幸兵衛の小言

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全国の放射能モニタリングへのリンクが可能なサイトを探して、原子力安全・保安院→経済産業省→文部科学省と“旅”をして、ようやく文科省のトップページにあるのを発見。
文科省トップページ(全国の放射能モニタリング結果)
 各県のより詳しいモニタリング情報は、それぞれの県のサイトにあるはずで、ちなみに私が住む神奈川県の情報は、下記の県のサイトの「防災・災害情報」のページに掲載されている。
神奈川県のサイトにある「防災・災害情報」
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# by koubeinokogoto | 2011-03-24 15:27 | 原発はいらない | Comments(0)
まず、最初にお断り。風評被害を拡大するつもりは毛頭ない。水の放射能の測定によって広がる不安の元となる、「乳児はダメ」というお達しへの当たり前の不安、「じゃあそれ以外の子供や大人は大丈夫なのか?」ということに関して、各自治体や保健所がどんな指標を元にアラームを発しているかを確認したい。

 3月17日に厚労省は報道機関向けに次のような情報を発信した。
(実際の文章の体裁は下記URLでご確認ください。発信元の「医薬食品局食品安全部」以下の名称が、本当は右上にあるなど下記とはレイアウトが違っています。)
厚生労働省の3月17日の報道関係者への通達

平成23年3月17日
医薬食品局食品安全部
企画情報課 課長 吉野、佐久間(2441、2448)
基準審査課 課長 森口、渡、内海(2481、2484、4280)
監視安全課 課長 加地、大原、今村(2471、4241、4242)
(電話代表) 03(5253)1111
(直通電話) 03(3595)2326、2341、2337


報道関係者各位

放射能汚染された食品の取り扱いについて
(福島原子力発電所事故関連)


・ 平成23年3月11日に発生した東京電力株式会社福島第一原子力発電所事故により、周辺環境から放射能が検出されています。このため、飲食に起因する衛生上の危害の発生を防止し、もって国民の健康の保護を図ることを目的とする食品衛生法の観点から、当分の間、原子力安全委員会により示された「飲食物摂取制限に関する指標」を暫定規制値とし、これを上回る食品については食品衛生法第6条第2号に当たるものとして食用に供されることないよう対応することとし、別紙のとおり各自治体に通知しました。


 そこで、ここに言う「別紙」である。A42枚の資料は、最初のページが次のような文章。

別紙
食安発0317第3号 平成23年3月17日
都道府県知事
各 保健所設置市長 殿
特 別 区 長

厚生労働省医薬食品局食品安全部長 放射能汚染された食品の取り扱いについて 平成23年3月11日、東京電力株式会社福島第一原子力発電所事故に係る内閣総理大臣による原子力緊急事態宣言が発出されたところである。 このため、飲食に起因する衛生上の危害の発生を防止し、もって国民の健康の保護を図ることを目的とする食品衛生法の観点から、当分の間、別添の原子力安全委員会により示された指標値を暫定規制値とし、これを上回る食品については、食品衛生法第6条第2号に当たるものとして食用に供されることがないよう販売その他について十分処置されたい。 なお、検査に当たっては、平成14年5月9日付け事務連絡「緊急時における食品の放射能測定マニュアルの送付について」を参照し、実施すること。


 そして、2枚目は、肝腎の下記の「飲食物摂取制限に関する指標」である
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 よくご覧のほどを。100ベクレル/kgを越える場合の乳児への警告は、「欄外」に書かれている注意事項。

 何を言いたいのか。新たな通達などがあったのかは知らないが、概ね現時点で地方自治体も保健所も、この指標を元にアラームを出しているだろう、ということを知っておくことも重要かと思う。乳児に関する欄外の注意で、“指導すること”なんて中途半端なことが書いているから、なおさら歯切れが悪くなるのだろう。

 このういう状況を踏まえれば、今の段階で「大人は大丈夫か?」と言われても、この紙切れに基づいたポジティブな答えも楽観はできない。なぜなら、放射性物質の量は変化するから。ある時点で基準内でも、時間経過で増えることも減ることもありえる。「安全」の2時間後に「危険」と言われたとしたら、「それって、いつから危険なの?」と混乱は増すばかりだろう。

 元になっているのが原子力安全委員会の資料。厚労省自らが数多くの情報を収集したり、何らかの実験をして発信している指標ではないのだ。原子力安全委員会が“放射能”のプロなら、この組織がより具体的な指針を出すなり指導をするべきかもしれない。(この組織のことは、まだよく調べていないので、あらためて書きたいと思う。) 

