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幸兵衛の小言

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フクシマへの前兆は、たくさんあった!(鎌田慧著『原発列島を行く』より)

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鎌田慧著『原発列島を行く』

 著者の鎌田慧さんは昭和13(1938)年生まれ。高木仁三郎さん、そして余談だが、古今亭志ん朝と同じ年だ。青森に生まれ大学卒業後、新聞記者や雑誌編集者などを経てフリーのルポライターとなり、『自動車絶望工場』は名著として有名。本書は、2001年11月に第1刷が発行され、先月重版(第3刷)された。全国の原発建設地をルポし、“足で書かれた”優れた著作。
 
 福島第一原発は、今年で稼動40年という老朽化した原発。そして、その原子炉は、最近よく耳にするようになったが、「マーク1(ワン)」型と言って、原子炉の構造に問題があったことがGEの元設計者からも指摘されていた。福島第一原発は1号機から5号機までがこの問題のある原始炉である。もちろん、老朽化かつ構造欠陥ということは、現場作業員の方の被曝量にも影響する。少し長くなるが、本書の「第14章 矛盾噴き出す原発銀座の未来」から引用する。

「もう二十年になりますか」
 事務所で出迎えた石丸小四郎さん(58歳)にいわれて、後ろめたい思いがした。富岡町と楢葉町とをむすぶ海岸に建設された、「第二原発」の取材にきてから、もう20年も顔をだしてなかったのかと、わたしは、引け目を感じさせられた。
 厳密にいえば、まだ四基同時に建設工事がすすめられていたころで、わたしは原発予定地のすぐそばの500メートルと離れていない富岡町毛萱部落を歩きまわっていた。
 そのとき出会ったある老人の日記には、「1967年12月12日、南双地区開発のための、大工場を誘致するので実地検分したい、と楢葉町の助役と総務課長、書記など4人が、ジープで乗りつけた」と書きつけられたいた。
 町の幹部たちは、原発がくる、とはいわなかった。「大工場」という触れこみだったのだ。しれが第二原発のはじまりだった。
 そこからすこし北上した大熊町と双葉町では、東京電力(東電)の第一原発六基のうち、1号炉の建設がはじまっていた。
 1.話し合いには絶対に応じないこと
 1.だんまり戦術により多忙な様に仕事する
 1.印は絶対に押さないこと
 「部落一致団結して堅く三原則を守り勝ち抜く」。それが「毛萱原発反対委員会」の申し合わせである。33年前の孤立した闘いだった。異例なことというべきか、部落総会に木村守江知事(当時)までやってきた。のちに収賄容疑で逮捕、実刑になった権力者だった。
 わたしは、新聞の折り込み広告の裏に書かれた、老人の膨大なメモをみせていただいて、ひとたまりもなく押しつぶされたこの運動の悲しさを知った。「どうせ駄目ならみんなで謝るべ」。それが集落を分裂させないための最後の方策だった。
 JR常磐線富岡駅から歩いて10分ほどの毛萱地区は、20年前とおなじようなたたずまいだった。当時よりはたしかに家は立派になっていた。原発と鉄塔が集落の屋根のむこうに姿をあらわしていた。
 すぐそばの旅館に泊まっていたのであろう、中年男女、5、6人の観光客が、浴衣にどてらをひっかけて、道にひろがって歩いてきたのに、眼を瞠る思いにさせられた。原発地帯が観光地になっていたのだ。


 この部分では、反対運動が破れた背景について詳しくは振り返られていないが、さまざまな本で書かれていることと、ほぼ同じ手段を推進派は使ったはずだ。彼らは平気で嘘をつき、ほとんど詐欺行為に近い言動を駆使して建設予定地の住民に甘い言葉をかけ、結果として近隣住民を敵味方に分けて、最後はカネの力で多数派工作を図り、最後は「国策」という“錦の御旗”を掲げてゴリ押しするという行動を、全国で何度も展開している。
 福島第二地区で反対運動に立っていたこの老人の、「新聞の折り込み広告の裏」に残された“敗戦”の記録は、推進派の「嘘」と「欺瞞」の重要な歴史を裏付けている記録でもあるはずだ。そして、この後、鎌田さんは、建設後の悲劇を知ることになる。

