幸兵衛の小言

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大江健三郎の真っ当な“感性”と、政治家達の前のめりの“慣性”

パリで開催された書籍展において、大江健三郎が、非常に明確な脱(反)原発論を披露したようだ。時事ドットコムの該当ページ

原子炉「二度と稼働させるな」=書籍展で大江氏講演−パリ

【パリ時事】ノーベル文学賞作家の大江健三郎氏が18日、パリの見本市会場で開催中のフランス最大の書籍展「サロン・デュ・リーブル」で講演し、東京電力福島第1原発事故後に停止された原子炉を「二度と稼働させないようあらゆる手段を尽くすことが、私たちが破滅を免れ、生きていくための唯一の手段だ」と訴えた。
 大江氏は「次の原発が破裂すれば日本人は生きていけない」と指摘。次世代が生存できるかという観点から「日本について、アジアについて、世界について考えるという、普遍的な考え方を私たちがやり始めた最初が今だ」と述べ、福島原発事故が日本人の思想に大きな影響を与えたと強調した。(2012/03/19-06:26)



 ノーベル文学賞受賞者の日本人が、かくも真っ当なことを言ってるのに、その国のリーダーたるべき人たちは、まったく方向違いのことをしようとしてる。大飯原発の再稼働問題は、どこをどうして「政治的判断」にすり替わってしまうのか、不可解極まりない。

 最近は、いわゆる大手新聞の社説を読む気になれないので、地方新聞の中から、賛同できるものを選ぶ。信濃毎日新聞の3月15日の社説を紹介したい。信毎Webの該当記事

大飯原発 政治判断の段階ではない
3月15日(木)

 福井県の関西電力大飯原発3、4号機の再稼働問題が、大詰めを迎えている。

 関西電力が行った安全評価の1次評価結果について、原子力安全委員会が検討会を終え、近く見解をまとめる。

 これを受け、野田佳彦首相や枝野幸男経済産業相らが協議、地元に説明して理解が得られれば政治判断する段取りだ。

 いよいよ最終段階へと足を踏み入れるが、前のめりと言わざるを得ない。原発の安全性について、腰を据えて検証する姿勢を野田内閣に求める。

 首相は東日本大震災から1年の記者会見で、立地自治体や地元への協力要請に関して「政府を挙げて説明し理解を得る。私が先頭に立たなければならない」と強調した。大飯原発の再稼働に向けた決意と受け取れる。

 現在稼働中の原発は、54基中2基のみである。このままでは日本経済の足を引っ張りかねないとの懸念は理解できるが、だからといって再稼働にかじを切ることにはあまりに疑問が多い。

 第一に、1次評価を検証した経産省原子力安全・保安院と原子力安全委員会は、国民の信頼を失ったままである。

 新たな原子力規制庁は、4月1日からの発足が疑問視されている。抜本改革がなされないままことを進めても、国民の納得を得るのは難しい。

 第二に、1次評価だけでいいか、といった疑問がある。

 安全評価は地震や津波、電源喪失などの事態に対して、どの程度余裕があるかをコンピューターで解析するものだ。再稼働の条件となる1次評価と、全原発を対象とする2次評価がある。

 安全委の班目春樹委員長は「2次評価は検討の深さが違う」「安全評価は1次と2次がセット」などと述べ、1次評価だけでは不十分との見解を示している。

 3月末で退任の意向を表明している班目氏が、専門家として最後にブレーキをかけたとも受け取れる。政府は軽視すべきではない。

 第三に、大飯原発周辺の活断層の評価である。保安院が現在、詳しい検討を進めており、3月末に判断するという。想定される揺れや被害にかかわるだけに、丁寧な検証が要る。この点がはっきりしないまま、安全性の判断はできないだろう。