 ここは、しばらく慌てず“自己責任”の姿勢しかなさそうだ。危ない、と思ったら食べない飲まない、ということだろう。残念ながら、「大人は大丈夫」なんて言っている人がいたら、その人の“判断基準”は、必ずしも大丈夫とは言えないはずだ。「ただちには危険はない」の発言は、「ただちには信じられない」という状況だから。
 テレビでは、やたらと安心させようという“専門家”の発言が目立つが、そう言われれば言われるほど、眉にツバをしたくなるのが、今の国民感情であろう。正確なデータと、そのデータの解釈、そして危ないのであれば、「危ないから、○○してください。」、あるいは「危ないからXXはしないでください。」という発言を求めたいのが、今の状況。

 「暫定」ではなく、もっと明確な指標や注意・警告が早急に発信されることを待ちたいが、この「暫定期間」は長くなりそうな気がする。「パニックにならないでください」とテレビで言っている人たちこそ、冷静に的確な情報発信をして欲しいものだ。言葉と裏腹に不安な表情は、テレビでは隠せない。
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# by koubeinokogoto | 2011-03-24 12:49 | 原発はいらない | Comments(2)
「原子力安全・保安院」の名は、度々の記者会見で今や(残念ながら)国民の多くが知ることになった。
 経済産業省の一機関であり、法令上は資源エネルギー庁の特別の機関、ということになるらしい。

 事故後の最初の記者会見のお粗末さについて以前に書いたが、毎日新聞が下記のように報じたIAEA会合での失態には、開いた口がふさがらない。
毎日新聞の該当記事

福島第1原発:原子力保安院、IAEA会合にお粗末対応
【ロンドン会川晴之】福島第1原発事故状況説明のため、国際原子力機関(IAEA、本部・ウィーン)で21日開かれた各国外交団向けの技術説明会で、日本から初めて出席した経済産業省原子力安全・保安院の担当者が、日本語の資料を配布していたことがわかった。説明会の出席者によると、日本政府のお粗末な対応ぶりに席を立つ外交団の姿もあったと言い、日本政府の説明不足に対する不信感が高まっている。

 原発事故に関する日本政府の情報開示をめぐっては、米政府関係者が日本政府に、情報発信を強化するよう要請するなど、各国に不満が高まっている。IAEA加盟国にも同様の不満が高まっていることから、天野之弥事務局長が18日に訪日した際、日本政府と情報共有を図るため、日本人の調整官を日本に常駐させることを決めた。さらに、政府も保安院の担当官をウィーンに派遣することを決め、21日の各国向け技術説明会に初めて出席させた。

 説明会では、説明や質疑応答は英語で実施され、現在の概要を説明する英語版の資料が映し出された。だが、(1)福島第1原発周辺の放射線量測定値(2)福島県対策本部作成の福島県内測定値−−の2種類の日本語資料が配布された。

 日本語資料を基に韓国の代表団は、放射線量が上昇した時、原発でどのような事象が起きたのかと因果関係を尋ねたのに対し、保安院の担当者は「因果関係を詳しく把握していない。調査した上で回答する」と述べたという。

 IAEAは、日本政府の情報発信が少ないとの批判を受け、先週から加盟各国向けに技術説明会を土日も含めて連日開催している。日本政府に専門家派遣を強く要請したが、かえって不信を増幅した形になった。



 この組織にも、不眠不休で一所懸命に仕事をしている人もいるのだろうとは思う。しかし、国際会議に日本語の資料しか用意できないというところに、本来パニックに陥ってはならない管理組織の、未だに続くうろたえぶりが露見している。昔は政治が三流でも官僚は一流などと言われていたが、今やどちらも・・・・・・。監督官庁である経産省は、この会議に臨むにあたってどう管理・指導したのか?

 この組織の公式サイトにある「FAQ」(よくある質問)には、最初に次のようなことが書かれている。
原子力安全・保安院公式サイトのFAQのページ

組織と業務
安全規制の基本理念NISAの組織としての基本的な方針などがありましたら、お聞かせいただけないでしょうか。
NISAの業務は、四つの行動規範に基づいて行われます。第一は、強い使命感です。これには、常に国民の安全を第一に考え、緊張感を持って任務を行うこと、緊急時には安全確保のために積極果敢に行動することなどが含まれます。第二は、業務遂行の透明性です。これには、何事も秘密にせず、日々の業務執行状況について情報公開に取り組むことなどが含まれます。第三は、科学的・合理的な判断です。これには、安全確保を使命とする専門機関として、現場を正確に把握・判断することなどが含まれます。第四は、中立性・公正性です。これには、安全規制機関として常に中立・公正な判断を行うこと、産業界の利益追求をおもんぱかって判断を左右しないことなどが含まれます。



