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「我が国」という発想(高木仁三郎著『原発事故はなぜくりかえすのか』より

高木仁三郎著『原発事故はなぜくりかえすのか』(岩波新書、2000年12月第1刷発行)の第2章「押しつけられた運命共同体」から引用。原子力村に蔓延している、ある“病(やまい)”について、エピソードも交えて指摘している部分。高木仁三郎著『原発事故はなぜくりかえすのか』
「我が国」という発想
 私はよく外国のメディアからインタビューを受けることがあります。外国のメディアが日本の原子力問題を扱うのは、実際に事故があったときはもちろん、あるいはプルトニウムの輸送があったときなど、いわば国際性があるような事件が起きたときです。
 外国メディアはたいていまず日本の推進機関、原子力産業会議であるとか、原子力安全委員会であるとか、動燃や原子力委員会、科学技術庁や通産省、あるいは東京電力や関西電力など、そういうところに行って、そのあとで私のところに意見を聞きにきます。そのときに逆に私のほうから彼らに、原子力委員会や動燃に行ってどうだったか、通産省ではどう言っていたのか、科学技術庁に行って違いがあったのか、あるいは電力会社はまたちょっと違う意見だったのか、などと尋ねると、彼らは一様に、日本の原子力推進機関はまったくおもしろくも何ともない、皆同じことしか言わないと答えるのです。日本の原子力は安全ですとか、日本政府の指導に従って国際的な核拡散にも注意して安全にやっておりますとか、そんな公式見解しか言わないから、全然おもしろくない。どこへ行っても同じことしか言わない。かえって私などに、通産省と科学技術庁はどう違うのかとか、動燃ならばだれに聞いたら少しは違った回答が出てくるのか、いろいろ聞いてきます。もちろん私はそれに答える立場にはないわけですけれども、彼らに私が自分で考えた意見を言うと、自分の意見を自由に言うのは日本に来てお前に会って初めてだと言われるのですね。


 “原子力村”に住む人たちが、いかに生きている人間ではなく、「丸太ん棒」ばかりか、ということだ。この後、高木さんは、次のように問題を指摘する。
 

 原子力はどうしてそんなふうになってしまっているのだろうかとよく考えます。私に言わせれば、末端と言うと語弊がありますが、別に国家の責任を背負っているわけではないはずの人までが、国家を背負っているような立場に置かれてしまっていることが問題です。


 高木さんは、原子力産業側で雑誌などに書かれた記事を少し調べたところ、執筆者が研究員レベルの人も含めてほとんどの内容が、「我が国における電力事業は」とか、「我が国の需給の状況を見ると」などというように、常に「我が国」ではこうなっている、という調子で始まっているというのだ。そこには、「私の研究においては」とか、「私の見解は」などの「私」が入り込まない世界があるわけだ。
 そして、「我が国」シンドロームとも言うべき“原発村民意識”が、笑い話のような事態を招くことがあるという事例が紹介される。「マイ・カントリー」という見出しの部分で書かれた逸話である。
 

 ここで一つだけちょっとしたエピソードを紹介しておきます。この「我が国」という言葉ですけれども、英語で言うと、そのまま訳せばマイ・カントリーとなるわけですが、ふつう英語で技術論文を書く場合にマイ・カントリーとは書かないでしょう。日本だったらジャパンと書くでしょう。ところがおもしろい経験があります。1995年ころに、ジュネーブでUNIDIR(国連軍縮研究所)とNGOが共同で主催して、プルトニウムのカットオフ(生産削減)の問題で国際協定を早く結ぼうと国際会議を開いたことがありました。私も招待されて行って、そこでほかの人と一緒に日本のプルトニウム政策の話をしました。
 そこには日本の大使館からもOという名の外交官が来ていました。日本のプルトニウム政策というのは、あまりにも大量のプルトニウムを分離して突出しているので、海外から相当批判が集まって、釈明が求められました。ところが、日本の外交官は釈明を求められても、まず自分で答えられない。ちょっと待ってくれ、本国の見解を聞くからということで、その日は答えられず、次の日に答えました。答えといっても、いつも私たちが日本の政府に聴かされているような日本の公式見解、すなわち、余剰のプルトニウムは持たないことにしていますという程度の答えだったので、わざわざ本国に問い直すことなどしなくても、その外交官がちょっと勉強していれば容易に答えられたことだったのですが、あまり勉強していないのですね。それはいいのですけれど、そのときに彼は、日本の政策は余剰のプルトニウムを持たないlことにしているということを言うのに、「マイ・カントリーズ・オフィシャル・ポリシー・イズ・ノット・ポゼス・エニイ・プルトニウム・サープラス(My Country's official policy is not possess any plutonium surplus.)」という、たしかそんな言い方をしたのです。そこでマイ・カントリーという言葉を使ったのです。
 文字どおり「我が国の」なんですね。これには私は笑ってしまいました。私だけではなくて、私のまわりのアメリカ人やフランス人、イギリス人、ドイツ人のNGOの連中なども思わず苦笑していました。ああいうときにはマイ・カントリーとは、ふつう外交官も含めて言わないと思うのです。ジャパンと言うと思います。それほどに「我が国の」という意識が彼らの頭にはこびりついてしまっていて、それをまたマイ・カントリーと訳すのです。私はせめてアワー・カントリーというように訳すのかなと思っていたのですが、マイ・カントリーと訳すので、王様が「自分の国のことを言っているようで、ちょっとおかしい気がしました。でも、公式な外交官の発言だから間違いではないのでしょう。
 それはともかくとして、その後、私は注意をして聞くようにしていますが、クリントン大統領でもアメリカのことを言うときには、ジス・カントリーという言い方をします。あるいは、時にはアワー・カントリーという言い方をすることもあるのかもしれないけれども、マイ・ネーションとか、マイ・カントリーという言い方はしません。


