その時」に、科学者の原子力に対する慎重な姿勢に業を煮やした中曽根康弘他の政治家が“腕力”を発揮して原子力関連予算を国会で通した。そして、その力を恐れるあまりに、原子力研究における大学の自治を守ろうとした矢内原、茅両博士は行動した。しかし、良かれと思ったその行動は、歴史の皮肉な結果として新たな日本の不幸を招くことにつながった。あるいは、利用されたと言ってもいいのだろう。

 “科学技術の振興を図り、国民経済の発展に寄与するため、科学技術に関する行政を総合的に推進することを主たる任務とする”「科学技術庁」が、民間とともに重要な科学技術の研究機関である大学をその対象から除外するなどということは、冷静に考えればあり得ないことだ。三宅泰雄さんが指摘するような“あるべき姿”に軌道修正するこもできたはずだろうと思うが、時として歴史は差す竿を簡単に流し去るだけの勢いをもつ。
 そして、政治の側は、意図したことではなかったかもしれないが、この状況を出来る限り自分たちに有利な方向に利用していくことになる。積極的に原子力発電所を建設しようとするグループにとって、その危険性を指摘するような大学の科学者は、邪魔なのである。必要なのは、“元”や“前”の肩書きだけは立派で、政治の意のままに動く御用学者なのだ。初代原子力委員会委員長には、アメリカの意のままに動いてくれる人物が就任した。ここから、今につながる危機に、残念ながら日本は突き進んで行くことになる。
 
 福島原発は、まだまだ危機的状況を脱していない。この状況を十分に踏まえて将来のエネルギー問題を考える上で、あらためて“科学と政治”の関係をどうするか、ということも重要なテーマであると思う。災害が起こらないような“科学と政治”の良好な、継続的な関係が必要だろう。事後になって、数多くの「専門家」のバラバラな見解をマスコミで羅列されても、まったく効果も信憑性もない。そもそも、「大丈夫」「安全」と言ってきた奴らが、まるで始めから危険性を訴えてきたかのように豹変し始めている。

 “レベル7”の状況でも「原子力行政が変わる性格ではない」と責任ある立場の元科学者が口にするような構造そのものを変えずにして、子供たちの未来はないだろう。
[PR]
# by koubeinokogoto | 2011-04-12 13:54 | 原発はいらない | Comments(2)
政争のために連立入りを断った谷垣が、統一地方選の結果に便乗して菅の退陣を要求している。東日本大震災、そして福島原発事故の対応に関する菅の失態を擁護することは、民主党内においても難しいだろう。しかし、自民党は、過去の原子力政策に関する歴史に目をつぶることはできない。
 「その時、歴史が動いた」ふうに言うならば、「その時」は昭和29(1954)年、55年体制の直前である。

e0337865_16390032.jpg

三宅泰雄著『死の灰と闘う科学者』(岩波新書)

 三宅泰雄著『死の灰と闘う科学者』(岩波新書、1972年発行)から引用する。

 まずは、「その時」の“前夜”における学者たちの日本学術会議における「原子力」の検討状況から振り返りたい。 同書、「第Ⅵ章 科学と政治の不幸な出会い」より。
 

原子力についての科学者の考え
 1952年秋の第13回総会のさい、茅誠司(東京大学教授、物理学)、伏見康治(大阪大学教授、物理学、現名古屋大学プラズマ研究所長)の両委員は「来年四月の総会で、政府にたいして、原子力問題について申し入れをおこなうことの可否を検討すること」を提案した。
 政府への申し入れの内容というのは、政府に原子力委員会の設置をすすめることであった。この提案にたいして、日本学術会議の総会では、白熱的な議論がかわされた。討論では、政府へ申し入れをするということは、時期尚早で、むしろ学術会議としての、原子力にたいする態度をかためるべきであるという意見が多数をしめた。このために、学術会議にはあらたに、第39委員会がもうけられた。初代の委員長は哲学者の務台理作教授(東京教育大学、文学部)であった。
 その後、1954年のはじめに、日本学術会議第3期が発足したとき、第39委員会委員長は藤岡由夫教授(東京教育大学、物理学)にかわった。


