命日を機に、『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』を読む(4)
最終回は、少し復習から。
ユタ大学のジョゼフ・ライオン博士らが、“ユタ州の小児ガン”に関する調査をした際、その期間を次の3つの区分で行ったことはすでに紹介した通り。
Aは、1944~50年の七年間
Bは、1951~58年の八年間
Cは、1959~75年の十七年間
そして、このB期間での小児ガンの発生が、他の期間の3倍だったとの調査結果が報告された。
このB期間には次のように、約百回近くの核実験がユタ州のお隣ネバダで行われていた。
〔ネバダでおこなわれた大気中の核実験〕(公表されたもの)
1951年 11回
1952年 8回
1953年 11回
1955年 16回
1956年 1回
1957年 26回
1958年 24回 合計97回
しかし、B期間を過ぎても発生された“死の灰”は残るし、その後の地下実験においても、いわゆる“ウェスタン3州”は大きな被害を受けていた。
ジョン・ウェインではなく、スティーヴ・マックィーンの登場。
スティーヴ・マックィーンの場合はどうであろう。
彼は世代が若く、デビュー作の『傷だらけの栄光』が1958年に公開されているほどだから、核実験の影響はほとんど受けていないと考えられる。この年を最後に、大気中の核実験はおこなわれなくなったのである。
三州に関係の深い彼の出演作品として、その名もズバリ『ネバダ・スミス』があるが、この映画がつくられたのは1966年である。B期間が終って八年を経た当時すでに、放射能の汚染はネバダの砂漠からあとかたもなく消え、ロケ地は綺麗(クリーン)だったのか。
核関係の書物をひもとけば、
—B期間完了後、ネバダでは大気中のテストが一発もおこなわれず今日に至っている—
と書かれている。しかし、いま手許にある核実験の記録文書(アメリカ合衆国エネルギー省ネバダ作戦事務所、1980年作成)には、『ネバダ・スミス』のわずか4年前(1962年)の7月7日・14日・17日の3回にわたって、“リトル・フェラーリ”、“スモール・ボーイ”、再び“リトル・フェラーリ”が大気中で実験されたと記録されている。
「アメリカ合衆国エネルギー省」の“ネバダ作戦事務所”が作成した資料は次のURLからダウンロードできる。
「アメリカ合衆国・エネルギー省」サイトの該当ページ
本書で述べられているよりも新しい、2000年に作成された資料「DOENV_209_REV15」にも、“Small Boy”と“Little Feller”(フェラーリではなくフェラー、意味は“きこり”)のことが、しっかり“above ground”(地上)と記録されている。
しかし、“Little Feller Ⅰ”が7月17日で、“Little Feller Ⅱ”が7月7日、と記載されているのかが、疑問。単純な記載ミスかもしれない。
いずれにしても、“Slightly”(わずかに)とは書いているが“above ground”、地上(=大気中)実験と記されている。
では、大気中ではなく、地下での核実験なら安全なのか・・・・・・。決してそんなことはなかった、ということをご紹介。
また、最近の地下(モグラ)核実験が死の灰をまき散らさないと考えるのは、早計である。地下テストでは、ヒロシマ型の何十倍、何百倍という巨大な規模の原水爆も使われている。地上で爆発させれば、火の玉一個がさしわたし五キロメートといった、想像もできない巨大なものになる。五キロにおよぶ火の玉とは、どのようなものであろうか。それをわずか地下一キロの位置で爆発させると、その巨大なエネルギーは最も弱い方向、つまり上に向かって集中する。大地を吹き飛ばして死の灰が大量に外にあふれることは、容易に想像がつく。それは、空高く吹きあげる。
1980年になって、ネバダ実験場作戦事務所のマーロン・ゲイツ将軍がウェスタン3州の住民をはじめとする被害者の公聴会に臨んでついに証言したのは、