 果たしてここで掲げている
 (1)緊張感
 (2)透明性
 (3)科学的・合理的判断
 (4)中立性・公正性

 のどれが、今現在果たされているのだろうか・・・・・・。

 過去の失態を、重箱の隅をつつくように取り上げるつもりはない。まだ、災害が続いているのだ。君たちがしっかりしなくて、どうする!
 あえて、今後の大幅な改善を期待しての叱咤であり、小言である。頼むよ、ホントに。
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# by koubeinokogoto | 2011-03-22 17:40 | 原発はいらない | Comments(2)
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 原子力資料情報室の共同代表者である伴さんが、19日のTBS「報道特集」に出演されていた。
 この日の「報道特集」は、災害発生後の番組の中では出色の出来と言って良く、ヨウ素やセシウムの半減期のことも専門家の言葉でしっかり説明し、津波の怖さについては、たまたま仙台の若林地区で別の取材をしていた東北放送の武田記者が命からがら回したカメラに残った、あの津波の実態のリアルで貴重な映像が放送された。これこそが“衝撃”的映像だ。記者本人により、救えなかった人たちへの無念さとともに回想されたのだが、まさに胸を打たれた。他にも有益な情報が整理されて構成されていて、この歴史ある“硬派”報道番組の特徴が十分に活かされていた。個人的な感想として、東北放送の記者の映像は、「ピューリュツァー賞」候補だと思う。
 さて、原子力資料情報室という組織の名で思い出すのは、やはりこの組織を設立した高木仁三郎さんだろう。
 まず、この組織のことをWikipediaから引用。

原子力資料情報室(げんしりょくしりょうじょうほうしつ)は、原子力を利用しない社会を目指して作られた民間シンクタンク。

政府や企業から独立した立場から原子力業界を批判している。

概要 [編集]
1975年9月、高木仁三郎が設立。1999年9月に特定非営利活動法人化。

原子力業界から独立した立場で、調査・研究などを行っている。また、公開研究会や国際会議、シンポジウム等を開催している。

2011年現在は、没した高木に代わり、山口幸夫(法政大学教授)と西尾漠、伴英幸(元事務局長)の3人が共同で代表を務める。

七つ森書館より『原子力市民年鑑』を刊行(1996年から98年までは『脱原発年鑑』)。



 高木さんは生前、原発問題がテーマの時によくテレビでお見かけした。現在共同代表のお一人である西尾さんも、岩波ジュニア新書の『新版 原発を考える50話』などを含め、数多くの原子力発電所に関する啓蒙書を書かれている。
 
 CNICはこの度の原発事故発生後、政府への申し入れや、メッセージなども発信しているが、新宿での放射線測定結果も公表している。
原子力資料情報室のサイト
 

3/21 11:30 コメント追記
屋外での測定値が高くなっています。これは雨のために普段から自然界にあるラドンの影響が出てきているためで、原発に起因するものではないと思われます。

原子力資料情報室(東京都新宿区)での放射線の測定結果

使用している機器はALOKA γSURVEY METER TSC-171
単位はマイクロシーベルト/時

2011/3/14
    事務所窓際 μSv/h
10:00 0.06-0.09
10:40 0.05-0.08
11:00 0.06-0.08
11:30 0.06-0.10
12:00 0.05-0.10

2011/3/15
08:30 0.06-0.10
09:00 0.09-0.13
09:30 0.09-0.14
10:30 0.17-0.21
11:00 0.10-0.11
11:30 0.07-0.09
12:00 0.08-0.09
13:00 0.06-0.09
13:30 0.06-0.09
16:00 0.09-0.09
16:30 0.06-0.08
17:00 0.05-0.09
17:30 0.05-0.11
18:00 0.12-0.13

以降、屋外での測定も開始
(左数値:室内、右:屋外)

2011/3/15
20:00 0.19-0.21  0.63-0.65

2011/3/16
10:00 0.06-0.08  0.10-0.12
11:00 0.05-0.08  0.09-0.10
12:00 0.07-0.09  0.10-0.11
14:00 0.06-0.07  0.06-0.11
15:00 0.07-0.08  0.10-0.11
16:00 0.07-0.08  0.10-0.11
17:00 0.07-0.08  0.10-0.11
18:00 0.08-0.11  0.10-0.11
20:00 0.06-0.07  0.09-0.10
21:00 0.07-0.08  0.09-0.10
23:00 0.07-0.09  0.09-0.11