 世界で唯一の原爆被爆国である日本の科学者たちの、原子力に関する考えは、当たり前だが慎重であった。しかし、「その時」がやって来る。
 

寝耳に水の原子炉予算 
 日本学術会議のなかでは、いますぐ原子力の研究にとりかかるより、むしろ、会議が政府に新設を勧告したばかりの「原子核研究所」(1953年勧告)の早期実現をのぞむ声が大きかった。第39委員会の主催でひらかれたシンポジウムのあと、数日たった3月2日に突如として原子炉予算が、予算修正案の形で衆議院に提出された。これは、当時の野党の一つであった改進党からの提案だった。この追加予算案は与野党三党(自由党、日本自由党、改進党)の共同修正案として、たいした議論もなく3月5日に衆議院を通った。
 その内容は、2億3500万円が原子炉をつくる費用、ウラン資源の調査費が1500万円、チタン、ゲルマニウムなどの資源や利用開発のための費用が3000万円、図書、資料費が2000万円、合計3億円であった。この予算案は参議院におくられ、自然成立の形で第19国会を通過した。
 この原子炉予算案をつくったのは、当時の改進党所属の代議士中曽根康弘、斉藤憲三の両氏、ほか数名といわれている。中曽根氏はそのころのことを次のようにのべている。
 「学術会議においては、(原子力の)研究開発にむしろ否定的な形勢がつよかったようであった。私はその状況をよく調べて、もはやこの段階に至ったならば、政治の力によって突破する以外に、日本の原子力問題を解決する方法はないと直感した。・・・・・・国家の方向を決めるのは政治家の責任である。・・・・・・」(日本原子力産業会議、『原子力開発十年史』、1965年)。
 そのときのことを、伏見康治博士はこう書いている。「新聞で原子炉築造のための予算2億3500万円が組まれたという記事を見たとき、文字通り私はあっと声をあげた。数日前上野で、原子力研究をどう進めるべきかの公聴会を開いたばかりで、これは藤岡由夫さんが長い間原子力問題のデッドロックを打開するために計画した討論会で、一応の成功を収めたと見られるものであった。それが打開も打開、研究者たちの知らないところで、全く新しい局面が展開されようとしているのである。私は本当にとび上がった。・・・・・・私は輾転反側して眠られなかった。・・・・・・悪くすれば、研究者と政治家と正面衝突ということになりかねなくなっているのである。・・・・・・私は夜おそくまでかかって“原子力憲章草案”を書いた。・・・・・・原子力をあくまで平和利用に限定するための具体的条件をうたい上げたものである」(伏見康治『研究と大学の周辺』、共立出版、1968年)。


 この原子炉築造用の予算2億3500万円の“235”という数字が、「ウラン235」との語呂合わせだと言うこと自体が、この予算の“乱暴”であることを物語る。洒落、地口は落語だけで結構だ。

 この本の著者、三宅泰雄さんのことをWikipediaからご紹介。

三宅 泰雄(みやけ やすお、1908年4月17日 - 1990年10月16日)は日本の地球化学者。東京教育大学教授。
1931年東京大学理学部化学科を卒業し、中央気象台、気象研究所勤務を経て、1957年に東京教育大学教授となる。1954年のビキニ事件を発端にビキニ周辺海域・大気の放射能汚染を調査、研究し、高い評価を得る。以後海洋や大気の放射能汚染の危険性を訴えつづけた。第五福竜丸の船体の保存にも尽力する。
1967年には「天然および人工放射性同位体並びに安定同位体を中心とする海洋化学的研究」で日本海洋学会賞を受賞する。
また、地球化学研究協会を設立し、日本海洋学会会長(1975-1978)、日本地球化学会会長などをつとめた