「これまでの地下テストで、40回にわたって死の灰が外に噴出している」
という恐怖の事実だったのである。
B期間の後にも、ウェスタン3州は汚染され続けたのだ。地下一キロで、ヒロシマやナガサキよりも何倍も強力な核爆弾を爆発させていた実験で、空中に放出された死の灰は、あのハリウッド・スターの身にも降りかかった。
マーロン・ゲイツ将軍への質問部分から。
説明するまでもないだろうが、ストーム(storm)とは“嵐”のこと。「確かに40回なのか」と詰問された将軍は、口ごもりながら、
「色々な実験があって、実のところ自分にもよく分かっていない」と答えた。
環境モニター研究所のリチャード・レスター博士も、
「“レッド・ホット”というテストでは、地上で死の灰を測定しても大したことはなかったのだが、上空のサンプルの中から死の灰が検出された」と奇妙な証言をおこなった。
この“レッド・ホット”が炸裂したのは、『ネバダ・スミス』と同じ年である。スティーヴ・マックィーンはその時、どこに居たか。実は、『ネバダ・スミス』が撮影されたのいは、ネバダ州ではない。実験場“ヤッカ台地”から目と鼻の位置にあるカリフォルニア州の森林公園と峡谷が、ロケ地として使われたのだった。
(中 略)
もうひとつ、スティーヴ・マックィーンにとって不幸があった。地下テストに入ってから、軍部は必ずしもセント・ジョーズ方面を風下に選ばなくなっていた。彼らが望んだのは、風による因果関係ができるだけアイマイになる実験だった。
1970年の“スナパー”というテストでは、噴出した放射能雲が空高く昇ってゆき、北東に向かう風に乗ってソルトレイク・シティーの方角へ走りはじめた。これを飛行機が追跡した行ったところ、140キロばかりのところで見失ってしまったのである。なぜ見失ったか。
飛行機はその位置でストームに出会ったのだった。放射能雲も、そこで乱れてしまったからパイロットを責められない。これは不可抗力による止むを得ない結果だった。だが、なぜストームに出会ったか。
軍部はストームの発生を知り、わざわざその日を実験日に選んでいたからである。死の灰を散らし、問題をアイマイにしようとする意図がわかる。
これが近年の核実験の常套手段になりつつある。
砂漠を背景にスティーヴ・マックィーンの写真を配したポスター。この砂漠はカリフォルニア州の森林公園と峡谷で、撮影中には、地下核実験で空中高く舞い上がった死の灰が、風やストームに乗って俳優たちに降り注いでいたのである。
1980年11月7日に、満50歳の生涯を終えたマックィーンの死因については、『トム・ホーン』撮影中に中皮腫が見つかっており、その原因として海兵隊時代に乗務した戦艦の船室の内装や、趣味のカー・レースの耐火服などに使われていたアスベストの存在が指摘されている。しかし、映画撮影中に降り注いだ死の灰の影響も、決して否定はできないだろう。
あくまで偶然だが、昨日、スティーヴ・マックィーンの映画の吹き替え役であった内海賢二さんが、癌で亡くなったなぁ・・・・・・。
さて、そろそろこのシリーズもエンディングが近づいてきた。
ジョン・ウェインの『征服者』のことに話は戻る。この映画のロケ隊は、ロケ地で災難にあったばかりではなく、ハリウッドに災難をもたらす“お土産”を持ち帰っていた。
『征服者』のロケ隊は、60トンにものぼる土砂を、スノウ・キャニオンからハリウッドのスタジオに持ち帰った。これは単なる土砂ではなく、3年間におこなわれた30発の原爆実験が降らせた、死の灰のエッセンスだった。『征服者』の追加撮影が終ったあと、その土砂はどこへ行ったのだろうか。
土砂はハリウッド一帯に、適当に散布されたのだった。当然のことながら、現在でもその一帯から放射能が検出されている。