2011/3/17
02:00 0.07-0.09  0.09-0.11
10:00 0.07-0.08
14:00 0.07-0.08  0.09-0.11
17:00 0.07-0.08  0.09-0.10
20:00 0.06-0.08  0.09-0.10
23:00 0.07-0.08

2011/3/18
10:00 0.07-0.08   0.09-0.10
12:00 0.07-0.08   0.08-0.09
15:00 0.07-0.08  0.09-0.10
19:00 0.07-0.08  0.06-0.10

2011/3/19
00:00 0.07-0.08  0.09-0.10
08:00 0.05-0.12
12:00 0.06-0.10
13:00 0.07-0.08
14:00 0.07-0.08
15:00 0.07-0.08
17:00 0.06-0.08  0.08-0.09
20:00 0.07-0.08  0.09-0.10
21:00 0.07-0.08
23:00 0.07-0.08  0.08-0.09

2011/3/20
00:00 0.07-0.08
13:00 0.05-0.07  0.08-0.09
14:30 0.07-0.08  0.09-0.10
15:30 0.07-0.08  0.09-0.10
16:30 0.07-0.08  0.09-0.10
17:30 0.07-0.08  0.09-0.10
18:00 0.07-0.08  0.09-0.10
19:00 0.07-0.08  0.09-0.10
21:30 0.07-0.08  0.08-0.09

2011/3/21
11:30 0.08-0.09  0.20-0.21
13:00 0.07-0.09  0.20-0.21
15:00 0.07-0.08  0.22-0.23
16:00 0.08-0.09  0.22-0.23



 アメリカから専門家が来たことは朗報ではあるが、被災の当事国である日本においても、原発の危険性を根気強く指摘し続け、この災害時にも市民のための有益な情報を発信してくれている組織があることは、もっと知られていいだろう。政府、東電、マスコミ、セリーグなどの組織への信頼が大きく揺らぎ憂鬱になるが、自分たちの自己防衛のため、そして心の準備と安定のために、この組織は信頼してよいような気がする。
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# by koubeinokogoto | 2011-03-21 16:22 | 原発はいらない | Comments(0)
8月17日に、小島貞二さんの著『こんな落語家(はなしか)がいた~戦中・戦後の演芸視~』を紹介した際に、小島さんが経験された「バシー海峡」での体験に関連して、レイテでお父上を亡くされた重松正一さんのサイトを紹介させてもらった。
2010年8月17日のブログ

 ちなみに、小島さんの本の引用の後で、次のように書かせてもらった。

 このバシー海峡は、「魔の海峡」、「死の海峡」などと言われ、数多くの日本兵士の命を奪っている。小島さんが命拾いをした一ヶ月後の八月十九日には、“ヒ71船団”の「玉津丸」が米軍の潜水艦スペードフィッシュの魚雷を二発受けて沈没し、5000名近くの兵士が亡くなった。
 レイテで戦死されたお父上の記録を残すために重松正一さんが開設されているHPの掲示板に、玉津丸のことを題材にしたテレビ番組が放送されるというニュースがあったので下記に引用させてもらいました。


重松さんの下記のHP内の掲示板の内容も再び引用させてもらいます。
遺誌 独立歩兵第13聯隊第3大隊レイテ戦史のHP

独歩第13聯隊聯隊本部及び第2大隊乗船の「ヒ71船団玉津丸」がバシー海峡で米潜水艦の魚雷攻撃で被弾海没、乗船将兵4,800名が瞬時にして戦死しました。一隻の輸送船海没では最大の悲惨悲劇と云われていますが、今般名古屋テレビにより 仮称「漂流兵士」タイトルで放送されます。
朝日テレビ系列の「テレメンタリー」というドキュメンタリー番組で放送、この番組は系列の24局が交代で制作するもので 未だ予定の段階ですが今のところ以下の日時で放送されます
大阪では朝日放送 9月11日(土)深夜25時30分~26時
               『9月12日 早朝1時30分』
東京では     9月13日(月)深夜26時40分~27時10分
               『9月14日 早朝2時40分』
上記以外の地域では この日時の前後になるかと思います
過去 3回取材に応じておりますが 只今関係者に広くお知らせしているところで どうぞ ご覧になってください