 大飯原発の再稼働をめぐっては、周辺自治体の住民の反対も強い。野田首相は広く世論に耳を傾けてもらいたい。



 地方新聞の社説などに、中央紙では書かない「正論」を見かけることが多く、その時は「まだ、日本も捨てたもんじゃない」と、少しだけ“ほっ”とする。

 信濃毎日の指摘は、私の感覚では、“当たり前”のことを言っている。しかし、朝日、読売、毎日、日経は、必ずしも“当たり前”のことを言っていない。大江健三郎の講演での発言も、私は、ある意味で“当たり前”と受け止めている。

 この“当たり前”と言う感覚を、大事にしたいと思う。

 「電力不足」→「原発再稼働」の短絡的図式が間違っている、という感覚は“当たり前”であろう。

 この“→”の両側に、「資源不足」→「戦争」、という言葉を当てはめれば、そのままほぼ70年前の日本が犯した暴走の図式になるのではないか。「電力不足」→「原発再稼働」には、「日独伊三国同盟締結」→「アメリカの経済封鎖」→「石油他資源欠乏」の後に「戦争(開戦)」という言葉を配置したのと同じような、国家による愚挙のベクトルが見える。

 もちろん、太平洋戦争開戦前の日本には、「八紘一宇」であるとか「大東亜共栄圏」という別な思想的思惑もあったが、国民に耐乏を強いても戦争を肯定させる論理は、食糧を含む資源の不足の打開策としての戦争、というロジックではなかっただろうか。
 そして、陸軍の暴走に始まりマスコミによる好戦的世論の醸成が進み、唯一“当たり前”の感覚で非戦を唱えていた海軍も、米内(大臣)-山本(次官)-井上(軍務局長)という最強ラインが崩れた後には、開戦への“前のめり”のモーメントの強さに崩れて、「やれば必ず負ける」と分かっていた戦争に猛進した。その日本の姿が、「電力不足」→「原発再稼働」の、超短絡的な図式にもオーバーラップして見える。

 何度か同じようなことを書いてきたが、3.11は、われわれの生活のあり方を見直す契機ともしなければならない。毎年毎年、電力需要が右肩上がりになる、という前提が、「“原子力ムラ”の策略ではなかったのか?」と自問することが、今の日本人の責務なのではないか。

 「不足なのか、それとも使いすぎなのか?」という問いかけを含め、これまで当たり前と思っていたことを、「なぜ?」と疑ってかかることが大事なのだ。昨年の夏の節電により、産業界もわれわれ市民の生活においてもさまざまな苦労を強いられたのは事実だが、しかし、何とか乗り切ったではないか。石油や天然ガスを燃料にする発電の割合が増えるからと言って値上げを主張する電力会社の算定基準には、本来当たり前に経費とすべき内容までが目一杯含まれていたことを忘れてはならない。

 その電気料金制度は、若干の改善がありそうだが、根本的には「総括原価方式」そのものを廃止するしかない。北海道新聞の3月18日の社説を引用する。“どうしんウェブ”の該当記事

電気料金制度 算定方法の見直しこそ(3月18日) 