 「私」を棚に上げて、「我が国」と誰もが口にすることで、結果として誰も責任を取らない構造が、この逸話からうかがえる。「国」策なのだから、「私」が悪いわけではない、という精神病理とも言えるだろう。要するに、村民それぞれの「私」として何らかの見解や批判めいたことを口にすることができない、そういった閉鎖的なムラが原子力村なのである。そして、高木さんが指摘するように、誰もが「我が国」を意識して語らなくてはならない、この構造こそが現在の悲劇につながる問題を内包している。
 多様な「私」の意見を交わした結果として「我が国」の方針なり戦略なりが出来上がるプロセスを踏まず、まずもって「原発は国策」から始まった不幸が、“タブー”過多の前時代的な原子力村を生き残らせてきたとも言えるだろう。

 この本の第1章で高木さんが指摘している、「議論なし、批判なし、思想なし」の“三ない主義”については、落語愛好家仲間の佐平次さんのブログで取り上げているので、ぜひご確認願いたい。佐平次さんの4月20日のブログ

 科学的な積み上げも事前の議論もほとんどなく、政治の独走で予算化され既定路線として進められた日本の“原子力の平和利用”。その推進派の内部にいる政官財学&マスコミの原子力村の住民は、その利害関係でのみ結託していたのかと思ったが、「我が国症候群」という同じ病でもつながっていた。そして、フクシマに関しては「我が国」の国民の莫大な血税が費やされることになった。原子力村の暴走を過去に阻めなかった国民は、その報いとして税金で償わなければならないのだ。もちろん、原発近隣の住民の方々は、それ以上の困窮に陥っている。
 それでは、原発を推進してきた彼らは、どう償うのか。もし、「丸太ん棒」から、少しは赤い血の通う生身の人間に戻る気があるのなら、まず最初にすべきなのは、高木さんの墓前に頭を垂れることではないだろうか。
Commented by 佐平次 at 2011-05-12 09:19 x
「主語が無い」ことは森達也、辺見庸なども書いていますね。
私なども社会人になって「わが社では」なんて雑談で先輩たちが言うのを聞き自分もまねして大人の仲間になったような気がしたものです^^。

Commented by ゆきりん at 2011-05-12 10:00 x
でも高木さんのお墓は無いのです。生前
「墓なんぞいらん」と遺言して自然葬に
なりました。遺灰が群馬・赤城山に
撒かれたそうです。
事態が収束した後で報告に行けるような場所が
あればいいのですが。

Commented by 小言幸兵衛 at 2011-05-12 10:08 x
確かに、「我が社は」と、言いますね^^
マイ・カントリーには、笑いました。「王様か!?」と突っ込みたくなる。
「公私混同」と言いますが、原発推進派は、「国策」と書かれた“錦の御旗”を背負って、「何か文句ある?」と常に威張っている印象です。

Commented by 小言幸兵衛 at 2011-05-12 10:12 x
コメントありがとうございます。
そうでした、赤城山でしたね。
原発推進派は、どこで懺悔させようかなぁ・・・・・・。
そして、我々は、心の中で高木さんへの感謝と祈りを捧げる、ということなのでしょうか。
少し落ち着いたら、赤城山に登ってみてもいいですね。

Commented by 川嶋信雄 at 2011-05-12 10:49 x
人を単純に左右に分けてはいけないんでしょうが、どうも原発推進といわゆる右傾の人たちが重なっているように思います。なぜなんでしょうか?核兵器を持ちたいということと一緒の発想なんでしょうか。原発問題の世論がイラク戦争の時と全く同じように感じます。

Commented by 小言幸兵衛 at 2011-05-12 13:14 x
たしかに、カブリますね。
「国策」という“錦の御旗”を振り回す点、そして、自分たちの仲間以外の人や意見を認めず、場合によっては攻撃するところなど、でしょうか。
核兵器までの意識があるようには思えないのですが、あえて二択で聞いたら、持つことに肯定的かもしれません。
困った人たちには違いない。

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by koubeinokogoto | 2011-05-11 16:39 | 原発はいらない | Comments(6)

人間らしく生きることを阻害するものに反対します。


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