 テレビ朝日ホームページの「テレメンタリー」のページにも、9月13日(月)深夜2:40から放送される番組『バシー海峡~知られざる惨劇の記憶~』の案内が掲載されている。
テレビ朝日HP テレメンタリー

 お盆が過ぎ、世の中は猛暑だ台風だと慌しく9月も早や半ばになった。戦争をふり返るには“旬”を過ぎたのかもしれないが、日本人はあの戦争のことをもっと知っておく必要があると思う。ぜひ録画して見ようと思っている。ご興味のある方と私自身へのリマインダーとして書かせていただきました。
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# by koubeinokogoto | 2010-09-09 09:35 | 戦争反対 | Comments(4)
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小島貞二著『こんな落語家がいた-戦中・戦後の演芸視-』

 本書は、NHKの番組「戦場の漫才師たち~わらわし隊の戦争~」について書いた時、関連する本として紹介した。今回は「落語の本」のカテゴリーとして本書そのものを取り上げたい。ちなみに、タイトルの「落語家」には「はなしか」とルビがふってあります。

 私が最初に小島貞二さんの名を知ったのは古今亭志ん生の『びんぼう自慢』の聞書きをした人としてである。今日の噺家さんとの関係で言えば、古今亭菊之丞が子供の頃から小島さんに親しくしてもらい、落語の世界に進む際も菊之丞は小島さんに相談に行き、円菊師匠への入門を仲介してくれたのも小島さんである。また、ご長男の小島豊美さんは、あのCD-ROM『ご存知古今東西噺家紳士録』を発売しているエーピーピーカンパニーの社長さんである。

 小島貞二さんは非常にユニークな経歴をもっている。小島さんは、戦前のある時期には出羽海部屋の力士であった。安芸ノ海の付き人として、昭和14(1939)年1月場所四日目の1月15日に、あの双葉山の70連勝目を安芸ノ海が止めた歴史的な瞬間にも立ち会っている。力士から出版界に転身するのだが、そのいきさつや力士以前のことなどについて、本書では次のように記されている。

 私は兵隊検査のとき第二乙種。力士現役のときだ。
 なかなか召集は来ない。昭和十五年二月、役所勤めの父六郎が飛騨高山の勤務地で没。廃(や)めるべきチャンスだと思った。
 そんなとき、博文館の雑誌『野球界』の編集長池田恒雄さんから「ウチへ来ないか」と誘われる。時節柄、野球は敵性スポーツで、読者の関心はもっぱら国技の相撲のほうへ移っている。その相撲記者がいない。君どうだ、というのである。
 こいつはありがたい、早速首をタテに振る。
 いい忘れたが、私は田舎の中学(旧制豊橋中学、現時習館高校)を出て、漫画家に憧れ上京、川原久仁於門下となったのが昭和十二年。田河水泡門下の長谷川町子さんが、一年ほど先輩だから、ほぼ同期生。
 そのころの私は六尺、十九貫ちょいと(七二キロ)の体。漫画を描くには大きすぎる。やがて一年後、スカウトされて出羽海部屋に入ったという、少し風変わりな相撲さんであった。
(中略)
『野球界』はそろそろ『相撲界』と改題せざるを得ないときに差しかかっていた。
 古い相撲ファンの中には『国技の日本』という小型の月刊誌があったことを記憶しておられるかもしれない。『野球界』と同じ編集部内での仕事であった。その雑誌の編集長は野球専門だから相撲がわからない。
 「君、やってくれ」と強引に仕事を押し付けられたから、そのころは大車輪、土俵上とは百八十度違う知的な重労働で、もともと細い体が五キロほど痩せて、入門前に戻ってしまった。
 いまも『野球界』(相撲界)の古い雑誌は時どき見かけるが、『国技の日本』はとんと見ない。あれば私の下手な漫画なども載っているはずだ。


 漫画家を目指し愛知豊橋から上京し、その後スカウトされて相撲の世界へ。そしてお父上の死をきっかけに、後年ベースボール・マガジン社を設立する池田恒雄さんに誘われて雑誌の相撲記者に転身、という多岐に渡る経歴を持つ小島さんだが、まだまだ先がある。時は昭和十八年、小島さん二十四歳の時に再び転機が訪れる。少し長くなるが、南方での“命拾い”体験も含めご紹介する。
 