 経済産業省の有識者会議が、電気料金制度の運用見直しについて報告書をまとめた。

 電気料金は、電気をつくるのに必要な燃料費などの原価を電力会社が見積もり、一定の利益を上乗せする「総括原価方式」で算定される仕組みである。

 電力業界と経産省のなれあい関係の中で、電力会社による原価算定の不透明さが指摘されている。是正のメスがようやく入った形だ。

 政府は近く省令を改正し、東京電力が予定している家庭向け電気料金引き上げの査定から適用する。厳格な運用を求めたい。

 報告書で注目したいのは、オール電化の宣伝費や電気事業連合会への拠出金、原発立地する自治体への寄付金などは原価への算入を認めない方針を初めて打ち出したことだ。

 宣伝費などは電力の安定供給に必要な経費とは言い難い。原価からの除外は当然の措置だ。

 報告書には、人件費を原価として算定する際に上限を設け現在より低い基準を使う措置も盛り込んだ。

 電力会社の人件費が千人以上の企業に比べ高いことを考えれば、人件費の圧縮もうなずける。

 問題は、原発の運転状況によって火力発電所で使う燃料の調達量が増えた場合、その経費を値上げに反映させることを認めた点だ。

 原発の稼働停止で東電以外の電力会社も火発への依存を強めている。東電だけでなく、ほかの電力会社が値上げに踏み切る可能性もある。

 燃料費は原価の3分の1を占める。その経費増が料金に反映されれば電力会社の負担が一般家庭にしわよせされることになる。これでは利用者本位の料金改革とは呼べまい。

 政府と電力業界に求めたいのは、制度の根本にある総括原価方式そのものの見直しである。

 同時に国は電力会社が安易な値上げに走らぬよう徹底的な経営合理化を促し料金算定を透明化すべきだ。 新制度下において、値上げ幅の抑制効果が限定的な点も見逃せない。 有識者会議の試算では、宣伝費や拠出金などを原価から除外しても、原価に占める割合が小さいため、家庭向け料金の値上げを抑える効果はほとんど期待できないという。

 東電は東日本大震災後に社員の賃金を2割カットしているため、人件費圧縮の効果にも限界がある。

 今回の運用見直しは、東電の値上げ方針に対する査定が当面の目的で、緊急措置の色合いもある。

 電力会社の高コスト体質や地域独占の見直し、発電と送電の分離などの課題と合わせ、政府と電力会社は利用者が納得できる電気料金制度の改革を加速させる必要がある。



 まったく、真っ当な指摘である。

 さぁ、そろそろ政府並びにお抱えマスコミが、夏の“電力不足”という言葉を声高々に唱え始めるだろう。しかし、当面の業績向上やこれまで甘受した生活の快適さを選ぶのか、それとも、長期的なエネルギーの問題のあり方や、ヒロシマ、ナガサキ、フクシマを経験した日本の今後の世界における存在意義をどこに見出すか、といった言わば“国家百年の計”のどちらを優先するのか、それが今問われるべきであろう。

 フクシマを踏まえていないストレステスト第1次評価など、本質的な安全評価の玄関にさえ辿り着いてはいない。

 もし斑目氏が本気で退任前最後のご奉公をするつもりなら、安全委員会委員長として政治判断にゆだねるなどと逃げないで、先日「安全評価は1次と2次がセット」とマスコミに言っていた通り、第2次評価結果を見るまでは再稼働は認められない、と明言すべきだろう。それとも、退任後に小遣い稼ぎの仕事を“原子力ムラ”から斡旋されていてて、すでに口を閉じさせられているのかもしれないなぁ。このままなら、そう思われても仕方がない。

 信濃毎日の表現を借りれば、政府はあまりにも“前のめり”になっている。この動きは、いったんしっかり踏み止まらなければ、慣性の法則で、どんどんつんのめる。それは、太平洋戦争突入前の日本の姿でもあったように思う。もう“止まれない”、“ブレーキのきかない”状態になっていたのだろう、あの時は。しかし、原発問題は、まだまだこれから議論を進めるべき時期にある。

 大江健三郎の言葉の背景には、世界という空間と歴史という時間を見据えた真っ当な“感性”の存在を感じる。しかし、この国のリーダーたちの発言や行動には、70年前に300万人もの犠牲を払うことになる戦争への見切り発車をした時と同様の“前のめりの慣性”しか感じない。彼らは、懲りずに再び誤った路線を走ろうとしている。

 しかし、国民はヒロシマ、ナガサキ、フクシマを経て、そんな政治の暴走に加担しないだけの冷静さを確実に持っているし、今はアクセルではなく“ブレーキを踏むべき”タイミングであることを、十分に知っている。
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by koubeinokogoto | 2012-03-19 13:52 | 原発はいらない | Comments(0)

人間らしく生きることを阻害するものに反対します。


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