 三宅さんは、本書の「はじめに」でこう書いている。

もし、日本学術会議が、創立以来二十数年間、その設立の目的にそって機能していたら、わが国の科学は、いまとはちがう路線をあゆんでいたであろう。人文・社会・自然の諸科学、あるいは巨大科学と一般科学のあいだの調和のとれた発展、大学・研究所間の自由な人事交流、平等・互恵を原則とする国際協力など、とおのむかしに実現していたにちがいない。しかし、現実にはそうではなかった。

 
 「政治の力」で予算が通過した後、NHKラジオで中曽根康弘や茅誠治が参加しての座談会が行われた。
 

NHK座談会について、武谷三男教授(立教大学、物理学)は、「何かわけの分からぬ格好で原子炉予算を出すのは非常に奇怪で、茅さんがラジオの座談会で、中曽根氏にそれをいうのかと思ったら、茅氏は中曽根氏に敬意を表すだけで、一向にその話をしない。・・・・・・ぼくからみると茅さんは、何だか政治家の前に頭を下げるだけがすべてであるという感じを受けた」と語っている(『科学』24巻5号、1954年)。
 茅氏は当時、日本学術会議会長であり、学術会議での原子力問題に関する議論の内容をもっともよく知っていた人の一人である。原子力問題に関する議論のなかには、原子爆弾で被災した三村剛昴教授(広島大学、物理学)のつよい発言があったことも、そのころ、まだ記憶に新しいことであった。
 前にも述べた第13回総会(1952年10月)のときのことだった。討論にたった三村博士は自らの被爆体験にもとづいて、茅・伏見提案をはげしく攻撃し「米ソの緊張がとけるまで、原子力の研究は絶対にしてはならない」ことを説き、会員に大きい感銘をあたえた。三村博士は1965年10月26日、67歳でなくなったが、なくなる前に「心のこりは何もないが、ただアメリカが核戦争をやり、アメリカ自身が原爆でやられるのを見ないで死ぬのが、一つだけ残念だ」と語ったとつたえられている(佐久間澄『科学』1966年2月号)。いうまでもなく、この言は三村博士の悲壮な逆説である。教授はつねに、核戦争による人類の滅亡をうれえていた。日本の原子力研究が、一歩あやまれば、とめどなく軍事利用に傾斜する可能性の大きいことを心配していたのである。


 斉藤憲三という人は、政治家としてよりTDKの創業者として有名かもしれない。
 さて、中曽根康弘については説明は不要だろう。学者達が慎重に議論を重ねながら検討をしていこうとしていた時、そして、被爆経験のある三村博士が会議で正論を述べて学者達に感銘を与えていた状況において、また、そういう状況だったから、中曽根康弘他の政治家が力づくで“原子力の平和利用”を進めたのである。

 「その時」は、ビキニ環礁でアメリカが水爆実験を行い、第五福竜丸が被害にあった頃とほぼ同時期であることが、あまりにも歴史の皮肉であることを三宅さんは述懐されている。
 あれ以来、長い間与党であった自民党を中心とする“原子力ムラ”が、日本、いや地球環境の将来への展望もなく、高木仁三郎さん達の反原発の声も無視し、人間の管理の限界を超えた巨大システムを、ただ希望的観測で「安全だ」と言い続けて、今日に至っているのだ。
 
 菅を降板させようが、谷垣が原発推進・擁護の母体であった自民党の責任者であるという事実と歴史は、誤魔化すことができない。
[PR]
# by koubeinokogoto | 2011-04-11 17:06 | 原発はいらない | Comments(4)
原子力資料情報室が厚生労働省に提出している要望の中に、福島の事故後に変更された、放射線業務従事者の緊急業務における放射線許容量の上限値250ミリシーベルトを、元の100ミリシーベルトに戻すことが含まれている。
 この250mSvがどれほどとんでもない値であるかについて、高木仁三郎著『科学は変わる-巨大科学への批判-』(1979年に東洋経済新報社の東経選書として発行され、その後1987年に社会思想社から現代教養文庫として発行。残念ながら現在は古書店で入手するしかない)の中で紹介されているマンクーゾたちの地道で貴重な調査結果を、少し長くなるが紹介したい。
 政府や東電、原子力安全・保安院の口癖である、「ただちには健康に影響はない」という言葉は、「将来的には、健康に影響があるかもしれない・・・・・・」という意味であることが明らかになっている。