 この年の五月場所の十日目の午後三時、突如取り組みが中止され「連合艦隊司令長官山本五十六戦死」がアナウンスされ、満員の客席がウッと息を呑む。本当は四月十八日、ブーゲンビル島の上空で、撃墜されての戦死であったのだとあとできく。
 七月、東京市が東京都となり、九月には空襲時にそなえて上野動物園で猛獣数頭が薬殺される。日独伊で同盟を結んでいたイタリアが、遂に無条件降伏する。
 以上、その年、九月までの出来事だった。
 そして九月二十三日、いよいよ我が身に火の粉がふりかかる。
「国内必勝勤労対策」というので、駅の出札係、理髪、外交員など十七職種に男子就業を禁止するという法令が出た。雑誌編集者なども当然この中に入る。私は「二十五歳未満の男」ときいていたが、記憶はあまり当てにならない。要するにクビである。いまどきの会社のリストラよりズーッと厳しい。博文館の大橋進一社長は、別れてゆく社員のために、柳橋の料亭で宴席をもうけてくれた。一龍斎貞山(六代目・桝井長四郎)が「寛永三馬術」を熱演した。
「ウチへおいでよ。井上君も一緒だからさ」
 といってくれたのは寄稿家の一人であった野球評論家の大井廣介さんだった。福岡県の飯塚に麻生鉱業があり、大井さんは社長のいとこに当たる。炭坑なら徴用は来ない。九州もいいとこだよ、という誘いがあって、十月、飯塚へ行く。
 申しわけないが、“自分史”をもう少しご辛抱していただく。
 大井さんから、
「ウチは南方でも炭坑を開発している。そっちも男の花道だよ」
 ときいていた。九州へゆくとき、作家の井上友一郎さんも一緒になった。井上さんも筆の仕事をあきらめて、炭鉱ゆきを決意したのであろう。私は吉隈炭坑、井上さんは別の鉱業所に配置され、私は南方行きを志願しておいた。
 仕事は労務係。増産のポスター描きも引き受ける。南方派遣にはマレー語が必要だというので猛勉強中に、教育召集、赤紙が来る。八十日間と日を区切った令状だ。名古屋のお城の下の中部第八部隊。砲兵部隊であった。
 折りから動員のピークのころで、私たちの兵舎にもドーッと応召兵が入ってきて、寝るところを占領しておいて、そのうちにサーッと出発してゆく。まだ寒いのに夏向きの軍装から南方往きを思わせた。その繰り返しのうちに、八十日がアッという間に過ぎ、帰された。おそらく南方に砲兵はお呼びでなかったのだろう。
 帰されるのを待っていたかのように、社命で南方派遣が出る。任務先はインドネシアのセレベス島(現・スラウェシ島)。ボルネオ島の東にある「Kの字」形をした島で、麻生が開発した鉱業所がある、そこへ行けというのだ。
 向こうでつけていた日記は、帰るときすべて取り上げられたので何もないが、記憶は残る。佐世保港から君川丸という徴用客船(約一万トン)に乗せられ、出航したのは昭和十九年七月十一日だった。
 東支那海へ出ると、あちこちから船が集まり、たちまち大船団となる。航空母艦もいる。心強い。日本海軍は健在なりを思う。
 健在が一瞬、恐怖に変わったのは七月十八日。命拾いしたあと、船中で見たガリ版刷りのニュースで、「東条内閣総辞職」を知った日であったから忘れ得ない。
 命拾いとは、「そろそろバシー海峡だよ」と聞いたその日の夕刻、私はトイレのため甲板に上がり、用足しのついてに深呼吸をした。船内はすし詰めで息苦しい。トイレは甲板の脇に間に合わせのように設けられ、風の強い日など大も小も甲板に舞う。
「きょうは臭い日だね」が会話のひとつになっていた。
 深呼吸の瞬間、「取り舵一杯!」の絶叫に続いて、船はギシギシ音を立てて左に廻る。その鼻っ先を、おそらく十メートルもないほどの距離を、魚雷が右に走ってゆく。間髪を入れずに、我がほうの艦載機が飛び、駆逐艦が走り、爆雷投下。幸い船団のどの船も無事であったようだ。火柱はどこにもない。
 おそらく東條内閣崩壊の日を狙っての攻撃であったろう。ことらの防御もそれだけに万全であったのだろう。
 大岡昇平の『俘虜記』によると、彼も同じころ、同じ海を渡っている。「サイパン陥落」の報をきいた三日後、バシー海峡で日進丸が魚雷を受け沈む。生存者約七百名を傍船が収容するとある。私たちよりひと足早い船団であったろう。
「南方へ死ににゆく」が実感となる。


