ドイツの反原発運動は、“ヴィール”で始まった—高木仁三郎著『市民の科学』より。
高木仁三郎著『市民の科学』(講談社学術文庫)
高木仁三郎さんの『市民の科学』は、1999年に朝日新聞から『市民の科学をめざして』というタイトルで朝日選書の一冊として発行された。
この本を底本として講談社学術文庫から今年3月10日に再販されたのは、うれしい限りである。
「第1部 第2章 専門的批判の組織化について」から、ドイツの反原発運動の歴史について引用する。
独立研究機関の設立ということに限らず、西ドイツで環境や科学技術の問題に関連して、対抗文化的な運動が質的飛躍をとげたのは、1970年代半ばから始まったヴィール原発反対運動を通じてであった。
巨大な資本の力と官僚機関、専門的研究機関の権威の総力をあげて原発建設を強行しようとする側と、体を張って建設を阻止しようとするライン河畔のぶどう栽培農民たちという、この時代の象徴ともいえる図式の前で、1960年代後半に科学や技術、知のあり方などについて、多分に抽象的に問われてきたものが一挙に具体的な形で問われることになった。この状況に敏感に反応した層の中心は、したがって60年代後半の運動に参加した人たちだったといえよう。
ヴィールの原発計画は、バーデン電力会社が、バーデン・ビュルテンベルク州ヴィールに130万キロワット原発二基(加圧水型)を建設しようとしたもので、1973年に建設予定地としてヴィールが決まり、その年から反対運動も始まった。以後74、75、76年と運動は次第に盛り上がったが、政治権力に守られた電力会社側の攻勢も強く、両者の拮抗関係のなかで運動側は大いにきたえられた。ヴィール原発反対闘争自体は、1977年3月のフライブルク行政裁判所によって、原告住民が勝訴して第一段階を終わる(その後逆転される)のだが、そのころには他の原発反対運動の活性化と相まって、単に個別の原発反対という次元を超えた問題意識が生まれてきた。エコロジー思想の広がり、風車づくりなどAT(AT:appropriate technology 適正規模技術)運動、「人民大学」の試みなどがあり、そしていわばこのような対抗文化的な試みからより政治的な結集へと向かった。「緑のリスト」や「アルタナティーフェのリスト」による選挙への取り組み—後の「緑の党」に至る—、といった一連の社会的流動状況のなかで、「独立研究機関」の運動も始まったのである。
その運動のスタートとなったのは、フライブルクのエコ研究所である。
ドイツは、フクシマを見て、短絡的に脱原発を決めたのではない。東京新聞で「四十年戦争」と表現していたが、ヴィールに端を発した反原発運動の長い歴史の上での判断なのである。
ドイツについては、ビール、だけではなく“ヴィール”も覚えておくことが大事なのである。
次回は、そういった一連の運動から誕生した、独立した専門的批判組織について紹介したい。
事実の詳細を調べようと思ったのですが何かご存知ですか。ちょっとググってもみつからないのです。
初めて意見交換会を行なったニュースですね。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140423/k10013953261000.html
こちらの更新が滞っております。次回は週末予定です。