柏の通り魔事件、あらためて「コミュニケーション不全症候群」を考える。
これから、大衆週刊誌や、同じマインドのテレビなどが、きっとこの犯人“個人”や家族、特に親の周辺を探りまくり、“こういう家庭で育った、引きこもりのおたく”という人物像を描き出すのだろう。いつものことだ。
しかし、このような事件が起こる背景、真の問題を解決しない限り、同様の犯罪はなくならないだろう。
なぜ事件を防ぐことができなかったのかということを、社会病理の視点から追求するメディアはないのだろうか。
以前に兄弟ブログである「噺の話」で書いたことがあるが、中島梓の『コミュニケーション不全症候群』から引用したい。
2011年3月5日のブログ
2011年3月6日のブログ
中島梓『コミュニケーション不全症候群』
「最後の人間」という章に、なぜ「おタク」や「ダイエット」などを素材として「コミュニケーション不全症候群」というテーマで本を書いたのか、についての本音に近い理由が書かれているような気がする。
もっとずっと重大に見えるたくさんの問題−たとえば環境破壊、地球の汚染、戦争や飢餓がこれほど身近に迫った臨界点をかかえているように見えるとき、なんでわざわざコミュニケーション不全症候群−いうなればほんのちょっとした不適応ないし過剰適応の問題を俎上にあげてまじめに考えなくてはならないのか。
それは警察の機構と似ている。−「犯罪が起こらなくては何もできることはない」のである。おタクのなかのあるものがゆきずりに幼女を殺せばはじめておタクという存在は社会問題となる。が、それはすぐに次の−そう、たとえば、見捨てられている少年たちが女子高校生をさらって監禁し、ついになぶり殺してしまった、というような事件にとってかわられ、人々の関心と有識者の意見とはすぐに、それまでのおタクについての考察から、放任家庭への批判へとうつりかわってゆく。同じように拒食症で20キロになって死に瀕してはじめて、少女たちは多少なりともかえりみられるだけの価値のある存在、つまりは立派な「患者」として扱われるようになるだろう。
本当はそれでは遅いのだが、そういう扱いが幸いにして間に合うことはなかなかない。いや、彼ら彼女たちがそのような、さまざまな異様な症状を呈するにいたったのはそもそも大体が、それほどに−殺人をおかしたり20キロにまで自分自身をすりへらすようなことになるまでに、社会から無視され、かえりみられず、かえりみるだけの価値もない存在として扱われていたからなのだ。社会は彼らをちゃんとした人間として正視しなかったし、彼らもまた自分たちの同類をそうしなかった−彼らの場合はそうするだけの余力はもう残ってなかったのかもしれない。また彼ら自身も社会に対してそういう期待をもつこともなかったのだ。そうするかわりに彼らは自分自身の頭を虚構の砂のなかに埋める−さながら駝鳥のようにだ。そうして何も見ないで生きようとする。
著者が主張したいことを、私なりに箇条書きで整理してみる。
(1)現代社会は、自分自身が安心していられる“テリトリー”が、常に侵害される恐れがある
(2)そのテリトリー外の人とのコミュニケーションが、なかなか上手く行えない傾向にある
(3)いわば「コミュニケーション不全症候群」と言うべき病は、必ずしも“ヘンな人”や
“異常な人“といった特定個人の問題ではなく、現代人がすべからく侵されかねない
社会病理である
(4)そういった環境に過剰適合したものとして、「おタク」や「ダイエット」、そして行き
過ぎたダイエットによる摂食障害などの問題がある。
(5)しかし、こういった社会病理に起因する問題は、特定個人が何か問題を起こしたり、
ニュースになるような事態になって初めて、あくまで“個人”の問題として警察が扱い
マスコミも取り上げるが、本質的な社会病理のことは滅多に話題にならない
(6)重要なのは、その特定個人による“事件”の背景にある社会病理の実態を知ることと、
それをどう解決するかという議論なのである
事件になる前に、彼が“犯人”にならないようにするための、社会のあり様があったのではないか。
彼の“テリトリー”がどのようなものだったのか。そして、彼の“テリトリー”の外とのコミュニケーションを阻害していたものは、何か。あるいは、少しでも外とのつながりがあったのに、いつしか何らかの理由で閉ざされたのか。
たしかに、特定の家庭環境が大きく影響していることは確かだろう。しかし、今日、そういう家庭環境が、特殊なのかどうか・・・・・・。
あえて言うなら、今や、世の中「おタク」だらけである。私だって「落語おタク」と言われるかもしれない。
街にはスマホは見ても、相手の目を見ない子供や大人で溢れている。ゲームに熱中し、チャットやLINEにのめり込む人も多い。ますます「コミュニケーション不全症候群」は蔓延しやすい状況にある。
そして、一人っ子が増えることで、家庭の環境にもよるが、仕事をしなくても食べて行ける二十代、三十代も少なくない。
もし、彼や彼女が、自分だけの“テリトリー”に閉じこもり、そのテリトリーを侵害すると感じる者や物を“敵”とし見做して攻撃することになれば、また“事件”が起こるだろう。
簡単に解決できる問題ではないが、犯人という個人や特定家族のことを攻撃するのではなく、この社会病理をどうすれば治すことができるか、あるいは症状を軽くすることができるのか、そういう議論をしなくてはならないように思う。
まず、特定事件としてではなく社会病理として捉えて議論を始めることからしか、問題解決への道は開けないのではないか。
中島梓が比喩として使っているような、彼や彼女と同じように、周囲の人々も砂の中に頭を埋める“駝鳥”になっていないだろうか。
それでは、彼や彼女が駝鳥のように頭を隠していることが見えようもない。要するに誰もが誰も見ていない、「駝鳥症候群」が蔓延するかもしれない。そこには、ハナからコミュニケーションを図ろうという意図がない。これこそが最悪の病と言えるだろう。
たとえば、私は大震災やFukushimaの復興のために若い力が生きる道があると思っている。かつて寺山修司が言った「書を捨てよ町へ出よう」をもじるのなら、「スマホを捨てて被災地に行こう」とでも言う動きがあってもいいように思う。
ゲームやチャットで得られるよりもずっと上等な快感が被災地の復興支援に見出せないだろうか。あくまで机上の甘い空論かもしれないが、そういったことも含め、「コミュニケーション不全症候群」への処方箋をいろいろと考えないといけない時期にきたような気がする。