 このバシー海峡は、「魔の海峡」、「死の海峡」などと言われ、数多くの日本兵士の命を奪っている。小島さんが命拾いをした一ヶ月後の八月十九日には、“ヒ71船団”の「玉津丸」が米軍の潜水艦スペードフィッシュの魚雷を二発受けて沈没し、5000名近くの兵士が亡くなった。
 レイテで戦死されたお父上の記録を残すために重松正一さんが開設されているHPの掲示板に、玉津丸のことを題材にしたテレビ番組が放送されるというニュースがあったので下記に引用させてもらいました。
遺誌 独立歩兵第13聯隊第3大隊レイテ戦史のHP

独歩第13聯隊聯隊本部及び第2大隊乗船の「ヒ71船団玉津丸」がバシー海峡で米潜水艦の魚雷攻撃で被弾海没、乗船将兵4,800名が瞬時にして戦死しました。一隻の輸送船海没では最大の悲惨悲劇と云われていますが、今般名古屋テレビにより 仮称「漂流兵士」タイトルで放送されます。
朝日テレビ系列の「テレメンタリー」というドキュメンタリー番組で放送、この番組は系列の24局が交代で制作するもので 未だ予定の段階ですが今のところ以下の日時で放送されます
大阪では朝日放送 9月11日(土)深夜25時30分~26時
               『9月12日 早朝1時30分』
東京では     9月13日(月)深夜26時40分~27時10分
               『9月14日 早朝2時40分』
上記以外の地域では この日時の前後になるかと思います
過去 3回取材に応じておりますが 只今関係者に広くお知らせしているところで どうぞ ご覧になってください


 
 本書には、そのタイトルの通り、戦中・戦後の噺家さんや芸人さんのことが数多く書かれている。だから、もちろん“芸能史”としても貴重な本である。しかし、あらためて読み返してみて、小島さんが一番書きたかったことは、実は“自分史”と、それを通じた反戦の主張ではなかったかと思うのだ。
 無防備ともいえるスシ詰め状態の日本船がバシー海峡を通過するたびに、米軍にことごとく沈没させられて多数の尊い命が失われた。こういった事実を知らないままに戦争のことを語ることは難しい。そういう戦争の酷さを知るきっかけを本書は与えてくれる。ミス・ワカナだって、ある意味では“戦死”と考えられなくもない。

 小島さん自らの体験を含む戦争の歴史を語り残した本書は、“お笑い”を題材とする“戦史”としての異彩を放っていると思う。
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# by koubeinokogoto | 2010-08-17 08:37 | 戦争反対 | Comments(2)
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写真はNHKのホームページにある、“夏の「戦争と平和」関連番組”の同番組紹介ページからの借用。
NHKのHP内 “夏の「戦争と平和」関連番組”
この時期に戦争にまつわる番組が多くなるのは、それはそれで悪くないとは思うが、毎年似たような番組ばかりで閉口することもある。
しかし、8月11日のNHK(総合)のこの番組は、寄席・演芸の“お笑い”の切り口から、あの愚かな、そして二度と繰り返してはいけない戦争をテーマにした好企画だった。
この番組を見ながら、「わらわし隊」を含め、戦中・戦後のことを落語を中心に芸能分野から振り返った名著、小島貞二さんの『こんな落語家(はなしか)がいた-戦中・戦後の演芸視-』(うなぎ書房)を思い出した。
小島貞二 『こんな落語家(はなしか)がいた-戦中・戦後の演芸視-』
この本は2003年8月発行だが、6月に84歳で亡くなった小島さんの遺著となった。まさに「語り残したい」という思いの溢れた本である。番組と関連する部分を引用したい。

 戦時中、日本軍は“皇軍”と呼ばれた。
外地にいるその皇軍のため内地から駆り出された「演芸慰問団」の数は大変なものだった。芸能人と呼ばれる人で行かなかった人はいないといわれたほどに、みんな出かけている。
 因みに昭和十三年四月から十六年八月にかけて外地に行った慰問団の資料がある。
 陸軍恤兵部派遣が満州に21団、166人、970日。北支に38団、435人、1594日。中支に43団、382人、2182日。南支に20団、197人、1160日。計122団、1180人、のべ5906日。
 このほか各府県派遣が満州に45団、405人、2525日。北支に72団、647人、3026日、中支に66団、609人、2831日。南支に54団、422人、2010日。計237団、2083人、のべ10392日。
 おどろくべき数字といえる。


 あの戦争が日中戦争からの一連のものであり、慰問団もそういった時期に合わせて行動していることがわかる。しかし、「おどろくべき数字」という表現を超える、なんともすごい数の慰問があったものだ。
 さて、この本から“わらわし隊”のことも少し引用。