そこには華やかな映画スターでけではなく、彼らの家族、名作を生み出してきた名高いプロデューサー、シナリオ・ライター、編集者、デザイナー、作曲家たちが住んでいる。彼らは、あついはロケの現地まで映画スターと行を共にし、あるいはハリウッドのスタジオで、現場をあやつってきた。
この人たちは何も影響を受けなかったのか。
『征服者』が持ち帰った“死の灰”には、プルトニウムやストロンチウムのように、さまざまな発癌物質がまざり合っていただろう。
このうち、プルトニウムは特異な性質がある。プルトニウムから出る放射能は、生体の細胞に作用して、そこから癌細胞を増殖させる力がとび抜けて大きい。
ハリウッドにばらまかれた土砂のなかには、このプルトニウムが大量に入っていた。
それから1984年までに、30年の歳月が流れた。しかし1994年になっても、ロケ時代から四十年である。プルトニウムは、2万4千年経っても半分にしか減らないから、30年後や40年後では、当時から一パーセントも欠けないことになる。99.9パーセント以上が、『征服者』ロケの時代から引き継がれたまま、ハリウッドの大地にあるに違いない。
この文章の後に、癌や腫瘍、白血病で亡くなったハリウッドの映画関係者の名がしばらく続く。
1957年
ハンフリー・ボガート(喉頭癌)—ウラン採掘の物語『悪魔をやっつけろ』に出演した。『カサブランカ』の名優
1960年
ダドリー・ニコルズ(癌)—『駅馬車』以来フォード監督と組み、B期間中に数々のウェスタンを生み出した脚本家
1961年
フランク・ボーサージ(癌)—ユタ州ソルトレイク・シティー生まれの名匠
1962年
チャールズ・ロートン(腎臓癌)—英国の俳優だが、ハリウッドに招かれて数多くの作品に出演した。『情婦』の名優
1963年
ジャック・カーソン(癌)—B期間中に活躍したコメディアン
ザス・ピッツ(癌)—『おかしな・おかしな・おかしな世界』の出演女優
1965年
ジュディー・ハリデイ(癌)—レビューのダンサーとして有名なオスカー女優
1966年
バスター・キートン(肺癌)—チャンプリン、ロイドと並ぶ喜劇王。『おかしな・おかしな・おかしな世界』にも出演
エド・ウィン(頸部腫瘍)—『偉大な生涯の物語』に出演した男優
ウォルト・ディズニー(肺腫瘍)—前記3州ロケ作品のほか、『幌馬車隊西へ!』など数多の西部劇を製作した漫画王
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では、ジョン・ウェイン本人のことについて。
『征服者』の三年後に公開された『リオ・ブラボー』は、史上最も面白い西部劇の一本に数えられている。
「ヘイ・チャンス!」とリッキー・ネルソンが声をかけながら、ライフルをほうり投げる。それを見事に受け取りざま連射したジョン・ウェインの姿は、この映画全体に使われているさまざまの愉快なトリックと共に、忘れ難いものである。
監督のハワード・ホークスは、ゲイリー・クーパーが最初にアカデミー賞を受けた『ヨーク軍曹』、マリリン・モンローの『紳氏は金髪がお好き』といった映画も手がけている。
『リオ・ブラボー』の面白さは、単なる人殺しではなかった。
数々のシナリオ・トリックといずれも忘れられぬ三つの曲、加えて助演者ディーン・マーティンの与太者ぶりとウォルター・ブレナンのユーモアが図抜けていた。この作品でブレナン爺さんがなぜアカデミー賞を受けないのかと残念に思って人もあろう。しかし彼は、すでに『大自然の凱歌』でアカデミー協会に“助演賞”を新設させる名演技を示し、そのあと一年おきに、合計三回も助演男優賞を受賞している。
この『リオ・ブラボー』が撮影されたのも、西部三州のひとつ、アリゾナである。『征服者』のロケと同様、ここでもはげしい砂塵が吹き荒れ、馬が咳きこんでジョン・ウェインの声が聞きとれないほどだった。
『リオ・ブラボー』公開の翌年(1960年)、ニュー・フロンティア精神をキャッチ・フレーズに、大統領選挙でケネディーが劇的にデビューした。