“放射線許容量”の根拠は何なのか? その答えは、ブログ後半部分に赤字で示してみた。

 ピッツバーグ大学のマンクーゾは、イギリスのニール、スチュアートと共同で、原子力施設で働いた人々の放射線被爆とガン死者との関係を解析しました。
 対象となったのは、1944年~77年という長期間の間に、アメリカの原爆計画以来の原子力センターであるハンフォード原子力施設で働いた労働者のうち、死亡などの記録がはっきりしている2万9318人でした。このうち、死因が明らかな死者の総数は、4033人(17%)で、ガンによると認定されたものは、832人(3.5%)です。
 この、時間的にも長期にわたり、年齢、性別、被爆総量、勤続年数など多様な集団の膨大な記録をたんねんに整理して、ようやく因果関係が見え出すまでに、マンクーゾは10年を費やしています。しかし、その努力の結果、少なくともガン死者のうち、6~7%の人は放射線被爆の結果ガンにかかって死亡したという結論に達しました。それは、低線量の放射線被爆とガン発生の結果を、実証的に裏付けた初めての結果といってよいのです。
 マンクーゾらの結果は、比較的最近に発表されたもので、まだあまりわが国では紹介されていないうえに、原子力推進者たちによって、その結果を検討・評価することさえ無視されている傾向があるので、ここでやや詳しく紹介してみましょう。
 マンクーゾは、まずガン以外の死者の間に放射線被爆量に差があるかどうかを調べました。その結果を表3-1に示します。ここで注意しておきたいことは、ここにいう被爆総量とは、体外の放射線から被爆を受けた場合の、いわゆる外部放射線被爆線量のことで、主に問題となるのはガンマ線と高エネルギーのベータ線です。プルトニウムの場合のように、体内に入ったアルファ線の効果は、ここでは把握されていません。

表3-1 死者と被爆線量
--------------------------------------------
性別  死  因   死者数   一人当たりの線量
                   (蓄積線量の平均値)
--------------------------------------------
男   ガン       743人      2.03ラド
    ガン以外   2,999        1.57
女   ガン        89        0.89
    ガン以外    202        0.50
--------------------------------------------
合計  ガン       832      1.90
    ガン以外    3,201      1.50
    全ての死因  4,033      1.59
--------------------------------------------

 さて、表をみてわかるように、ガン死者の平均の被爆総量は、ガン以外の死因による死者の平均総量を上回っており、その間には統計的に有意の差があります。この表では放射線量は、ラドという単位を用いて表されていますが、一般には、放射線被爆を問題にする場合、放射線の生物学的効果も考慮に入れて、レムという単位を用います。ガンマ線やベータ線を問題にするこの例のような場合、ラドとレムは同じ数値になると考えて差し支えありません。単位の問題に深入りしませんが、現在、ICRP(国際放射線防護委員会)の勧告に基づいて、各国が採用している「許容量」は、全身に対して3カ月当り3レムです。また、長期にわたる放射線被爆の蓄積線量に関しては、18歳をゼロとして、その後は一年当り5レムまでが許されています。これを数式を用いて表せば、
   許容蓄積線量=5(n-18) (レム)
 ということになります(nは人の年齢)。
 もっとも、これらが適用されるのは、職業的に放射線作業に従事する人で、一般の公衆の「許容限度」は、年間0.5レム、と職業人の場合の10分の1になっています。
 マンクーゾの結果は、このような許容量よりはるかに低線量の領域で、放射線がガンを誘発することを示唆しています。このことをわかりやすく理解するには、倍加線量という概念を用いると便利です。倍加線量とは、ガンの自然発生率を、倍にしてしまうだけの効果を持つ放射線量のことです。
 マンクーゾたちが、その解析の結果にもとづいて、推定したガンの倍加線量の値を表3-2に示してあります。