 昭和十三年に朝日新聞と吉本がタイアップして「わらわし隊」という慰問団を結成した。当時、陸軍の飛行隊は「陸の荒鷲隊」、海軍は「海の荒鷲隊」と呼ばれ、時代の花形であった。それを「笑鷲隊」とモジったネーミングで洒落ていた。命名は吉本の長沖一(漫才作家)と伝わる。


 NHKの番組では、この慰問団のこと、そして慰問団「わらわし隊」のスーパースターであったミス・ワカナのことを、生き残られた数少ない当時の兵士の方々への取材で振り返るとともに、芸能人からは、今年で83歳になる喜味こいしさん、そして共に今年90歳になる森光子さん、玉川スミさんが当時の回想を貴重な映像として残してくれた。
 喜味こいしさんは当時を振り返り、有無を言わせず慰問団に順番に派遣されていく先輩達の顔を見ると、「これが最後か・・・・・・」という万感の思いだった、と語る。
 玉川スミさんが、いまだに艶やかな舞台を勤めた後で、たぶん滅多に口にされないはずの、残酷な戦争という名の殺人シーンを回顧された言葉は、胸に重く突き刺さる。
 そして、ミス・ワカナに可愛がってもらい、舞台『おもろい女』でワカナを演じた森光子さん。正直な感想として、この番組を見ながら、「森さんの遺言か・・・・・・」という思いが募った。彼女が語る戦争体験とワカナへの思慕、結果として伝わる強烈な反戦の主張。演技ではない、人間“森光子”として語り残したいことを振り絞っている、という印象を強く受けた。

 ミス・ワカナは、番組でも紹介されていたが「ヒロポン中毒」で若くして世を去っている。再び、小島貞二さんの本から引用。

 「ヒロポン」というのも、戦中戦後の芸能界をゆさぶった。
 上方漫才の生き字引だった吉田留三郎さん(演芸評論家)にきいたところによると、初見は昭和十六、十七年ごろ。所は松島の八千代座。初代のミス・ワカナ(玉松一郎とコンビ)が、強行軍の巡業を終えて、グロッキーの状態で楽屋入りしたものの、とても高座はつとまりそうもない。支配人は医者よ薬よと大あわて。
 と、そこへ現れたのが陸軍の軍医大尉。ちょうど休暇の帰省中で、支配人の顔見知りだったらしい。一発ブスっと射ったところ、ワカナは生気はつらつ、体の疲れも頭のモヤモヤも吹っ飛んで、元気に高座をつとめた。
「この薬は眠気さましにもきくが、一刻を争う戦争に対し、一時的にエネルギーを集中出来る」という軍医の説明をきき、「兵隊の薬」は大したもんだと、吉田さんは驚いたという。どうやらこれが芸能界における「ヒロポン事始め」らしい。
 結局、ワカナは戦後間もなくの昭和二十一年十月十四日、三十六歳の若さで亡くなったがはっきりとヒロポン中毒であった。天才といえる稀有の才能の持ち主だっただけに惜しまれた。


 ワカナも、数多くの悲惨な現場を見たことだろう。たしかにヒロポンは、当時超売れっ子の彼女が激増する仕事をこなすための「魔法の薬」だったかもしれない。しかし、中毒になった場合の危険性を、ワカナがまったく知らなかったとは思えない。邪推であるが、私には、ワカナはヒロポンを服用することによる自殺であったのではないだろうか、と思うのだ。なぜなら、彼女が戦地で笑わせてきた兵士の多くが、ワカナの漫才で最後に腹を抱えて笑ったことを思い出として、死の戦場に戻って行ったのである。

 小島貞二さんも森光子さんや玉川スミさんとほぼ同年齢だったが、小島さん自身は終戦(敗戦)を南方の島で迎えている。思い出とともに、芸能に携わった一人としての反戦への思いをこの本に残したかったに違いない。

 森光子さん、玉川スミさん、そして喜味こいしさんには、まだまだあの戦争のことを語り残していただきたい。「敗戦」を「終戦」に言い換える誤魔化しに加え、時の流れは確実に「この前の戦争」を風化させていくのだから。

p.s.
さっそく、NHKは再放送をするようです。8月13日の夜(厳密には14日)24:15~です。
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# by koubeinokogoto | 2010-08-11 23:36 | 戦争反対 | Comments(2)

人間らしく生きることを阻害するものに反対します。


by 小言幸兵衛