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幸兵衛の小言

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間一髪、“シェルブールの核の傘?” (広瀬隆著『東京に原発を!』より)

原発については、稼動している発電所の危険性のみならず、発電後の放射性廃棄物の問題もある。その燃料廃棄物を再処理して、ウランとプルトニウムを取り出して再利用しようというのが「プルサーマル」なのだが、日本が多額のコストを支払って再処理を委託しているのが、イギリスとフランス。では、その再処理工場がどれほど危険で、またコストが莫大かについて広瀬隆著『東京に原発を!』から紹介したい。まずは、危険な実態から。フランスでは、とんでもない大災害が起こりかねなかったのだ。

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広瀬隆著『東京に原発を!』

シェルブールの停電事故
 1980年4月15日の早朝に、恐怖の事故がフランスで起こった。
 パリから直線にして300キロ、山あいの遠い道のりを経て、ノルマンディー半島の先端まで出ると英仏海峡がある。ここの、シェルブールの港が寂しくたたずんでいる。映画『シェルブールの雨傘』の舞台として描かれた昔の時代ではなく、朝八時半にもなると、人びとは出勤時間を迎え、店舗や工場へ出た。 なかでも、シェルブール港近くにあるひとつの工場は、さまざまな近代装置を揃えた巨大プラントだという噂だった。工場はすでに機械の運転準備を進め、あと十分後にはプルトニウムを大量に処理しはじめようという時刻を迎えていた。この工場こそ、ほとんど全世界の原子力発電所で発電用に使われ、死の灰の塊と変った燃料を一手に引き受ける、恐怖のラ・アーグ再処理工場である。恐怖・・・・・・それは巨大原子炉の大事故、チャイナ・シンドロームさえ、足もとにもおよばないおそろしさ、すでにこの工場が抱えこんでしまった死の灰は、それが外にあふれ出たなら、この惑星の全生命が一瞬にして静止するであろう。
 (中 略)
 その朝の時刻に、いきなり工場の電気がパタリと止まった。一斉に、すべての電気が切れたのである。工場内に、血の凍るような戦慄が走った。
 それはただの停電と呼ぶべきものではなかった。モーターの音が切れ、ポンプの回転を止め、ファンがゆっくり静止すると、電灯のあかりもなくなった建物は浅い静寂のなかに置かれてしまった。
 だがこの静寂は、人のまわりに観察された現象だ。
 高レベルの廃液は、ポンプで送り出される水によって冷却されていた。そのポンプが回転を止めると、廃液が自分で音を立てはじめた。液体のなかから湧き出てくる熱がどこへも伝えられず、次第に内部にこもってくる。
 この電源は、フランス全土に向けた高圧送電線のネットワークから送られていたもので、ちょうどこの工場に向かう一本に故障が起こった。しかしこのような事態は、当然予想されていた。
 主電源が切れると、ただちに電源スイッチが切り替えられ、非常時のために用意されていた自家発電が、轟然と音を立てて回りはじめた。工場のなかに灯りがともり、すべての機械が回復すると、モーターが再びうなり出し、ポンプが大量の水を送りはじめ、ファンが回り出した。
 高レベルの廃液は、早くもすでに冷却され、表面から立ちのぼる爆発性のガスがファンで外へ送り出された。工場内に走った緊張は、一瞬のうちに解かれたのである。
 そうこうするうちに、故障を起こした主電源もようやく修理が終り、もと通り、こちらが再び電気を送りはじめた。もはや、心配することは何もなかった。しかし、あろうことか、この修理が予期せぬ事態を招いたのである。
 主電源が回復したのに、自家発電機のスイッチを切らなかった。
 自家発電機は相変わらず轟然たる音をたて、工場に電気を送り続けていた。その同じ回路に、もうひとつ、主電源からの電気が流れ込めば、どのような結果が引き起こされよう。あってはならないことだった。巨大な電圧が両方からドッと作用した。
 その結果、主電源のトランスが破壊され、おそろしい電圧を受け止めきれずに工場じゅうのあちこちで猛烈な火花が散ると、やがてその部分が火を噴きはじめ、遂に末期的な事態が襲いかかってきた。実際、電気の流れが至るところで切断されてしまったのである。
 そのため、自家発電機も完全にストップした。ラ・アーグ再処理工場は、このふたつ以外にお電気を送り込む術を持っていなかったが、そのふたつが同時に破壊されてしまった。
 すでにこのとき、全世界破滅の時限爆弾は秒読みに入っていた。