表3-2 倍加線量の推定値
-----------------------------------------
性別  ガンの種類        倍加線量
-----------------------------------------
男  骨髄性(白血病を含む)    3.6ラド
    肺                 13.7
   すい臓・胃・大腸         15.6
   高感受性ガンの全体      13.9
   全てのガン            33.7
------------------------------------------
女  全てのガン             8.7
------------------------------------------

 白血病など、骨髄性のガンをはじめ、マンクーゾたちの推定は、「許容量」に比べて、倍加線量の値が非常に小さいことを示しています。すべてのガンを総合しても、倍加線量の値は約34ラドと推定されています。わが国の統計をみると、すべてのガン(悪性新生物)を総合した場合、その自然発生率は、人口10万人に対しておよそ120人程度です。倍加線量が34ラドということの意味は、ある人口集団が、たとえば「許容量」の5レムずつ毎年放射線被爆を受けると、七年後には、ガンの発生率が人口10万人に対して240人ほどになるということです。
 これまで人体に対する放射線の効果を直接的に推定する根拠としては、広島や長崎における原爆被爆の経験が用いられて来ました。そこから、倍加線量としては、100ラドないしそれ以上という値が想定され、この値は現在の「許容量」の設定にも大きな影響を与えています。マンクーゾたちの結果は、今後、このような推定が大幅に書き換えられなければならないことを示唆しているわけです。
 マンクーゾたちの研究は、今後さらに精密化されるべきものですし、細かい数値にわたって、断定的なことを言うべき段階でもないと思われます。しかし、彼らの研究が意味するところは大きいのです。



 ガンマ線とベータ線に関しては、ラド≒レム、と本書でも説明されていた。以前に書いたように、1シーベルトは100レムなので、文中にある34ラドは、34ラド≒34レム=0.34シーベルト=340ミリシーベルト、となる。

 緊急作業に関し引き上げられた年間許容限度250ミリシーベルトという値は、たった2年の合計500ミリシーベルトが、マンクーゾたちの調査で示された、全てのガンの倍加線量340ミリシーベルトをはるかに越えることを意味する・・・・・・。

 高木さんは「マンクーゾ報告」を紹介した後で、次のように指摘している。

「許容量」の設定は、それがどんなレベルのものであれ、放射線の危険性をどのレベルに抑えることが望ましいか、という政治的な判断にかかわっています。それが、専門家による「科学的」な判断として、大衆的なチェックを受けずにまかり通っていることに、大きな問題があります。「大衆が、科学にかかわった問題を判断するだけの素地がない」というのが、専門家による判断がまかり通る根拠になっているわけですが、そのこと自身、今日の科学のあり方が、大衆的な意思統一を前提としないことからくる歪みを表わしてもいます。


 福島の現場での作業は、非常に重要であるのは間違いがない。しかし、いきなり“政治的な判断”で、マンクーゾたちの実証的な調査で指摘されている倍加線量に近い値を、「緊急」の名の元に、我々と同じ人間である現場の労働者の方に強いる権利は、誰にもない。

 こうなったら、現場の作業は一人当たりの線量を抑えた人海戦術しかないのだ。それは、堀江邦夫さんの『原発ジプシー』でも十分に分かることである。少なくとも、100ミリシーベルトという従来の設定に戻し、足らない人員をなんとか確保しないことには、放射線を浴び続けている一人一人の現場の人たちに申し訳ないではないか。彼らは、文字通り、“命を削っている”のだ。
[PR]
# by koubeinokogoto | 2011-04-08 14:51 | 原発はいらない | Comments(0)

人間らしく生きることを阻害するものに反対します。


by 小言幸兵衛