幸兵衛の小言

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ソ連と日本、事故直後の対応 (七沢潔著『原発事故を問う』より)

3月下旬に1150人の福島の子ども達を調査した結果、その中の45%が甲状腺被曝していたことが分かった、と朝日新聞が昨日の一面トップで報じていた。政府担当官からは「問題ないレベル」という、いつもの信憑性のない発言。政府の事故後の災害対応のまずさによる被害以外のなにものでもない。
 
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七沢潔著『原発事故を問う』(岩波新書)
 フクシマとチェルノブイリとの被害の比較は、フクシマが未だ収束していないので、現時点でのフクシマとチェルノブイリとの比較でしかない。
 しかし、事故直後の対策に関しては、歴史的事実があるので対比して考えることはできるだろう。果たして、チェルノブイリで1986年4月26日の日が変わって間もなく1時23分に四号炉で起こった爆発の後、当時のソ連政府ではどんな対策をしたのか。七沢潔著『原発事故を問う-チェルノブイリから、もんじゅへ-』から引用したい。

待たされた1200台のバス 
 ルイシコフ・ソ連首相が、事故調査委員会の首班に指名したのは、エネルギー問題担当の副首相のボリス・シチェルビナだった。シチェルビナはルイシコフ首相から連絡を受けた時、南ウラルのオレンブルグにいたが、その日のうちにモスクワに飛び、先発した政府事故調査委員会の一行(電力電化省大臣や保健省次官、中規模機械製作省次官など)を追って、26日夕刻にはキエフに到着した。
 キエフのジウリヤヌイ空港でウクライナ共産党の幹部たちの歓迎を受けたシチェルビナは、ウクライナ共和国首相のアレクサンドル・リャシコから思わぬ報告を受ける。プリピャチ市民を避難させるために、バスの隊列をキエフから派遣したというのである。リャシコは、次のように語る。
 「シチェルビナ副首相に対し、私は当然のように、自分がした措置を伝えました。すると意外にもシチェルビナはみるみる形相を変えて烈火のごとく怒り始めました。『あなたは誰にも相談しないで何ということをしたんだ。そんなことをしたらパニックが始まるぞ。原発とは電話で連絡をとっているが、別にそこまでする危険性はない、と言っているのに』と」
 チェルノブイリ原発もプリピャチ市も、キエフを首都とするウクライナ共和国の領土にあったが、原発はソ連政府の直接管轄下にあり、事故後の連絡も、キエフ州の共産党第二書記を経由してモスクワに入っていた。地元ウクライナの行政府の長、リャシコは、事故後の情報の流れや指揮系統のなかでは、決定権を持たない政治家として重要視されていなかったのである。
 とはいえ、26日の朝、モスクワのルイシコフ・ソ連首相から一報をもらい、事故を知ったリャシコ首相は、何か自分にできることはないかと考え、ウクライナ共和国の民間防衛軍と内務省に命じて、プリピャチ市民の避難用のバスを集めたのである。
「実は、キエフでは事故の一年前に民間防衛軍による訓練をして、一つの地区の2万5千人を避難させる実地テストをしていました。事故の発生を聞いた時に、直感的にこの時の体験が活かせないかと想ったのです。しかし、その日はあいにく土曜日で、キエフ市内の路線バスを除いては、ほかの輸送手段の運転手は休んでいました。そこで警察と内務省の職員を動員して、休んでいた運転手たちを探し出したのです。午後2時半に1200台のバスと240台の自動車がそろったので、私はプリピャチに向けて出発させました」
 このリャシコ・ウクライナ共和国首相の機転も、ソ連政府事故調査委員会のシチェルビナ委員長によって一喝されてしまい、1200台ものバスの隊列は、夜にはプリピャチ市に着いたものの、町の郊外で待機する結果となった。


 少なくともキエフで避難訓練があったことが、フクシマ、そして今日の日本の原発立地地域との大きな差であろう。民間防衛軍は、あえて似た組織をイメージするなら武装化した消防団ということだろうか。
 
 政治体制、組織構造そして指揮命令系統などは違うにしても、まず“パニック”を恐れるあまり原発近隣住民の避難について後ろ向きだった点においては、菅とその側近、そしてソ連首脳の反応は似通っている。事故被害への誤った判断や楽観的な見通し、あるいは楽観的な願望はフクシマもチェルノブイリも、これまた共通しているようだ。
 さて、本書から引き続き、この後の顛末をご紹介。