 自家発電機のスイッチを切らなかったのは、人為的なミス、と指摘する人もいるだろう。しかし、人為的なミスはゼロにはできないし、このような恐怖の巨大システムには、そういったミスをもカバーする安全装置があるべきなのだ。結果としていくつもの“僥倖”が重なり合って最悪の事態は免れたのだが、その僥倖を紹介する。
 

 しかしわれわれは、まだ生きている。読者は健在だ。
 この工場火災は、危機一髪のところで大惨事(カタストロフィー)を免れたのである。
 不幸中の幸い、というべきことが三つあった。第一に、この工場から20キロという近い距離にフランス軍の兵器庫があり、偶然にも、そこに緊急発電装置があった。これを自動車に積み込んで工場まで運び、息せいて配線し終えたとき、まだ悪夢は起こっていなかったのである。それから一時間後には、廃液タンクの冷却が再びはじまり、沸騰していた溶液を辛うじてもとのように静まらせることができたのである。偶然の発電機の存在による幸運があった。
 第二に、この4月15日は、春の季節を迎えていた。名画『シェルノブールの雨傘』のもの悲しいラスト・シーンをご記憶の方は、このノルマンディー地方が冬には深い雪に覆われ、かじけるような寒さに見舞われることに思い当たるだろう。実際、二月でもあれば、人びとは冬着に身を包み、自動車で町を往還する。その自動車が山あいの道を楽に走れるようになるのは、ようやく雪が消え、春を迎えた四月のことである。この火災が、二月の厳冬期に起こっていたなら、トラックが山間の雪道を走りぬいて兵器庫から発電機を運び込むのに、どれほど手間どったか・・・・・・あるいは、到着しなかったのではないか、と報じられている。春四月の幸運だった。
 第三に、停電が起こったのは、午前8時30分ごろだった。プルトニウムを処理する作業がちょうど準備中で、いよいよこれから危険な作業をはじめようという矢先の出来事だったのである。プルトニウムの処理がスタートしていれば、この原爆材料はコンピューターで厳密にコントロールされ、細心の注意を払って、“核爆発”を起こさない状態に保たれていなければならない。コンピューター、それは電子計算機とも呼ばれるものだ。
 工場が停電に陥ったとき、この電動式の機械は完全に停止していた。あと10分後に予定されていたプルトニウム処理がはじまっていれば、かなり高い確率をもって核爆発が起こっていたと推定されている。兵器庫から緊急発電機が運び込まれ、プルトニウム処理の安全装置に電気が流れはじめたのは、ようやく三時間後のことだった。用意されていた当日のプルトニウムの処理量は30キログラムに達していたが、それは、長崎に投下された原爆をはるかにしのぐ量である。原爆一個つくるのには、4キログラムあれば充分だという。


 これだけの大惨事への“ニアミス”があったにもかかわらず、当時も今も、この事故のことに関する報道は皆無に近いほど少ない。なぜか・・・・・・。
 

 これほど大変な事故が起きかけたというのに、それを知っている人は、全世界でも数少ない。これは、火災発生と同時に、フランスの大統領ジスカールデスタンが完全な報道管制を命じたからである。わが国で「あわや大事故」と報じた毎日新聞の日付が、火災から二ヵ月も後の6月11日である。さまざまな民間情報から、ようやく事件の全貌がわかってきたのである。
 しかしわが国の原子力産業は、このような人類史上の大事件をほとんど報じていない。飛行機のニアミスがあれば、プロレス新聞まがいの見出しが社会面を飾るが、原子力の危険性は故意に隠されているのではないか。東海村の再処理工場がラ・アーグ工場をモデルに設計されているので、そのような事件が世間に伝われば、大問題となる。加えて、東海村を桁違いに大きくした第二歳処理工場がすでに計画されているこの時点で、ラ・アーグの事件はあまりに「まずい」のだ。


