ヘイトスピーチ規制への便乗による、国会前デモ規制は許せない!
しかし、この勧告に便乗して真っ当なデモ行為まで規制しようとする自民党の暴挙は許されない。
東京新聞の社説をご紹介。
東京新聞の該当社説
【社説】
「ヘイト」規制 国会デモにも広げる愚
2014年8月30日
政権批判は耳が痛くても、民の声に耳を傾けることこそ政治家の仕事ではないのか。人種差別的な「ヘイトスピーチ」規制に便乗した国会周辺のデモ活動への規制強化は、民主主義を危うくする。
国会周辺のデモに対する規制強化を検討し始めたのは自民党のプロジェクトチーム(PT)だ。
もともと、ヘイトスピーチ(憎悪表現)への対応を検討するために置かれたが、高市早苗政調会長は二十八日の初会合で、国会周辺の大音量のデモや街頭宣伝活動についても「仕事にならない」として、規制強化を検討するよう求めたのだ。
国会周辺では毎週金曜日、複数の市民グループによる「首都圏反原発連合」が活動している。原発再稼働や特定秘密保護法、集団的自衛権の行使容認などへの反対を訴えてきた。
政権側には耳障りだろうが、デモは有権者にとって意思表示の重要な手段だ。集会、結社や言論、出版などの表現の自由は憲法で認められた国民の権利でもある。侵すことは断じて許されない。
そもそも国会周辺のデモは「国会議事堂・外国公館等周辺地域の静穏保持法」や東京都の条例で規制されている。厳重な警備の中でも行われているのは、法律や条例に違反していないからだろう。
実際、警察庁も自民党に対し、静穏保持法による摘発は年間一件程度と説明した、という。
そのデモ活動と、国連人権規約委員会が日本政府に差別をあおる全ての宣伝活動の禁止を勧告したヘイトスピーチとを同列で議論することが認められるはずがない。
ヘイトスピーチの放置は許されないが、法規制には慎重であるべきだ。治安維持を名目に、表現の自由など人権が著しく蹂躙(じゅうりん)された歴史的経緯があるからだ。
自民党の石破茂幹事長はかつて国会周辺でのデモ活動をテロ行為と同一視する発言をして陳謝した経緯がある。同党の憲法改正草案には表現の自由よりも公益や公の秩序を優先する規定まである。
表現の自由に枠をはめたいというのが自民党の本音なのだろう。在日外国人の人権を守るという理由で、政権批判まで封じ込めようとしているのなら、悪乗りがすぎる。
差別的な言論や表現をなくし、在日外国人らの人権を守り抜くために、品位ある国民としての英知を集めたい。指導者たる者が国家や民族間の対立をあおる言動を慎むべきことは、言うまでもない。
“高市早苗政調会長は二十八日の初会合で、国会周辺の大音量のデモや街頭宣伝活動についても「仕事にならない」として、規制強化を検討するよう求めた”らしいが、この人の「仕事」って何なの?
「政調」会長だろうが、おしなべて国会議員は国民の多様な声を「静聴」することこそ仕事ではないのか。その基本を忘れているから、国民が伝えようとしているのである。
ヘイトスピーチをする人達も、高市のような国会議員も、人間は平等である、ということが考え方の根本に存在していないことがさまざまな問題を引き起こしているように思う。
最近読んだ本の印象的な文章を思い出した。
渡辺京二著『無名の人生』(文春新書)
『逝きし世の面影』や『江戸という幻影』『北一輝』などの著者である渡辺京二へのインタビューを元にした本。『無名の人生』には、いろいろと示唆される言葉がある。
第六章の「無名のままに生きたい」の中の「われわれは地球に一時滞在を許された旅人」から引用したい。
みんな一皮むいてみればただの人間だとは、仏法が説く世界であり、キリスト教が教える世界です。それは、古代インドにみられた一種の共和国「サンガ」の世界でもあって、そこで人間は一人ひとりが独立した存在です。集団のなかの地位であるとか、業績であるとか、権力であるとかは消え去って、宇宙の光が注いでいるだけ。そういう世界こそが真実の世界であることを、昔の人はみんな知っていたのではないか。
そうであれば、誰もが誇りをもって生きられたでしょう。渡し守で一生を終えても、なんの悔いもなかったでしょう。そして、そういう人は今もいるのです。
(中 略)
職業に貴賎なしというものの、われわれは、実際には貴賎の区別はしています。それでも、昔の人間は誇りをもって仕事をしていました。自分の職業に「気位」を持っていたのです。それは、世の中である一定の役割を果たしているという自負であったのかもしれない。しかし同時に、この現世での地位や身分は「仮のもの」であるという考え方もおそらく身についていた。
われわれは、みな旅人であり、この地球は旅宿(りょしゅく)です。われわれはみな、地球に一時滞在することを許された旅人であることにおいて、平等なのです。
娑婆でいかに栄えようと虚しい。すべてが塵となるのですから。金儲けができなくても、名が世間にゆき渡らなくても、わずか数十年の期間だけこの地上に滞在しながら、この世の光を受けたと思えること。それがその人の「気位」だと思う。
“この地球は旅宿”“われわれはみな、地球に一時滞在することを許された旅人であることにおいて、平等”という思いがあれば、他国の人を差別したり、デモの声などに煩わされることはないはずだ。みな同じ旅人なのである。
そして、「気位」という言葉。今のままでは死語になりそうだが、胸に刻むべき言葉のように思う。
ヘイトスピーチをしている人に、そして国政を担う議員たちに、あなたたちは一人の旅人としての「気位」がありますか、と問いたい。