「苦渋」の決断 
 シチェルビナの一行がプリピャチ市の共産党本部に着いたのは、4月26日の午後8時だった。そこにはすでに事故対策本部が設置されていた。
 シチェルビナは、先に現地入りして視察をしていた専門家や役人たちを集めて、早速報告をさせた。ソ連原子力生産公団の技師長とエネルギー技術研究所の技師が、その日の午後、損壊した原子炉の上空を民間防衛軍のヘリコプターで飛び、爆発で原子炉が破壊され、重量千トンの上部遮蔽体が横にずれて、原子炉の内部が丸見えになっているさまを確認したことを報告した。ポンプや主循環系、非常用注水系の配管も破壊され、気水分離機も補助タンクもめちゃめちゃとなり、炉心から出た黒鉛が燃え続けている・・・・・・。もはや水では消火できない。
 化学防護部隊のピカロフ司令官は、軍のヘリコプターを動員して測定活動をした結果、爆発した原子炉からのぼった放射能をふくむ蒸気が、上空で雲となって北北西へ流れ、正午には発電所から50キロ離れた地点で毎時39レントゲンが検出されていることを伝えた。
 これまで聞いていた情報とはまったく違い、事故は前例のない壊滅的な事態に進展していることは明白だった。
(中略)
 保健省の消極論に対し、物理学者たちは反対した。原子炉のなかで何が起こりつつあるか予断を許さない。核分裂反応の急増や炉心溶融などさらなる危険が襲来する可能性もある。安全第一に考えるべきだ・・・・・・。シチェルビナは決断をしかねた。避難をさせた場合、それが噂となって周辺の住民にパニックが起きないか。特にキエフの三百万人住民が集団脱出をしたらどうなるか。外国にも知られてしまい、国家の権威は失墜し、秩序は崩壊する。
 シチェルビナは、決断を翌朝の会議まで持ちこすことにした。
 シチェルビナはその後、ソ連科学アカデミー会員で、核化学者のワレリー・レガソフと、ソ連電力電化省次官ゲンナジー・シャシャーリンをともなってヘリコプターに乗り、4号炉の上空を飛んだ。黒鉛が燃え、原子炉の上部遮蔽体が灼熱して赤くなり、炉心が青い光に輝く光景は、まさに歴史的大災害のみがもつ壮絶さだった。
 レガソフはシチェルビナに、放っておけば黒鉛火災は二ヶ月も続き、そのあいだ放射能を大気中に放出し続けることを、また炉心の温度が上昇すればウラン燃料が溶融する危険性があることを説明した。そして、放射能の放出をとめ、火を消すために、ホウ素、ドロマイト、鉛などを混ぜた砂をヘリコプターで落下する作戦を提案した。シチェルビナは早速、若い空軍司令官に命じ、四千トン以上にのぼる砂の確保から始まる投下作戦を開始させた。
 そして4月27日午前7時、ソ連政府事故調査委員会は会議を再開し、ついに午前10時、プロピャチ市からの住民避難を決定した。風向が変わりつつあり市内の放射能レベルが徐々に増加していること、そして住民のうち1万7千人が子どもで、放射能のヨウ素を吸い込むことによる甲状腺への影響が懸念されることなど、危険な状況を委員会は実感し始めたのである。


 レガソフは原発推進の大物であるが、流石に優秀な科学者でもあったようだ。日本の御用学者とは、少しスケールが違いすぎて比較の対象にもならない。

 この後、チェルノブイリ近隣の町プリチャピ市民にはラウドスピーカーと有線ラジオで避難通知が出され、1200台のバスに、三日分の食料と衣類などを持参してさまざまな町に避難することになる。

 避難先においても医療検査も汚染チェックも行われなかったなどの問題はいくらでも指摘できるが、事故直後の市民への対応において、チェルノブイリ後のソ連の対応はフクシマよりは数段上回っていたと言えるように思う。
 プリチャピはチェルノブイリ原発から数キロという極めて近い町ということや、当時のソ連の政治体制があってこその対応、ということも言える。しかし、事故の翌日に実施した避難がなければ、被害がもっと拡大していたことは間違いがないだろう。

 フクシマの後で、事故の深刻性を正しく把握した科学者と政府中枢との会話は皆無だったろうし、東電における隠蔽体質を打破して事実を模索しようとする官僚もいたようには思えない。事故は初動対応が大きくその被害を左右することを考えると、チェルノブイリの対応は、決して遅かったとも言えないように思う。特にフクシマにおける政府の対応を考えると、そう思わざるを得ない。

 フクシマにおいては、残念ながらリャシコに相当する人物はいなかった。1200台のバスを調達するだけの権限を自治体の長に期待するのは、日本では難しいかもしれない。その時、正確な情報も皆無に近かっただろう。しかし、地元の自治体幹部に危機への感受性の高い人がいたのなら、別な展開もあり得たのではなかろうか。

 過去のことはもうこの位にしよう。フクシマはまだ終わっていない。
 
 いまだに「暫定」基準値を元に食品の安全性を語る政府に対し、自治体の目立った抗議の動きはない。ウクライナが現在採用している基準と日本の「暫定基準」の違いを、マスコミはほとんど取り上げない。2011年7月21日のブログ
 北海道知事は泊の稼動を認めた。まったく出来レースとしか思えない。私は北海道出身だが、この知事のことは適宜指弾していく。
 
 政府が言う「収束へのステップ」を疑い、まだ“そこにある危機”について、自治体の首長は、まだまだやるべきことがあるように思う。

 当時のウクライナ首相リャシコは、自分ができる最大限のことを考え、1200台のバスを手配した。彼は決して当時のソ連中枢にいたわけではない。このまま被災地の自治体が政府、そして原子力村の甘い言葉に惑わされないことを祈りたいが、大丈夫だろうか。彼らには県民、道民、そして市民の生命を守る責務がある。そして、ささやかなこのブログでも、ブログとしての責務があると思っている。まだ、3.11は続いている。
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by koubeinokogoto | 2011-08-19 17:32 | 原発はいらない | Comments(0)

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