 現在、東海村での再処理は行っていない。それは、青森県の六ヶ所村に新たな再処理工場を建設する予定だったからだが、六ヶ所での実態は次の通りである。(Wikipediaより)

 日本全国の原子力発電所で燃やされた使用済み核燃料を集め、その中から核燃料のウランとプルトニウムを取り出す再処理工場である。最大処理能力はウラン800トン/年、使用済燃料貯蔵容量はウラン3,000トン。2010年の本格稼動を予定して、現在はアクティブ試験という試運転を行っている。試運転の終了は当初2009年2月を予定していた。しかし、相次ぐトラブルのため終了は2010年10月まで延期されることが発表されていたが、2010年9月になってから、さらに完成まで2年延期されることが発表された。完成までの延期はこれまでに18回にも及ぶ。これら延期のため、当初発表されていた建設費用は7600億円だったものが、2011年2月現在で2兆1930億円と約2.8倍以上にも膨らんでいる。


 1988年10月28日の「朝まで生テレビ」の原発推進派の一人して参加していた橋本寿(当時は、六ヶ所村 原子燃料施設 対策協議会会長)は、その後六ヶ所村村長となった。しかし、彼は2002年の5月に自殺した。デーリー東北新聞社の該当記事

 六ケ所村発注の無線放送施設工事の指名競争入札をめぐり、電気工事業者からわいろを受け取った疑惑で、青森県警捜査二課と十和田署による任意の事情聴取を受けていた橋本寿六ケ所村長(54)=同村平沼追舘=が十八日朝、自宅から約三キロ離れた山林内で首つり自殺しているのが発見された。十六日から二日間連続で長時間の聴取が行われ、同日も予定されていた。県警では収賄容疑の立件を突破口に、原子力関連交付金などで肥大した村が抱える「利権の暗部」も捜査の視野に入れていたが、村長の自殺で疑惑解明は絶望的となった。


 あえて死者に鞭打つようなことを書くが、漁業や自然環境を犠牲にして原発や再処理工場などの開発が進めば、大金が動き、そこに“悪代官”と“越後屋”が存在するのは、歴史の常。橋本寿という男が、あの日のテレビ朝日のスタジオで、加納時男達と同じ側に座った動機が何か察するのは、それ程難しいことではない。

 結局、再処理はフランスとイギリス頼みとなっているが、どちらの国の再処理作業も、決して“順調”とは言えない。ところが、再処理作業をしなくても、日本はこの両国に莫大な費用を我々の税金から支払っている。そのことについては、別途書きたい。

 いずれにしても、幸運というよりは僥倖が三つ重なっていなければ、1980年4月15日にシェルブールの上空には、雨傘ならぬ「核の傘」がさす状況だった。映画「シェルブールの雨傘」で、恋人ジュヌヴィエーヴとギーの仲を割いたのはアルジェリア独立戦争だった。ラ・アーグで、もし三つの僥倖がなければ、恋人たちを含む数多くの人命を奪っていたであろう原因は、決して戦争ではなく、“人類の愚かさ”としか言いようがない。
 そして、こういった世界的な“恐怖の核連鎖”という舞台で重要な役者の一人であった日本には、、フクシマの後でさえ、日本がその舞台から降りることを阻む愚かな政治家たちがいる。彼らには、放射能の雨が降っても、「ただちに危険なことはない」のだから雨傘をささないでいただきたいものだが、真っ先に傘をさすのが、きっと彼らなのである。
Commented by 佐平次 at 2011-05-07 10:20 x
とりあえず浜岡がストップされましたが、長崎原爆4000発を超えるプルトニュームを抱えこんだ日本の核開発は止まっていません。
どんなに高い防壁を作っても人間が起こすミスは防げないし、原子力に限ってはミスは僥倖に頼ることなしに回復できないのにねえ。

Commented by 小言幸兵衛 at 2011-05-07 10:30 x
おっしゃる通りです。
ブログのカテゴリー名を佐平次さんと同じ「原発はいらない」にさせていただきました。
借用料は後日支払わせていただきます^^

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by koubeinokogoto | 2011-05-06 11:39 | 原発はいらない | Comments(2)

人間らしく生きることを阻害するものに反対します。


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