突出する被曝労働者数
 石丸さんは、テープをとりだし、ラジカセにセットした。泣き声の強い口調で、
「自分で自分の身体が自由になれながった。10日も15日も苦しんで、水も飲まれながった。口の中も真っ黒になっていたんだ」
 と年輩の女性が訴えていた。
 富岡町に住んでいた、Hさんの母親の声である。99年11月上旬、当時47歳のHさんは、白血病で死亡した。わずか1カ月前の朝、疲れがひどくて、出勤したがらなかった。それでもでていったのだが、5日後、腹痛を訴えて欠勤した。
 翌日、病院へいって点滴を受けたが、動けなくなった。「急性白血病」と診断され、救急車で転院、1カ月もたたないうちに、あわただしく世を去った。妻と4人の子どもが遺された。
 それから1週間たって、石丸さんが代表をつとめる「双葉地方原発反対同盟」に、遺族が相談にやってきた。
「白血病といわれたんだけど、どう考えたらいいのか」
 富岡町の農家の長男だったHさんは、地元の高校を卒業したあと、職業訓練校にはいって溶接の技術を身につけ、各地の石油備蓄基地で、タンクの溶接作業の従事していた。中近東まで出張していた、ベテランだった。
 88年、35歳で結婚したあと、父親の酪農を手伝いながら、地元にある東電の三次下請けにはいって、原発内の溶接を担当していた。死亡するまでの11年間、福島第一、第二原発で被曝した総線量は、75ミリシーベルトだった。
 これは労働者(当時)の労災認定基準(年間5ミリシーベルトx年数)55ミリシーベルトをはるかに上まわるものだった。
 亡くなる前、Hさんの鼻孔に化膿性ぶどう球菌による腫瘍ができて壊死、呼吸が困難になっていた。口のなかまで真っ黒になっていた、水も飲めなかった、と母親が泣き声でいっていたのは、このことだったのだ。
 その録音テープには、二次下請けの労務担当と三次下請けの社長を前にして両親が交渉している様子が記録されていた。もしも労働災害保険がでなかったら、生活の面倒をみてくれるのか、との遺族の懸命の主張を受けて、会社側も資料をだして労災申請に協力した。
 被曝労働者の労災請求事件は、75年、原電敦賀原発で働いていた岩佐嘉寿幸さんが、労働基準監督署で、不支給の決定を出されたあと、大阪地裁に提訴したのがはじまりである。それ以来、全国で13件申請されたが、JCOの事故で、急性放射線症となった3人を除けば、4人しか認定されていなかった。


 Hさんは、結果として2000年10月に5人目の労災認定者となった。9年間で5人、である。そして、この労災申請者の特徴が、実は今日のフクシマにつながっていたことを本書は明らかにしてくれる。

 この5人のうち、99年10月に日立労基署(茨城県)で支給認定となった労働者も、福島原発で働いていた。不支給になったふたりの労働者も、ここで働いていたから、福島原発がとりわけ労働環境が悪かったことがわかる。
 このことについて、石丸さんは、
「福島原発が老朽化していることと原子炉の格納容器がフラスコ型で、作業スペースが狭いという問題があります。年間5ミリシーベルトを超えて働いている労働者は、全国で3967人いますが、福島原発だけで1885人と全体の47パーセント、とくに20ミリシーベルト以上の被爆者は20人います」
 という。
 労働者の労災認定基準は、年間5ミリシーベルトだが、「原子炉等規制法」の被曝限度は、年間50ミリシーベルトとなっている。日本の原発が、労働者の被曝を許容しながら運転されているのは、非人道的といってまちがいはない。


 労働者の被曝量が極端に多い老朽化した原発の問題を直視してもっと早く廃炉にしていれば、という歴史にタブーな「IF」をどうしても思い浮かべてしまう。

 いくらでもフクシマを防ぐための前兆はあったはすだ。それも被爆者がその自らの命を賭けて知らせてくれた兆候が。しかし、その実態を見て見ぬフリを決め込んだ非人道的な集団がいた。そして、彼らがこういった「犯罪」を今後も繰り返すことを、我々市民は許してはいけない。フクシマは今回の事故がなかろうと、とんでもない状況にあった。そして、今後、全国の数多くの原発が同じように老朽化への道を歩んでいく。
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by koubeinokogoto | 2011-06-03 17:48 | 原発はいらない | Comments(0)

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