しかしジョン・ウェインはオールド・フロンティア精神を愛し続け、その年、超大作『アラモ』を自ら製作した。
(中 略)
彼がロケ中に『リオ・ブラボー』の馬と同じように烈しく咳きこんだのは、ケネディー大統領が暗殺された翌年(1964年)のことである。しかもその症状は、馬に飲ませたような咳どめでは効かない種類のものだった。
核実験による放射能にまみれたウェスタン三州での撮影で、ジョン・ウェインの体が次第に蝕まれていった。
そして、彼の晩年の姿について。
すでに1964年に肺ガンの切除手術を受けていたジョン・ウェインが、今度は胆のうの手術中に胃ガンを発見され、ほとんど半日近い大手術の末にその胃を切除されたのは、『ラスト・シューティスト』から三年後の、1979年一月十二日のことである。現職のカーター大統領に対して、ジョン・ウェインの支持をバックにレーガン候補が強烈な選挙戦をくり広げている最中だった。
ともかく一応の手術は終り、三カ月後にジョン・ウェインは、アカデミー賞の授賞式にプレゼンターとして姿を見せた。だが、その時、ワイシャツのカラーから出ている首は鶴のように細く、これがあのタフ・ガイであるとは信じられないほどだった。
(中 略)
授賞式の四月九日からひと月も経たない五月一日、腸閉塞のため入院し、今度は腸が切除された。しかしその時、癌細胞が腸に広く転移していることがわかり、さらに大掛りな切除をしなければならないことが明らかになったが、医師はそれ以上の手術を危険と判断した。その結果、ジョン・ウェインの生命は、きわめて深刻な事態となったのである。
五月四日、表面的には、かなり体調の回復はみられたが、ここで彼は死を覚悟したのか、実験的な治療法を試みることに同意した。
翌五日には、カーター大統領が病室を見舞い、九日には、廊下を歩くほどに回復した。
五月の末には、同じガン病棟に暮らしている仲間たちの救済について家族と語り、ガン基金設立を真剣に論じ合った。
だが六月九日、容態が悪化し、翌十日には、昏睡状態と激痛の発作がくり返された。このときジョン・ウェインは、痛みどめの注射をことわった。
注射をすれば、痛みはおさまるが、同時に意識を失うことも知っていたからだ。ベッドのまわりには七人の子供たちが見守っている。
自分には、残された時間があるのだろうか。
プロテスタントからカトリックに改宗し、カトリックの神父を呼んだ。
だが、翌日・・・・・・1979年六月十一日、夕刻五時二十三分、ジョン・ウェインはこの世を去った。
ジョン・ウェインが死の二か月前にプレゼンターとして出演した第51回のアカデミー賞で、彼がオスカーを渡した作品賞受賞作は、あのベトナム戦争を扱った傑作『ディア・ハンター』だった。ベトナム戦争を支持してきたジョン・ウェインは、無言でオスカー像を渡したらしい。
ジョン・ウェインの最後を紹介し、命日から書き始めたシリーズも、これで締めたいと思う。
数多くのハリウッド・スターが癌や白血病で亡くなったことを、ネバダ砂漠での核実験が原因であると科学的に証明することは、非常に難しい。この本をはじめ広瀬隆の著作を“トンデモ本”として非難する声もないではない。“原子力ムラ”から蛇笏のように扱われてもいる。
たしかに核実験は、あくまで“状況証拠”なのかもしれない。しかし、少なくとも、核実験によって死の灰が巻き散らされた空気や砂塵を吸うことは、決して“普通”の状態とは言えないだろう。
憲法改正に関連し、“普通の国”という表現を改憲派は口にするが、“普通”とはいったい何なのか。
本来地球上に存在しなかった放射性元素を核分裂を人工的に起こして作り出し、その莫大なエネルギーを戦争や電力に使うことで、多数の犠牲者を出したり、地震や津波という天災による巨大システムの暴走に怯えて生活することを、私は“普通”とは思わない。
その“普通ではない”状況をしっかり確認していくことは、非常に大事なことだと思う。
つい長くなった今回のシリーズ、お付き合いいただいた方に、深く感謝申し上げます。